※中学三年生




 ブルーライトに照らされた円筒状の水槽が、そこかしこにてんてんと設置されている。切島にとってその容れものの中身なんて大した問題じゃない。それこそ水の檻のなかを旋回する魚か何かのように、切島は暗がりのフロアをあちこちさまよい歩いた。そして中央の、ひときわ大きな水槽にさしかかったとき、ようやく彼は立ち止まる。まるで夢の国のパレードでも見ているようなきらめくまなこで、迷子がひとり、アクリルガラスの奥の世界を眺めていたから。

!」

 夏休みに入ったばかりの館内は少し混みあっていて、小さな子どもたちのはしゃぎ声もときおり鼓膜を横切っていたから、切島は少し大きめの声での横顔に呼びかけた。透け感のある薄いカーディガンを羽織っていた彼女に触れるか、触れないか、肩を叩こうとした切島の気配に気がついて、がようやく視線を浮かす。揺らいだ軌道はたやすく彼のことを捕まえた。そして離さない。ゆっくりまばたき、まるで捕食でもするように、切島の心の端を噛むのだ。こんなにおっとりとした獰猛な動物、彼はのほかに知らなかった。

「切島くん」
「なーに、いつまで見てんだよ。そんな気に入ったか?」

 二人はいま、二人だけれど二人じゃない。あと数人、一緒に行動しているクラスメイトたちがいる。もうずっと、決められた順路を先に進んだところに。一学期の終業式が終わって数日、最後の夏休みの、最初のささやかな仲間うちの遊び。近場の海に行くはずが外はあいにくの雨模様で、仕方なく彼らはこの海辺の水族館に立ち寄った。めいめいの顔にどこか出鼻をくじかれたけだるさが滲んでいたのに、はそうでもない。はいつでも、「そうでもない」という顔をしてる。やる気がないのでもない、拗ねているでもない。気まぐれで、頼りなく、目を離したすきにどこか遠くへ行ってしまう。それに、切島は過剰にをそういう女だと思いこむふしがあった。だから、こうやって逆走してまでを探しにきたのだ。鋭児郎たのんだー、と周りが囃すぐらいには市民権を得ているこの役目。ささやかで、つまらない、だけどたったひとつの、それが切島にとっての特別のあり方だった。

「ううん、ふしぎで」
「ふしぎ、って」
「海では絶対会いたくないのに、水族館で会えるとうれしい」
「ああ、なるほど」

 そりゃ、これだけお膳立てしてもらってたらな。二人は視線をはずし、目の前でひらひらとうごめいている透明な生命体を見つめた。言われてみれば、そうだ。のふしぎが分かる。今日もし、太陽が輝く晴れの日だったら、こいつとの出会いはまったく意味の違うものになっていただろう。こんなふうに雰囲気のつくりこまれた青い世界でお目にかかるそいつは、なんとも幻想的で美しい。ところが、ほんとうの海で出くわすそれは、どこかグロテスクで、さわれば毒が痛みをもたらす危険な生きものだ。切島は、ほんとだな、とに笑いかけた。彼女はすぐとなりで、うん、と頷いて、もたげた視線をひときわ近くを通過していく細長い触手の群れに注いだ。
 切島は、何かを熱心に見つめているときのの横顔が好きだった。そして、それを好きな自分が情けないとも思っていた。男なら、横顔なんて求めているな。真正面にまわってみせろ。そこまでなら、いい。そこまでなら、きっと。その先を考えると、切島のふるまいはにぶる。たとえを真っ向から見つめても、彼女が同じルールに乗ってくれる保証はどこにもないのだ。

「今日、切島くんがいてびっくりした」
「えっなんで」
「だって、勉強とか忙しそうだから。雄英、受けるんでしょ?」
「あー、まあ……」
「すごい」

 ひとごとなのだから仕方ないけれど、やっぱりそれはひとごとの「そうでもない」トーンで、しゃなりと響くの声は頓着なしに切島に痛みを送りつける。クラスメイトで、よく話をする仲間うちの一人で、こうやって何度も一緒に出掛けたことはあっても、ちっとも距離など縮まらない。量ではなく、質の問題だ。その火を飛び越えていくような、そういう彼岸は、むろん待っていてもおとずれないものだ。ちらっと切島は、おろそかになっているの手を盗み見た。ガラスのふちにさりげなくかかっている細い指先。こんなつくりものの水中世界にも敵わない、正しい気の引き方も分からずに、体温を夢見ている自分がいること。切島は、己れを恥じた。自分の心こそ、ちっぽけな水槽のようだ。

は……夏休みはあれか、部活か」
「うん。がんばるのは、わたしじゃないけど」
「んなことねーよ。お前すげーがんばってんじゃん、いつも……」

 暑い日も、寒い日も、はグラウンドのすみに立つ。「個性」をつかうことを禁じられた箱のなかで、力を持て余した生徒たちが汗を流して励む部活動。ねえ、どうしてあんなに本気になるんだろうね。はいつだったか、そんなとぼけたことを言って、切島を困らせた。だけどよりいっそう、彼の記憶に刻まれているのはその次の一言だ。――わたし、あれ見てると、かわいいなって思っちゃうの。言葉以上に、彼女の目が奇妙な慈愛をともしていた。なんだか、おそろしいくらいに。はその味気ない練習を、漫然と眺めているのではない。放課後の退屈を、仕方なくやり過ごしているのでもない。だから惹かれた。惹かれてしまった。おおまじめなの横顔に。
 もごもごと青い薄闇に消えた切島の言葉を、は淡く笑って受けとめてみせた。その笑顔は照れ隠しとか、感謝とか、嬉しさ、喜び、ただの社交辞令、どれとも違う笑みだった。そのとき、一瞬、切島はくらげになった。閉じこめられた水のなか、どこにも行けず、何もできず、ただぷかぷか泳ぐ、手懐けられたのくらげに。

「わたし、そんなお人好しに見えてる?」

 夏を始める白線の上で、切島は自分の足首に鎖が巻きついていることに気づく。これではとてもスタートが切れない、重い、重い、足かせが。彼女は俺のうらはらをぜんぶ知ってる。それはひどく窮屈で、ひどく恍惚とした気づきだった。誰にも知れない秘密が、秘密だったものが、知らず知らず、飼い慣らされたくらげになっていたのだから。
 水で満たされた密室で、ひとつの恋が溺れかけている。救う方法はただひとつ。切島はそれを知っている。
 たとえいびつな、誰からもありがたがられない、誰にも望まれない野良のくらげになったとしても。己れの目でしかと、夜空の星々の悲しみを見渡せたなら、彼はきっと偉大な冒険家になるだろう。









THE END

2016.6
♪ クラゲ - KANJANI∞