「あまり変なことを教えるなよ」

 身につけていたアクセサリーを外そうと首に回した両の手のひらは、彼のひとまわり近く大きい両手にやんわりと呑みこまれた。そのままイルミの指はペンダントの金具を繊細に外してくれる。ありがとう、と言う暇もなく、あっという間にそれはサイドテーブルの上へ。腕からも首からも、装飾は消えた。私は素足を投げ出して彼のベッドに身を投げる。イルミはその横に、浅く腰掛けた。 イルミのベッドルームにはあの客間のようには光が届かないから、いつだって薄暗い中でランプの灯りが揺れていた。殺風景な室内は淡白でまるで遊びがない。あるのはセミダブルの天蓋付きベッドと、その横にサイドテーブル、大きな本棚がひとつだけ。おまけに本棚に並ぶ本はどれも厳つくてつまらなそうだ。

「私が教えなくても、勝手に学ぶのよ。賢い子だもの」

 最初は、たった一枚のビスケット。まだ五歳かそこらのあどけない男の子が日常的に毒を飲まされ、電流を浴びせられ、様々な暗殺術を教え込まれているような状況下で、誰が彼に同情せずに居られるだろうか。イルミの目を盗んでその小さな手のひらに持たせたビスケットを、キルアは大層喜んでくれた。それが始まりだった。およそ「心」以外の全てのものを何不自由なく与えられていた彼にとって、そんな粗末なビスケットなんてきっと大して魅力的なおやつじゃなかったと思うけど、それでも彼は私からのキャンディーやチョコレートを、無節操な優しさと甘さを、とても欲しがった。ちょうだい、ちょうだい。今日は何を持って来たの?何をくれるの?私の腰くらいまでしか身長のなかった頃のキルアは嬉々として私に寄り添い、私もそんな彼に懐かれることをとても嬉しく感じていた。だけど子供の成長っておそろしいものね。彼はもう、一枚のビスケットで満足したりはしない。甘いものをいくら積んだって、彼の欲望には届かないのだ。

「飼い犬に噛まれた気持ちはどう」

 自分の弟を犬に喩える酷いお兄さん。無表情のまま、仰向けになった私を覗き込むようにして、ゆっくりと頬をなぞる。私はその指を腕ごと押しのけて、口を開いた。

「とても素敵」

 彼は私の欺瞞に気付いている。だって、確かに私はあの子のことをペットか何かのように捉えていたかも知れないから。だとしたら随分と私は無責任な飼い主だ。いやむしろ飼い主の顔をする資格もない。それこそが私の欺瞞。イルミは私がどんなにあの子を甘やかしても何も言わなかった。時が来れば自然と終わる関係だと、とりたてて興味がないようだった。それは私の態度が嘘つきで、しょせん奥底に何も宿していない、不誠実なものだったからだ。そんなものしか、あげられなかったからだ。
 腕を押しのけられたことが気に入らなかったのか、私の言い草が癇に障ったのか、彼は少し乱暴に私の両腕を抑え込んだ。ベッドに身体が沈んでゆく。彼の美しく長い黒髪が滑り落ちて、私の頬に静かに降り注いだ。きっとイルミはもう二度とあの子と私を会わせないだろうと、ガラス玉のような彼の眼を見て思った。

「あの子はもう、」
「もう?」
「男になる」
「まさか」
「私を欲しがった」
「ちょっとした好奇心」
「かもしれない」
「キルに欲しいものなんてないよ」
「そうかしら」

 私はあなたの欺瞞に気付いている。欲望は抑制すればするほど狂暴になってゆくということ、そして人間は人形にはなり得ないということ。どんな手を使っても、決して操作しきれない、残滓があるということ。そんなことを言ったとしても彼はどうせ聞く耳を持たないだろうけど、あなたの過剰な干渉こそが、あなたの欺瞞を証明している。だけどもしかしたらそんな当たり前のことにすら盲目になってしまう何かが。何かがあって。切ない気持ちがそこから泉のように湧いていたとしたら。あの子をペットのように甘やかしてきた私にはない、とても危なくて誠実な気持ちが、あるのだとしたら。

「たまには悪くない。あなた以外の男も」

 彼は何も答えなかった。だからその独り言のような言葉が、どんな意味を持って、どんなふうに届いたのかは分からない。彼の唇が鼻先からゆっくりと降りて、首筋、鎖骨、シルクのワンピースの上から胸と腹部、そして子宮にキスをする。私はそれだけで気持ち良くて、深い吐息を漏らす。今さら恥じらいなどない。イルミに目配せをして上体を少しだけ起こすと彼もまた全てを心得て、私の背中に腕を回して抱きかかえながら、ワンピースのファスナーをゆっくりと下ろした。剥き出しの肩にまたキスがひとつ。正確でソツがなくて、つぶさにくまなく、彼のセックスはまるで点検か検診か何かのようだ。そう思うとなんだか可笑しくて、興奮して、また吐息が漏れた。彼の耳のすぐ横で。

「……お前の仕草や言葉はいつもオレを誘惑してる」

 私を再びシーツの上に横たわらせながら、溜息交じりに淡々とした調子で呟かれたそれは、私の性感帯を効果的に刺激した。けったいな言い方。分析するような口ぶりで、存外にもロマンチックなことを呟く。確かに、そうね。そのための私だもの。そのためだけの私だもの。私の欺瞞があっけなく彼への真実に片付けられる。この瞬間が、たまらなく好きなの。もしかしたらこの一瞬のためにいくつもの嘘を重ねているのかも知れないって、都合良く思い込んでしまうほど。私の人生は嘘だらけ。世界に、他人に、あの子に、自分自身に。だけどこれだけは違う。そういうことにして、今私は、あなたの腕の中に居る。これはいけないことだろうか。
 じかに触れたイルミの冷たい手のひらが、徐々に同じ温度に混ざり合って、波のようにゆるい快感が押し寄せる。どんなひとでも人間は誰しも血が通っているし、ベッドの中ですることも一つしかない。それでもひとは千差万別、蜘蛛の巣のように関係性の糸は四方八方にひろがって、その編みの目がひとつに集束するなんてことはありえないのだろう。

「あなたの愛情って、変なかたち」

 わき腹にあてがわれた手のひらがこそばゆくて思わず小さく笑みが零れた。その不可抗力の表情が、私の考えなしの呟きを一層冗談めいたものにした。彼の指はすぐに核心に触れることを避けるように、私の身体の上をゆらゆらと彷徨っている。酷く気だるい動き。こうやって少しずつ少しずつ恍惚を導いて、最後には私を泣かせてしまうのが、彼のお気に入りのやり方なのだ。ぎりぎりまで追い詰められて、泣きながら懇願する私の表情を見ながら、射精するのが好きなのだ。
 捉えどころのないもの。免罪符のように何かと持ちだされるもの。或いはただの言葉。ただの記号。イメージ。逃げ水。それがどんなものなのか、具体性を求めるのは野暮だし、抽象論で満足するなら愚かしい。私の発した冗談はちょうどその狭間で揺れているように思えた。

「愛情には決まったかたちがあるの?」

 彼の手のひらが下着の上から性器の割れ目を撫でた。あっ、と無防備で間抜けな声が溢れる。彼が微かに眉を顰めるのは、性的な興奮のせいだ。つまり勃起してるってこと。

「ありふれたかたちならあると思う」
「そんなの必要ないだろ」

 オレたちには、と続けたのか。オレには、と言ったのか。囁かれた声は小さく潰れて聞きとることは叶わなかった。見上げれば、澱みない彼の眼の光。歪な誠実がとめどなく溢れている。









THE END

title by Chara