「仕事は?」
「今日はもう終わり。なんか、人気の試合があるみたい。みんな観に行くからって店閉めちゃった」
「ふうん。どんなの?」
「知らなーい。格闘なんて興味ないもん」

 間抜けなほど大きな、あっけらかんとした声のせいで、彼女の無関心はより一層むなしく空回る。格闘なんて興味ない。その響きに応じるように、喉の奥がぞわりとうずくのを感じた。風邪? 違う。けど、病ではあるかもしれない。
 人の部屋に入ってくるなり、は服を脱ぎながらバスルームに直行し、勝手にバスタブに湯を張りはじめた。自分の部屋にだってちゃんとシャワーがあるだろうに、彼女は肩までしっかり湯に浸かりたいがためにいつもオレの部屋の浴槽を借りにくる。もっとも、「借りにくる」なんていう謙虚さがあったのは最初の一、二回だけだったが。こないだなんてタオル一枚で下着もつけずにバスルームから出てきて、そのまま部屋中うろつきまわり、あげく冷蔵庫に飲み物がないから買ってきてとオレをパシらせやがった。なんという、厚かましい訪問! それでも今日もまた、ドアを開いてしまった。受け入れてしまった。しかもそれは決して妥協などではなく、むしろ厳密な選択だった。

 天空闘技場。ここにはひとつの街がある。というのは大袈裟かもしれないが、わざわざ外へ出て行かなくてもここで生活に必要なものは大概手に入った。何十階分ものフロアを貫く吹き抜けの高い天井、差し込む太陽光、植木の緑、街路みたいに舗装された廊下、道行く人々、大小さまざまなレストラン、売店、服飾店、薬局、歯医者、床屋等がずらりと軒を連ね、娯楽施設ではテニスと水泳と映画が楽しめたりもする。まさになんでもあり。そして何より、この場所には彼女の朝と夜が、刺激と退屈が、日常と労働があった。彼女にとっての、全宇宙としての。

「ねー、キル、新しいバスタオル使わせてもらうね」

 鼻歌交じりの声が、バスルームの開けっ放しのドアのほうから飛んできた。オレは大声を出すのが億劫で、絶対に彼女には届かないようなか細さで「ああ」と呟いたのだけれど、彼女にはきっと沈黙が了承の合図として届いたはずだ。
 運命は再会するということなんだって、昔の映画で、誰かが言った。誰が言った。そんな曖昧なこと。オレの銀色の髪は、なるほど確かに珍しいのかもしれないが、彼女のひっつめた栗色の髪は、おそらく誰の記憶にも残らないありふれたものだろう。勝手に姉さん面されても鬱陶しいだけだ。大きくなったねぇ、なんて月並みな馴れ馴れしさで頭を撫でるなよ。そんな存在ならもう、オレの周りにはたくさん居たよ。自惚れや自慢なんかじゃない。愛されている人間はその愛を恨んではいけないの? 無条件に感謝しなくてはならないの? 愛なんてたいていが言い訳の産物なんだろ。贅沢だと咎められるのも、不憫だと慰められるのも、どっちに転んだって惨めでたまらない。だって理解されること以外に幸福ってどこにあるんだ。それ以外のかたちなんて、思いつかない。あるわけない。……そんなもの。

(理解することの、幸福なんて、)

 ―― ……なぁ、その呼び方やめろよ。
 ―― 何、いきなり。良いじゃん。かわいいし。

 キル、キル、キル、キル、キル、キル、キル、キル。彼女は執拗にオレをそう呼ぶ。キル、キル、キル、キル、キル、キル、キル、キル。声ってのは厄介だ。耳にも瞼のように簡単にそれを塞ぐことの出来る器官がくっついていればいいのに。拒めない。抗えない。拭えない。がんじがらめの声の呪縛。

 ―― ……家のこと、思い出す。

 自分の限りなく愚かな発言にも、それを聞いて笑い出したにも、最大級の苛立ちがつのった。そしていつの間にやら、オレはの首に手を掛けていた。しなやかな身体がいとも簡単に倒れていく。まるで芝生の土手に仰向けになっていたみたいに沈んでいく。もちろん、そんなのどかな多幸感は皆無だったけれども。指先に少し力を加えるだけで、ひとの魂は奪われる。奪われた魂はどこへ行くのだろう?ふつう、奪われたものは、奪ったひとのものになる。だけど、こればっかりは別だ。オレのものになんかなりはしない。例えばオレが、彼女の魂を奪ったとして、オレのもとに残るのは魂ではなくむしろ抜け殻の肉塊のほうだ。端的に、誰の手からも、奪われていくもの。そんな存在、認めた覚えなんかないのに。いつから在るって、思っていた?

(いいかい、キル。意識なんてものは迷信なんだ。人が自由に行為しようとするとき、実はその0.5秒前には脳が行為の準備を始めてなくちゃならない。脳の信号は紛れもなく意志に先立っているんだよ。お前に命乞いしたその人間の最期の言葉が、魂を拠り所にして出てきたものだなんて思うな。人間そっくりのアンドロイドを壊したことと、そいつの心臓を取り出したこと、どうやって違いを証明する? 出来ないだろう。キル、お前は利口だから、兄さんの言っていることが、分かるね)

(分かる。分かってる。でも目の前の、このひとは。このひとは? ねぇ、)

 ――君の名前を呼んでいるのは、私なんだよ。



 バスルームのドアにはロックが掛かっていなかった。勢いに任せて開くと、湯気の湿ったぬくもりが肌という肌にまとわりついてきた。はいつもの呑気な様子で、猫足のバスタブに浸かっていた。切れ切れの貧相な泡がかろうじて彼女の身体をぼやかしている。諦められない諸々が、弱さを植え付ける。植え付けられた弱さに縋って生きているような気がする。弱いって、いいな。ちゃちな光ほど安心するから。じゆうなこころ。ぐうぜんのであい。こいしいひと。ぼく。

「キル?」
「……ごめん、」
「何が? いきなり入ってきたこと?」

 なにひとつ分かっていないのか、それともすべてを分かっていてはぐらかしているのか。その微笑みは、砂漠の真ん中の水たまりのよう。たったひとつの目印。それでいて、いつ無くなるとも知れない、危ういオアシス。
 彼女が突然、えいやとバスタブの水面に浮かぶ泡を蹴り上げた。飛び散る泡と水しぶきに目を細めたら、白熱電球に照らし出された彼女のびしょ濡れの足指が、遠く滲んで視えた。
 その光る親指まで手を伸ばせるか。それをほんとうに掴めるか。なんなら、今すぐ試してみてもいい。バスルームのカビ臭いタイルに跪いてしまう前に。









THE END