二人、出会った日のことを思い返すと、わたしはいつも笑ってしまう。

「噛みついてくるかもしれないけど、ごめんね。そういうひとだから」

 十年来の幼なじみを初めての彼氏に会わせる前置きとしては、ずいぶんと奇妙だし、物騒だとも思ったけれど、それが、ものの数分後には確かな納得に変わっていった。聞き役に徹していたわたしが噛みつかれることはなかったが、少し共に時間を過ごしただけでも、爆豪勝己という男の目つき、その口ぶり、その振る舞い、言うに及ばず。だけど、そのとき何より納得したのは、自分がここに呼ばれた当の「わけ」だ。彼、雄英のヒーロー科に一番の成績で合格したの。そう、幼なじみに紹介されたとき、ああ、と思った。彼女はわたしに、この男を披露したかったのだ。アンタには絶対につかまえられないでしょ、と。

 わたしには個性が無い。だけどそれを不幸だとか不便だとか思ったことは一度もない。それは、わたしみたいな旧型の人間が今もこの世にごまんといるからじゃない。わたしはわたしでしかなく、わたしはわたしで完璧なのだし、わたしにはわたしがもっともふさわしいからだ。幼なじみの彼女が、わたしのそういう態度を、心のどこかで疎ましく思っていることにも薄々気がついていた。疎ましさの根は、ありていに言えば、わたしがそういう態度で良い思いをしていること、だろうけれども。

「彼のこと、どう思う?」

 用事があるからと早々に席を立った男の背中を見送ってしばらくしてから、彼女はわたしに意見を求めた。ようやくメインディッシュにありつける。そんなぎらぎらした光を目の奥にともしながら。

「どうって?」
「だめもとで告白したから、あっさりOKもらって正直すこし戸惑ってるの。彼、すごく優秀で、ちょっとした有名人だし……わたし、遊ばれてるのかなァ」

 疑いと不安を紡ぐふりをしてたいそうなご自慢を振りかざしてくるものだと思った。だめもと? 戸惑ってる? 遊ばれてるのかな、だって? そんなこと、微塵も思っていないくせに。彼女の父親は、プロの人気ヒーローを何人も抱える事務所を経営していて、わたしの知らない、興味もないヒーローの話を彼女はたくさん蓄えている。誰それのサインをもらったとか、食事の席を共にしたとか、世間ではこうだけど、実際はこうなんだとか。そういう彼女だからこそ、彼が欲しかったのか、そういう彼女だからこそ、彼に選ばれたのか。どちらにせよわたしは、退屈ななれそめを仰々しく語られたのだ。

「遊ばれるのも、わりに楽しいよ」

 遊ばれているという、自覚があるのだったら。
 わたしのその答えは、あまり彼女の期待に沿えるものではなかったらしい。そのあと延々とまた、悩みと驕りの境目を行き交うような無駄話に付き合わされるはめになったから。わたしにもう少し大らかさとしたたかさがあれば、もっと彼女の機嫌を損ねない言い方で皮肉のひとつも吐けただろうに。あのときのわたし、きっともう、彼女の術中を知りながらその手のひらにつかまりかけていた。危なかった。わたしの人生とはかけ離れてゆくばかりの、そもそも遥か遠く、居丈高に君臨しているような男と、出会ってしまったこと。それが思いがけず、わたしを良い気分にさせていた。そして妙な確信もあった。
 向こうも、わたしと似たような思いをざわつかせたに違いない。
 結局のところ、このときの根拠のないわたしの傲慢は正しかったわけだ。
 それからもう一度、なんの目撃者扱いか知れないが、わたしはこのいびつな雑談の場に招かれた。だけど、三回目の機会はけっして訪れなかった。こんなばかばかしい三角形をつくらずとも、二人は言葉以上のものを交わすようになったから。



 一見なんの変哲もない、わたしの異形の小指に、勝己が似つかわしくもない繊細な口づけを落とす。彼の口のなかに、わたしの足の指先が出たり入ったりする。飴でも舐めているみたいな愛撫の仕方が、どこかいじらしくもあるし、不気味でもある。おしゃぶりじゃないんだから。一度、そうからかったときは、わたしは終始ひどい扱われようをした。さすがに涙が出たけど、それでも彼は一向にこの行為をやめはしない。心ゆくまで、己れのしたいことをし続ける。泰然とした所作を見せつけられれば、自然と意思が遠のいていった。その束縛も含めて、彼の前戯だ。毒を食らわばなんとやら、か。どうやら勝己はじっくりと、ディテールから女を食いつぶすのが好きなのだ。

