――カルトを見詰めていると堪らなく愛しいという気持ちと、堪らなく憎らしいという気持ちが湧いてくる。お母様が嬉しそうにあの子の手を引いていると、なんだか嫌悪感で気が狂いそうになるのよ。
イルミは昔々のの言葉を思い出の中から引っ張り出してきて、なんとか自分の欲望に蓋をしようとする。付け焼刃の応急処置に過ぎないが、それでも未来という不確かさを仰ぐよりかは過去という確かさに縋るほうが幾分かましなのだった。
――お母様が欲しかったのは女の子であって、私ではなかったの。知ってる?男女の双子って心中した恋人たちの生まれ変わりなんだって。
隣で疲れ果てて寝息を立てている双子の片割れの顔をイルミはまじまじと見詰めてみた。自室に彼女を連れ込む際に少々の暴力を使用してしまったせいで彼女のきめ細かな肌にはところどころ傷が見受けられた。(この女を容易く傷付けられるのはオレくらいのものだろう。)つまらぬ優越感がまた彼の欲望の水槽をほんの少しだけ嵩ますが、そもそもこの水槽はひび割れだらけの欠陥品である。一生、決して、充分に満たされることはないだろう。そのことはイルミ自身が一番よく知っていた。
イルミとは双子としてはあまりに対称性に欠けていたけれども異性の兄妹としてはよく似ている方だった。髪質、髪色、アーモンド形の鋭い目、陶器のような白い肌……それらはどれもこれも麗しの母親から譲り受けたものだったが、当の二人の母親は彼らを産んでしばらく「彼らが双子であること」や「彼らが黒髪であること」を気に病んで寝込んだという。能無し執事たちの不用心な世間話がそれを教えてくれた。自分たちが望まれた命ではないのだと考えることは、二人にとっては殺人という行為をより淡白で味気ないものにする呪いのようなものだった。彼らにとって無用な殺人など有り得ない。なぜなら彼らが人を殺すとき、少なくとも彼らは目の前の命を「望んでいない」、つまり目の前の命の消滅を「望んでいる」のだから。さて、この論理は間違っているだろうか?
――あの子の存在は私の存在を否定する。だけどあの子が居なくなったところで私に価値が見いだされるわけでもない。むしろあの子のもたらす否定が私に幾ばくかの自由を与えてくれているのかもしれないわ。
娘が欲しいだけならばその願いは既に叶っている筈なのに、母親はカルトを女装させる欲望に未だ憑りつかれている。本当の娘には目もくれず、末息子に唯一の娘の役を与えて恍惚を得ているのだ。ひょっとしてこの穴だらけの欲望は母親の遺伝子ではなかろうか? 血とはかくも、怖ろしきかな。考えてみればの本収集に傾ける情熱も常軌を逸したものがある。彼女の部屋ときたら、今や本を踏まずにベッドに辿り着くことさえ出来ないほどの散らかりようなのだ。
彼女はどんな本でも手当たり次第読んだが、イルミの見たところ小説を特に好んでいるようだったし、カルトに貸し出す本もどれもこれも虚構たる物語小説だった。何故は小説を読むのか。何故はカルトに小説を読ませるのか。小説は有り得なかったことを有り得たこととして語る。非存在をあたかも存在しているかのように語るのである。「女」になれなかった女と、「女」になってしまった男は、どちらも無為で不完全な非存在なのかもしれない。透明人間の身体に色づけを施す鮮やかなパレットがどうしても必要なのだ。あやふやな非存在を無数の言葉で包み込み、表面を仮初の観念で覆い尽くし、「私」という虚しさを隠すこと――小説の役割はさしずめそんなところだろう。
とすればイルミが兄弟の中で唯一銀髪を持って生まれた弟のキルアに耽溺するのも、の小説への飽くなき羨望と近いのかもしれない。なぜならイルミにとってキルアはまさに「有り得なかったことが有り得たこととして語られている」存在そのものなのだから。けれどもキルアは兄の過剰な干渉を疎み、この家をなんの未練もなく出て行ってしまった。それは決して絶望的なことではなくむしろ祝福すべきことかもしれない、とが持ち前の奔放さで発した慰め(あるいは挑発か?)はイルミの神経を酷く逆撫でたし、そのせいではイルミに一週間ほど軟禁される破目に陥った。(本なんていう逃げも隠れもしない存在に夢中になっている人間が分かったような口を聞くな。)イルミは目の端から血を流す彼女に向かってにべもなく言い放った。は、イルミが真っ赤に見える、と言って力なく笑った。だからイルミは血の涙を丹念に舌先で拭ってやったが、あと少し彼のねじが外れていたならば、彼はの眼球を噛み砕いてしまっていただろう。
(心中して血縁に生まれ変わるなんて愚かな恋人たちだ。もう一度心中したくなるだけじゃないか。)
