その昔、四歳の幼い器のなかにそれぞれの個性を授かったころ、心操人使のとなりにいた少女は彼の個性を「さみしがりやさん」だと言った。だって、誰かにお話してもらわないと、出てきてくれないんでしょ。あっけらかんと笑って、励ますような手つきで、ひとりぼっちの背中をさすりながら。今も心操のみぞおちのあたりに、ずっと引っかかり続けている厄介な言葉だ。思いだすにつけ、心操は有無もなく心を縛られる感覚の、そのどうしようもなさに苛まれる。言葉とは本来、そういう味気があってしかるべきもの。心に根を張り、巣食うもの。この手に握りこまされた個性を「さみしがりや」だと言うのなら、それは常に誰かを欲するだけでなく、誰かを奪いとるものだから。自分からも、その誰か自身からも。

「テレビつけてもいい?」

 申し訳程度に疑問符のついたあいまいな問いかけに、心操が応えるいとまなんてはなから用意されていなくて、言葉の端を待たずして32インチの液晶テレビは仄かに青白い光をともした。

 平日の午後七時。はアパートメントのとなりの部屋の住人で、三人きょうだいの末っ子のご身分ではなかなか目当てのテレビプログラムにありつけない。どうしても見たいものがあると、共働き家庭の幼なじみを頼って、いつもこの部屋に転がりこんでくる。一体今日はどんなくだらないバラエティ番組を見せられるのか、はたまたアイドル歌手の揃ったやかましい音楽番組だろうか。嫌気のさした心操の目に映ったのは、意外にもお堅い公共放送の全国ニュースだった。今日のトップニュースは、季節外れの台風の軌道について。あぁ、とがもどかしいような、残念なような声をだして、リモコンを床に置いた。

「今日、ベストジーニストの派手な大捕りものがあったでしょ。ニュースでやるかなって。さっき友達からメールがきて、六時のニュースでやってたらしいんだけど、わたし見逃しちゃったから……」

 ダイニングテーブルいっぱいに資料をひろげて明日提出のレポートを仕上げていた心操に向かって、は振り返りもせずにぺらぺらとお気に入りのヒーローの話をする。悪意のない前のめり。聞いてもないし興味もないことを畳みかけてくる、一方的な会話。慣れ親しんだぶしつけだけど、今日はどうも僅かばかり勝手が違う。彼女の不具合に心操はすぐさま気がついた。気づいたことに気づかせるべきか、気づいてないふりをすべきなのかは、多少迷いはしたけれども。
 そもそも無体なのは彼女のほうだ。心操はの後ろ姿に視線をうろつかせながら、耐えきれないため息をひとつこぼす。そういう関係のはざまに立たされて初めて、自分がことのほか義理がたい性分なのだと思い知らされた。器用に、もうすでに失われてしまったはずの「今まで」を再生する彼女に、心操は畏怖の念すら覚える。すげーわ、こいつ。仮初のはりぼてだろうと、俺にはできない。これからのことで、朝から晩まで頭がいっぱいだったのだ。


「ん」
「俺、課題やってんだけど」
「うん。すぐ消すよ」
「音量下げて」
「充分小さくない?」
「テレビ消して、俺の膝の上においで」

 さみしいの?
 一昨日の晩、は尋ねた。目の前になにか、その形容詞に値するできごとがあったわけじゃない。二人でクリームシチューを食べていた。夜勤の母親の愛情ゆえに、週に二度はカレーかシチューの二択を迫られる。ごろっとした人参をほおばってから、心操はスプーンを置いた。
 さみしいよ。
 の問いに、心操はなかば無意識の領内でそう答えた。滅多にお目にかかれないようなの神妙な顔つきをテーブル越しに見やって、自分の素直さを恥じる。かたちのない問いに、まっとうにかたちのある感情を返してしまったのだ。
 なんだ、さみしいよ、って。
 さみしいよ、なんて。
 四歳児のガキだって、もう少し取り繕った答え方をする。

「はい、ひっかかった」
「……あ、」

 の重みを膝の上にしかと確かめてから、心操はのひたいを少し力を入れて小突いてやった。薄い夏のワンピースごしに、彼女はひたすらやわらかい。今も昔も、昨日も今日もなく。の頬に淡い色がさして、懐かしい悪戯の成功を物語っていた。

「いきなり個性つかうのやめて!」
「使わせたのはそっちだろ」
「言ってくれたら分かるのに、」
「だから、おいで、って言っただけだけど?」
「……! もう、口きいてあげない」

 さみしいだけの獣にならないように、が心操の手綱を引きながら、二人はおそるおそるソファの上へと移動した。一時間後、キッチンに並んで、冷たくなってしまったシチューの残りを一緒に片付けながら、お互いに相手の顔を見ることができなかった。起き抜けの朝のような口ぶりで、童話でも朗読するようにがロマンチックな告白をするのを、心操は押し黙って聞いていた。

『ふわふわするの。頭の中が光って、白くなって、でも、煙とか靄みたいな鬱陶しい白じゃない。誰にも踏まれてない雪原だとか、砂糖入りのホットミルクだとか、五月のハナミズキの花だとか。そういう白だよ。だから、こわくない。全然、こわくなかったよ』

 心操は一言一句違わずにその言葉を反芻できてしまう。一昨日、彼がありついたのは、正味、の未熟な身体なんかじゃなかっただろう。幼いころを思いだしてみれば、はいつも、心操のかっこうの実験台だった。彼女も、彼につたなく操られているときの、独特の浮遊感が好きだった。だけどある日、その密かな遊びを親に見つかってしまったときの、怒涛の叱られようと言ったら。あれほどの雷が落ちたことは、後にも先にもない。心操は学んだ。ひとの心の自由を打ち消し、四肢の動きを掌握することは、それ自体が忌み嫌われる能力なのだと。

「いいよ、別に。から声引き出すなんて簡単だから」

 教えてくれたのは一体どちらか。書きかけのレポートを放りだして、心操は膝に乗っていたをそのまま腕に抱きかかえた。かたくなに結ばれたの唇を、どうやって抉じ開ければいいか。わたしを操ってみせて、昔みたいに。昔、遊んでくれたみたいに。沈みゆくソファの上に落ちたのおかしな提案が、心の染みをひろげていく。ひとの心は混沌。深遠にメスを入れたとしても、こちらから首をつっこめるわけじゃない。その裂け目から何が飛びだしてくるかは、誰にも預かり知れないのだ。

 そんなばかなことできるか、と言うはずが、声にならなかった。惹かれてしまったのだ。応答がなければ成り立たない行為に。

 長年の禁忌からいちかばちか這いだして、二人はようやくあの分別のつかない幼い平和な日々に戻ったようだ。従順と奉仕と征服と童心のないまぜになった世にも愉しい遊びを、もういちど二人で掘り当てた。ついさっきまで聞かぬ気だったのが嘘のように、の瞳は、期待を隠しきれてない。お前、最初からそのつもりだったろ。心操が苦笑すると、彼女は不敵な目くばせをして、腰のリボンを自分からほどいた。









THE END

2016.6