「噛みつかないの」
「あ?」
「……ううん。なんでもない」

 初めて会った日に、幼なじみから伝えられた警告がうっすらと頭をよぎって、つい声になって溢れた。心地よく揺れ、寄せて返す、勝己の咥内の生ぬるさにお腹の底がじわりと温まっていく。わたしの足先で尊大にあぐらをかいていた彼が、わたしのふくらはぎをおろして視線を上げた。この体勢だけ見れば、彼は女に屈服する従順なしもべのようにも見えよう。その目が、口が、舌が、指先が、あらゆる彼の破片が、こんなにも挑発的にわたしへと突き刺さってこなければ。

「そういうプレイがお好みかよ、変態さん」

 硬い手のひらが足の裏をすべる。指と指のあいだに割って入ろうとした彼の手の甲を払いのけ、わたしは片方の脚をベッドの上に引き上げた。唾液に濡れた己れの足指。差しこむ夕陽にてらてらと爪が光って、汚いくせにとてもきれいだ。

「勝己こそ。わたしの足、そんなにお気に召して?」

 構わずにもう片方の足首をひっつかんだ彼に向かって、シーソー遊びにでも興じるように声をかける。ぎったん、ばっこん、軋む胸の音。潰れる肺の呼吸。勝己はもう、最初のころのように、わたしの生意気な言葉にいちいち歯向かってきたりなどしない。自分の領分をわきまえている。それはつまり、いくらでも己れにも反撃の機会があるということを心得ているということだ。ゆっくりと、勝己の右手が、わたしの脚を這うようにせりあがってきて、スカートのなかへと潜った。女の子の秘匿を踏み荒らしておいてため息をつくとは、相変わらず不遜な男だ。

「どんなコネ作ってくれんのかと思ったら、引き合わされたのがムコセー女だもんな。くそかったりぃ。バカかあの女」

 あの子だってバカじゃないから、だからわたしだったんでしょう。あなたにも覚えがあるのではないの。個性も何も持ちあわせていない人間に、自分のものを盗まれるなんて微塵も思いもしない気持ち。見下してしかるべきだと思う気持ち。それなのに、当の本人がどこ吹く風で、みずからをみずからの王国のように優雅に統べているときの、たまらない苛立ちと我慢のならなさ。
 勝己の癖毛を撫でつけるように、彼の頭に触れる。子どものご機嫌をとるようなやり方だったけれど、彼はわたしにそれを許した。蔑みに満ちた言葉を寸分のためらいもなく吐きだせる、彼の潔癖さが、彼の魂をかたく守っている門番が、わたしにいま、扉をひらいている。そう思いなおすだけで、足先からどろどろ、わたしの魂は溶けていきそうだ。

「打算で女の子と付き合ったらだめだよ」
「学んだ」
「さすが。ゆーしゅー」

 そう言うと、勝己はめずらしく薄い笑みを垣間見せた。驚いた。こんな、じゃれあうような会話をこの男がよしとするとは。なんだかおもしろくなって、わたしもすかさず目を細め、彼を見つめ返す。薄まったコーヒーを飲みながら、たわいのないお喋りをし続けられるような、気兼ねない恋の喜びはここにはない。だけどそれは欠損ではない。わたしたちは、わたしたちで完璧なのだ。

「わたし、この小指を持って生まれてよかった」

 あなたみたいな優秀な男が、わたしの足もとに跪く。その瞬間がとても好きなの。いとおしくなるの。

 すると、勝己はおもむろに膝を立て、のしかかるようにしてわたしの上体をベッドに押しつけた。品行方正、天下の雄英高校の制服が着崩れ、彼の鍛えあげられた胸もとがあらわになる。きつく二の腕を締めつけられると、不意に、ひりひりと肌が痛んだ。彼は気づいてないのかもしれないが、汗に濡れた彼の手のひらは、類まれなその才能のせいか、時々、制御のきかない熱を発する。それが、さんざん慣らされたわたしの肌の上に、見えない烙印を押していくのだ。抗えない。二転三転する形勢のなかでも、常に、忘れたころに、こうして己れの絶対的な力をちらつかせてくる。

 なるほどこれが、支配者の器。

「俺みたいな? 俺だけだろ、

 腕力ではとうてい引きはがせもしない、まっとうで凶悪な勝己の重みの真下でわたしは、どちらともつかないあやふやな抵抗をする。その演技が、くすぶる彼の熱に火をつけることを知っている。噛み跡も、ひっかき傷も、青あざも、どんな無残な痕跡を残されたってかまわない。あなたの引き金をひいてあげられるのは、わたしのかわいい小指だけだ。









THE END

2016.6