イルミは双子の片割れを乱暴に揺り起こした。そして彼女のだらしなく開いた唇に、繋がろう、と囁いてするりと舌先を忍ばせた。はしばらく音も無くまごついたが、同じ環境に生まれても性の違いが自分を被支配者の側に振り分けるのだと学んでいたから、あまり抵抗にも身が入らなかった。逆に言えば自分が被支配者に陥るのは女だからなのだ、それだけのことだ、とも思っていた。とはいえ生まれ落ちたその瞬間から女であることを疎ましがられていた彼女は、今更実の兄が女への片道切符を眼前に振りかざしたからと言って、それを涎を垂らして渇望するようなけちな真似はしなかった。(私は誰に必要とされなくとも女だわ。)茜色の光がステンドグラスの天窓から射しているのを、はイルミの肩越しに見た。世界は二人の頭上で火花を散らして燃え上がっていた。
「……あなたって同じ血を持った人間しか愛せないの」
イルミはの口の端に溢れた唾液を食べるように舐めた。この家は感情のるつぼである。イルミにとって感情とはこの家にまつわる一切の心的事象のことであり、それ以外の世界に向けられた注意は単なる機械的な認識でしかなかった。何もかも見落とすし、そもそも見るに値するものでもない。それにこれは別段、珍しいことでも奇妙なことでもないだろうと彼は思っていた。誰だって意味無きもの、無価値なもの、不必要なものを神経中枢に届ける術など持たないのだから。彼の場合たまたま(そうそれは一つの偶有性として)感情の受け取り口がこの家であったというだけで、人はそれぞれ自らの「感情の家」を大なり小なり持っているのだし、結局はその家から逃れられないものなのだ。人は変われない。変わったと思い込むことが出来るだけだ。
「別に。家族を愛しく思うのは普通だよね」
「普通? あなたが『普通』を語るなんて」
が肩を震わせてきゃらきゃらと笑うと、そのせいで彼女のキャミソールの細い肩紐が滑り落ちた。それは秋を迎えた木々が香ばしく色づいた葉を一枚一枚落としてゆくのと同じくらい自然なことで、イルミにはなんの感慨ももたらさなかった。は笑みを残した表情のまま片腕を首の後ろに回し、華やかに長い髪を胸の前に流す。すると横から覆い被さるようにしてを拘束していたイルミの滴る黒髪とそれは混じり合って、二人を静かに結びつけた。ずり落ちた肩紐とは違って、この眺めには幾分かイルミの胸を詰まらすものがあった。彼はしばらく――ただその漆黒の結び目を見ていた。やがて落ちていく夕陽が感傷を拒むように彼らの黒をうやむやにしだしたので、イルミはようやくの脚を開かせその奥へと自身を沈めた。繋がろう、という宣告通りに。
「『普通』ってとっても難しいことなのよ。こんなことをしてても『普通』だって言うの? お兄様」
茶化すように付け加えた「お兄様」の響きに、は空虚な自我を隠す言葉の効用をはかなく込めた。多くの人間は普通であることを凡庸であることと重ね合わせているが、の考えでは二つの概念は全く質の違うものである。普通であるということはむしろ非凡なことなのだ。人間の愚かさは、彼女によれば自らの「凡庸」を認めずに自らを「普通」だと信じていることにある。そんな美味しい話などあるはずないのに、人間は強欲だ。
「お前は逃がさない」
(お前だけは。)手のひらで彼女の体温を掬う。所有しているという感覚を得るには、イルミの経験上それが手元にあるということが第一の、最も重要な条件だった。たとえ針が自身の手のひらあるいは指先の延長として機能したとしても、じかに触れている感覚とは程遠い。対象が手元から遠ければ遠いほどそのぶん快楽は退き、面倒が増える。念能力で言えばそれは制約と誓約と言ったところだろうか。馬鹿馬鹿しいことだ。イルミはあの銀髪をはっきりと手にしておかなかった自分を呪いはしたが、一己の人格を支配するということに不可能性を感じたことは一度も無かった。所有できぬものがあるとは彼は考えなかった。なぜなら何ものにも所有されていない何かを、想像することが出来なかったからだ。
しかし本当は、手元に置く以外にもう一つ、所有の感覚を手に入れる方法をイルミは知っている。実行できるかどうかは、別だけれども。
「ねぇ……双子でも産んでみる」
――あなたの精子と私の卵子なら、私たちそっくりの男女の双子しか産まれないと思うの。これは確信。望まれない命を繰り返すのよ、私たち。
は喉仏を晒して夢見るような口調でそう言った。繋がれたままの二人の下半身はそれなりの熱を帯びるし、そこにはそれなりの性感というものがあって、為した後にはそれなりの愛が芽生えている。繋がる前と繋がった後の些細な、けれどもはっきりとした愛の違いは、二人をいつも沈黙させた。はイルミを愛していたが、それは今まで反射としての認識でしかなかった。つまり彼がミルキと一枚のビターチョコレートを半分こしていたとき、カルトの着物の帯を締め直していたとき、幼いキルアが泣き喚くまでその唇に唇を重ね合わせていたとき(彼は平気でそういうことをする)、彼女の中には今日の夕焼けのような真っ赤な嫉妬が渦巻き、それゆえにイルミへの愛を知った。しかし今となってはそのような認識のほうが難しいのだ。(どうしちゃったンだろう。)直射と直射同士の愛がぶつかり合う音が、沈黙の内に二人を酷く狼狽させる。
それはマッチの弱い火を水差しの中に放り込んだときの、じゅ、というあっけない音によく似ていた。
哀しい愛の音だった。
THE END
2012.2