イルミの人差し指と親指のはらが、の指の輪郭をなぞる。一本一本つぶさに彼の指はすべって、やがてその貪欲な好奇心は彼女の左薬指に嵌められていた小振りのダイヤのリングに触れた。そして流れるような所作でそれを彼女の指から抜き去ってしまう。まるで自分の所有物を扱うかの如く。

「これ、オレがあげたのじゃないね」

 小さいながら燦然と光を放つ五十八面体を、イルミはカーディガンにくっついた糸屑でもつまんでいるかのように見据えた。やれやれ、久しぶりに会えたと思ったらこれなのだから。は控えめなパフスリーブに覆われた細い肩をすくめてみせる。イルミの嫉妬はいつも気持ちの良いくらいに直線的で恥が無かった。それはいつでもどこでも条件さえ合えば発動した。条件はたった一つ。他の男の匂い。稀代の殺し屋さんが左薬指の幻想に意味を見出していたなんて驚きね。こんなの単なるアクセサリーじゃない? どこの指につけようったって、私の勝手でしょう。そのリングは私のリング。この指は私の指なのだから。

「こないだデートした男に貰ったの。宝石商の道楽息子でね、私、ダイヤモンド専用の金庫って初めて見ちゃった」
「ふーん……」
「あれだけ沢山あると、希少なダイヤも大量生産のラインストーンみたいだったわ」

 彼女はけらけら笑って、ワインを一口飲んだ。それは二人をつなげた運命の赤い液体。ヴォーヌ・ロマネ・シャルロパン。
 週末のチャイニーズレストランは賑わっていた。そう高級なレストランというわけではないが、伝統的なチャイニーズを今風の創作料理にして提供する洒落た店で、ヨークシンシティ一予約の取りにくいレストランと言われている人気店だ。イルミとは半年ほど前にここで出逢った。その日は美味しい料理にありつくためだけに野暮たい男とデートしていたのだが、食事中にその男と些細なきっかけで激しい言い争いになり、とうとうその男に勢い良くワインをぶっ掛けるに至った。イルミはそのとき、彼女の怒りのとばっちりを受けた被害者である。だいぶ見境のなくなっていた彼女の手元はとち狂い、隣の席で仕事の依頼人と食事をしていたイルミにグラス半分ほどのシャルロパンが降り注いでしまったのだ。これが二人のファーストコンタクト。最悪な偶然の末路。けれども結局、その日のうちに二人は結ばれた。イルミもも相当極端な性格で、二人は出逢ったその瞬間から引き合う磁石の両極同士のようなものだったのだ。
 一夜を共にしてから、イルミは彼女に自身の職業について伝えた。は彼の告白を聞いて、「私、人殺しとファックしちゃった!」とお腹を抱えて大笑いした。狂い方はどっちもどっち。以来、二人は月に一、二度ファックする間柄である。

「デートって。寝たってことだろ」
「そう思うの?」
「君のことだから」
「あら。物知りなのね、イルミは」

 すごーい。さすが。が手を叩きながら茶化してそう付け足すと、イルミはとうとう彼女の目の前でリングを捻り潰し、接合の取れたダイヤモンドをそれこそ糸屑のようにポイと投げ捨ててしまった。彼女のもとに返ってきたのは無限大のかたちにひしゃげたゴールドのリングだけ。なんてこったい。数百万のアクセサリーが一瞬にして出来損ないの知恵の輪になってしまった。彼女は無残なその輪っかをしばらく呆然と眺めていたが、どうしようもないのでイルミがやったのと同じように指先で弾いてリングを捨てた。

「気に入ってたのに」

 男の顔なんてもう覚えちゃいないけど、ダイヤモンドの輝きに罪はないでしょ。惜しむ気持ちが僅かでも混入したのがいけなかった。自身の切なげな声がまたイルミの嫉妬心を刺激してしまうこと、は知らないわけではなかったが、まだその深さを測りかねていた。出逢ってから半年が過ぎたが一緒に過ごした時間はそう長くない。イルミは人を殺すのに忙しく世界中を行ったり来たりしていたし、も数多の男とデートするにはそれなりに忙しくしなければならなかった。大都会ヨークシンシティをふらふらと気まぐれに飛びまわり、好みの男を目ざとく見つけては、優雅に美しい羽根をひろげて自分の安らかな止まり木にしてしまう。もちろん失敗は幾多あれど、正しいとか、洒落ているだとか、楽だとかではなく、はそういう生き方が自分に最も合っていると思っていた。だからこそタチが悪い。彼女にとっては倫理も、流行も、合理性もどうでも良いことだ。私があなたを気に入るか、あなたが私を気に入るか。彼女の関心事は専らそれだけだった。
 イルミ=ゾルディックはどうやら世間的に見れば凶悪犯罪者みたいなものらしいが、それが彼女の倫理的関心(そもそもそんなものはあるのか?)に結びつくことは決してない。但し全くどうでもいい事実というわけでもない。むしろ極めて重要な事実だ。若くて美しい殺し屋さんと食事をする、ホテルで寝る、朝を迎え、そして切なく別れる。死の匂いは絶えず恋人同士のありふれた情事を飾っている。あなたが殺し屋“だとしても”好きなのではない。あなたが殺し屋“だからこそ”好きなのだ。

