後先のことを考えず、持てるちからの限りで走る。とにかく走る。ただ、走る。
 いつだったか、にこんなことを問われたことがある。「勝己くんは速く走るのと、遠くまで走るのと、どっちが好きなの?」と。
 なんともあの女らしい、おめでたい質問だと思った。好きで走ってんじゃねえよ、アホか。
 上へ上へ登っていくことはいい。覆しようのない確かな終わりがあるから。ひとつにひとつ、かならず「頂」というものがあるから。だけど、前へ前へ進むことは、てっとりばやいぶん張り合いもない。切り取られた五十メートルの直線上。かわりばえのしない景色がめぐる四百メートルのトラック。道はどこまでも続き、伸びていき、あるいは恣意的にぶち切られ、どこかで俺は、どうしようもなく、引き返すしかない。なんのために走るのか。息を切らし、あてもなく。ここにじっとしている自分を許せなくてもまた、ここにいる自分に戻ってくるだけなのに。



「あ~かわいいねえ。ずっと見ててもぜんぜん飽きない。やっぱり女の子うらやましいわあ」
「おばさま、若いんだからまだいけますよー」
「だめだめ、勝己で手一杯。もー大変だったんだから、言うこときかなくて、チビのころなんか。今は今でふてぶてしく育っちゃってさー」
「勝己くんしっかりしてるのに」
「猫かぶってんのよ、ちゃんの前ではね。もう聞いてー、こないだなんか……」

 風のない午後五時の、扇風機がかたかたとわずかばかりの音をたてて静かにまわり、アイスティーを飲み干したグラスがふたつ、コルクのコースターをぐっしょり濡らしてローテーブルに並んでいる、静物画のような日曜日。俺はそこに、入らない。入りたくもない、額縁のなか。リビングのソファに座っている二人を極力目にいれないよう、キッチンにまわり、適当なコップをつかんで水道水を満々に注ぐ。半端な昼さがりの、数時間のだるい昼寝のあとは、これぐらいの冷たさの水がちょうどよかった。喉の渇きが癒えて、土に雨がしみこむように、のっそり目が冴えていく。
 Tシャツは汗ばんでいた。髪はぼさぼさだった。寝間着とさして変わらない格好で、俺は玄関に出て、はきつぶしたスニーカーに素足をつっこんだ。ドアに手をかけたとき、ない風を少しでも迎え入れるためか、ずっと開けっ放しになっていたリビングの引き戸から母親がぬっと顔だけだして、横着に俺を呼び止めた。

「勝己。アンタ今からどっか行くの」
「……走る」
「あっそ。さっさと帰ってきなさいよー。汗だくのまま夕飯食べさせないからね」

 ほとんど無意識の舌打ちが洩れたが、誰にも聞かれちゃいなかった。
 玄関を飛びだし、石畳を数歩で駆け抜け、何に追われてるでもないのに、何かを追いかけているつもりもないのに、どこかで切迫した感情を飼いならしながら、それを推進力にして走っていく。水彩絵の具で色づけたような薄い空の下、居つく場所などどこにもないのだから、歩くより、立ち止まるより、走り抜けていくのが自然なのだ。マシ、という意味で。アスファルトのくぼみにところどころ、いつ降っていつやんだのか知れない雨のあとが、水たまりになって浮かんでいる。いびつな鏡がいびつな自分を映しても、構わない。避けもせず、選びもせず、まっすぐに駆けていく。水しぶきが容赦なく飛んで、はだしの足首を、穴あきのジーンズを、暮れていく雨上がりの、それでもまごうことなき日照りの今日を、濡らす。湿気をふくんだ空気のなかで、腕や首筋は簡単に汗を吹いた。手のひらがうずいている。ニトロの甘いにおい。こぶしを握り締め、溜めこんだ力を爆発させるイメージをなんとか鎮めて、やがて立ち止まったのは、やっぱり何度でもそこで立ち止まるしかないような、つまらぬ立ち入り禁止の工事現場の前だった。