、これ持っときなよ」

 イルミはポケットから一枚のカードを取り出し、前菜に頼んだ香味野菜とカツオのサラダを取り分けているの手元に置いた。しょうがないな、とでも言うように溜息をつきながら。彼のポケットから出てきたカードは、マットな黒一色で、ホログラムとクレジットカード番号の金文字が浮き出ていた。チョップスティックを慣れた手つきで扱っていたの手が止まる。見上げて確認したイルミの目元は涼やかで、なんでもないというふうに伏せられていた。彼の冷たい表情は迫力がある。ほんとうの無表情を出来るひと。そこには一つの曖昧な思惑も無いのだ。

「……何これ」

 眉を顰めてはそう呟いたが、イルミは彼女の声に向き直ろうとはせず、窓の奥にひろがるきらびやかなヨークシンの夜を漫然と眺めながら口を開いた。

「それで何でも好きなものを買ったらいい」
「これはイルミのでしょう」
「何枚も持ってるし一枚くらいあげる」
「要らない」
「何今さら、かまととぶって」

 かまととぶる!? そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。だいたいブラックカードを一枚、ハンカチでも渡すような素振りで与えられて、にこやかな笑みを湛えて私が喜ぶとでも思っているのだろうか。それとも怒らせたいのか? 傷付けたいのか? 全く、生粋のサディストのやることは分からない。今夜ベッドに入るとき、もしかして私、目隠しと手錠なんかされちゃったりして。SMプレイってそんなに善いものなのかしら。

「私ねぇ、贈り物されるのは大好きだけど、金持ちになりたいわけじゃないの」

 はブラックカードを指先でつまむと、それをイルミのワイングラスの中にぽとりと落とした。ボルドーの浅瀬に暗黒の富が半分ほど浸かって、それはそれは間抜けな光景だった。美味しいチャイニーズは大好き。ダイヤモンドも好き。ホテルのスウィートルームも好き。私のために贅を尽くした全ての贈り物を、私は平等に心地良く受け取るだろう。だけどお金って、嫌いなのよね。お金を沢山持つって、とても貧乏臭いんだもの。そんな貧乏臭いことよりも、私には単なる貧乏のほうがよっぽど性に合っている。あなたに人殺しの才能があるように、私にもひとつ才能があるのよ。貧乏でも贅沢をすることのできる才能。こんなカードを持っていたら、私の才能が死んでしまうわ。

「じゃあ、オレ以外の男から物を受け取るのはやめてくれない」

 皮肉に満ちたの物言いにも、イルミは全く無頓着な様子だった。動揺もなければ悔恨もない。彼はそう言い放ち、カードをグラスから掬いあげると、いつもの調子でウェイターを呼びとめ新しいワインを頼んだ。そもそもイルミは彼女の生き方になど特に興味もないのかもしれない。うむむ、そうきたか。は我侭な困ったさんをちらりと盗み見る。黒のボタンダウンシャツに、手首にはいくつかのシルバーのブレスレッドと、嫌味にならない簡素なデザインのアナログ時計、長髪は珍しく無造作に後ろでまとめられ、肩に落ちた後れ毛がアンニュイな色気を醸している。どこからどう見ても良い男。なのに、ねぇ。彼の心の片隅にはまだ男の子が住んでる。二十四歳の男の子。まあ、それも悪くはないのだが。

「それって独占欲?」
「違うよ。愛」
「わあ」

 あまりにも愛しさとは程遠い表情で彼が平然と愛を口にしたせいで、は奇妙なおそろしさに襲われた。言葉にはほんとうは意味なんて無いのかもしれないと思った。イルミの指先が再びの手指に触れる。好き勝手にのたうつ意味よりも速く。急いた言葉も行為も、性悪な意味など待っていないのだ。足の遅いそれがずる賢く言葉と行為の前へと躍り出るとき、彼の口にする愛とやらも、きっと砂の城のようにはかなく消えてしまうのだろう。

「君を愛してる。オレだけの物で居てほしいんだ」

 あなたって自分の矛盾に全く気付いてないのね。そんなところが最高にキュートだけど憎たらしいの。いじめられるふりをして、いじめてしまいたくなるの。
 ねぇイルミ。それが愛なら、ノーサンキューよ。ファックユー。









THE END