 ここで、こんなところで足先のゆくえを変えるしかない、当然の無力が苛立たしい。

 それでも、さっさと帰ってきなさい、と言われたとおりに結局は一時間で家に戻り、火照ったからだを引きずって風呂場に直行し、言いつけどおりにシャワーで汗を流している。ただいま、などと言った覚えはないのに、風呂場から出れば、そこに洗いたてのバスタオルと、着替えがしっかり用意されていて、それもまたむしょうに腹が立つのだった。
 キッチンから、炊飯器が蒸気を吐きだす音がしている。玄関にはまだ、の靴が残っていた。ヒールのない、青いパンプス。ほんとうに逃れたいものからは、いつだってけっして逃れられない。

「勝己くん、冷蔵庫にジンジャーエールあるよ。よかったら飲んでね」

 リビングのソファに、は俺が家を出たときとまったく同じように、彼女のこさえた生命の神秘を抱いて座っていた。声に立ち止まり、どう返せばいいのか迷い、迷ってるうちにが笑顔の質を変えて、無言で俺をキッチンに送りだしてしまったので、けっきょく何も言えなかった。冷蔵庫をひらくと、いつも飲んでいるメーカーのジンジャーエールが数本冷やされていたので、しぶしぶ一本手にとる。アンタもうちょっと愛想よくできないの、とサラダの大皿に仕上げのカッテージチーズを盛りつけていた母親が、キッチンカウンター越しに俺を咎めた。言われなくても分かってることを。

ちゃーん、そろそろお肉焼くねー」
「あ、わたしも何か手伝います」
「いいよいいよ、お客さんなんだから」
「したいんだもん」

 炭酸が喉を通る心地よさ。甘さのいっさいもたつかないジンジャーエールは美味かった。一気にペットボトルの半分ほどたいらげて、ふたたびリビングに戻ると、待ち構えていたと目が合う。合ってしまう。そしてあろうことか、はソファに座ったまま、俺に腕の中身を差しだしたのだ。

「勝己くん、だっこしてあげてて」
「は。なんで、俺が……」
「きみしかいないでしょ」

 強制だった。俺はまたたくまにソファに座らされ、そしてあっという間に、腕に温もりを預けられていた。腕の使い方が分からない。ナイフで割いたようなまぶたを閉じて、安らかに眠っている顔を見せつけられれば、大声で不平を言うこともかなわない。ぎこちなく腕の先で余ってしまっている両手を見て、はあはは、と年長者の笑みを振りまいた。化粧っけのない顔も、紛れもなくひとつの奇跡をくぐり抜け、俺の知らない別ものになってしまった。せっかく汗を洗い流してきたのに、もう背中には、新しい汗が浮いている。きっとこの、ふたつの手のひらにも。だから。

「こわがらなくていいんだよ、勝己くんのこの手で、ちゃんと抱いてあげてね」

 の手が、俺の手のひらを握りこむ。腕だけではどうにもならない、不安定なゆりかご。が俺の手をとったまま、首の裏に片方のそれを滑りこませた。上手だね、さすがお兄ちゃん。これまた、俺の大嫌いな、年上というだけで許されている優しさをたっぷり塗りこんだ声で、は囁く。すべての粗暴を禁じられたこの行為。数秒で投げだしたくなった。キッチンで、楽しげにまたぺちゃくちゃと話している二人の声が煩わしかった。目を落とせば、ひとの気も知らないで、堂々と寝こけているサルみたいな顔。男か女かも、俺には分からない。かわいいなんて思いもしない。命の尊さなんてくそくらえだ。が、男とヤッた動かぬ証拠。そんな身もふたもないことばかり、この腕にこの重みを確かめるまでは、考えていて。考えてしまっていて。

 一回の射精で放たれる精子は数億。奴らは一パーセント未満の可能性めがけて、ひとつの卵を争う。狭苦しい管のなかを走り抜け、誰よりも速く、誰よりも遠くまで。そんなおどろおどろしい教科書知識を反芻しているうち、俺はなんともばからしい空想に囚われた。生まれる前から、俺たち、ことごとく走っていたんだ。終わりではなく、途方もない始まりに向かって。ゴールテープを切るのではなく、スタートラインを蹴るために。

 恨めしいような腕のなかの体温が、正しい「終わり」を教えてくれる。始まりという終わり。前へ前へ進むこと。
 好きだとか、嫌いだとか、そういう料簡はどうでもいい。なんのために走るのか。意味なんてものは強迫だ。要らない。
 俺は誰よりも速く、誰よりも遠くまで、ただ走る。









THE END

2016.6
♪ BOY - KANJANI∞