※中学三年生




――あいつ、あの“個性”つかってとヤりまくってるらしいじゃん。“洗脳”だっけ? 正直イイよなー、あれ。俺もああいう“個性”が欲しかったわ。ま、ヒーローには向いてねーけどさ。

 ささやかな種火をうつしたような噂が知らないあいだに随分と燃えひろがっていて、手ずから油を注いだ覚えもないのに、冷たい廊下が一瞬にして熱い熱い炎の只中へと豹変する。笑い声の輪は火の海。人体の元素構成比なんてからっきし無視して、脳みそから足先まで天地がひっくり返ったような気持ちの悪い体温のうねり。沸騰する感情も、その器の心臓の軋みも、知らないわけじゃなかった。むしろよく知っていた。四歳の時分から陰も日なたもなく、投げつけられたやっかみも、蔑みも、そう簡単に忘れることなんてないと言ったら、また彼女の目をまるくさせてしまうんだろうけど。

 さすがに不味いよなあ、なんて頭でいくら分かっていても、思い通りにはいかないものだ。入学手続書類の封筒を打ち捨てたらもう、後には退けなかった。退く気もなかった。おのれの握りこぶしに容赦のない鈍い感触がまとわりつく。ただひたすらに不快で、けっして何も解決しない手段。暴力。それから先のことはもう、反芻するのもだるい。
 保健室、職員室、生徒指導室と場所を替え、相手を替え、それでもけっして殴ったほうも殴られたほうも口を割らない根競べのような取り調べを受けること数時間。解放されたころにはもう外は暮れ始めていて、消灯した校内は薄暗く、俺は危うく下駄箱の隅で待ち伏せていたを素通りしてしまうところだった。
 今一番、会いたくなかったという気持ちと、今誰より会いたかったという気持ちが、無様にせめぎあっている。バツが悪くて、汚いローファーの先に神経をたびたび散らしながらでしか、彼女と向き合うことができなかった。

「まだ居たんだ」
「うん。渡したいものがあって」
「渡したいもの?」

 俺の訝しげな言葉の先っぽを高揚に色づいたの瞳が受け止める。まばたきの狭間で、甘噛みでもするように。いそいそとが腕にさげていたトートバッグから取りだしたのは、こんな暗がりでも眩しいぐらいに光ってみえる、お約束のような手編みのマフラーだった。手作りのものだとすぐに勘づいてしまう。彼女が俺に隠れたつもりでこっそり慣れない編み物に挑戦していることならけっこう前から気づいていたし、ぱっと見ただけでも詰まった編み目がところどころいびつに悪目立ちしていることがよく分かる出来だったのだ。
 がマフラーをひろげて、何かを窺うように俺を見上げる。二人のあいだの冷気が疼く、この瞬間がいつまでも気まずい。彼女はちょっとのつま先立ちをして、大胆にも俺の首に直接その初めての手編みのマフラーを一周させた。自分のものじゃない匂いが掠める。ネイビーブルーの毛並みがやわらかな棘のようで、細やかにちくりとえりあしを包みこんだ。

「雄英、合格おめでとう。ど、どうかな、これ……編んでみたの、わたし」

 恥ずかしさを紛らわすようにマフラーの端のフリンジに指を絡めながら、は俺のブレザーの銀ボタンのあたりに視線を沈めた。噂に似合いの烈火はここにはありえない。そうは言っても、彼女がこういう態度をとるたび、自分の内臓のどこかしらが発火寸前まで追い込まれているような気はする。例えばこの一瞬を悪意をもった眼球がくり抜けば、ああいう歪んだ事実が透けて見えるのか。他人のことまであれこれ妄想して、ご苦労様。
 どうかな、と尋ねられ、彼女が一目一目じっくり編んだマフラーに指のはらを触れる。三月の卒業間近に贈るにはやや季節外れの温もり。私立推薦で進路を決めているとはいえ、こんな時期に気楽なものだと思う。平べったいかばんのなかで茶色の封筒が嫌味な音を立てた気がした。がさがさと、重苦しい存在を主張して。

「……いや、嬉しいけど、落ちたよ」
「普通科の倍率、過去最高だったって。すごいね……でもわたし、心操くんなら絶対大丈夫って思ってたんだ」

 聞いちゃいねえ。
 一昨日、雄英から届いた簡素な手紙は二通。どちらも予想通りの試験結果を俺にわざわざ教えてくれた。
 雄英にこだわらなければピンからキリまであるヒーロー科のひとつやふたつ、余裕で入れるくせに、それでも普通科を併願してまで雄英にしがみつこうとした俺の諦めの悪さと必死さと面の皮の厚さを誰か笑ってくれないか。こんなでも、立派に自分を信じてしまう。自尊心だけは歪みなく、一丁前にプロヒーローの卵気取りでいるのだ。
 廊下の奥から足音が響いてきて、水風船のように壊れやすい二人きりの空気がぱちんと割れる。目が、覚める。あの足音があいつらのものだったら、最悪だ。

「じゃあ」
「あ、待って」

 踏みだした一歩を制するように、ブレザーの襟を掴まれる。の冷たい手が首筋に宛てがわれると全身がぞくりとした。彼女は俺の顎の輪郭をなぞりながら、つぶさな瞳で自分の指の辿る先を見つめていた。

「ここ、擦りむいて赤くなってる……痛くない?」

 ぞくり、と、またきた。こんな時間まで待ちぼうけして、何も知らずに忠犬の如く従順に居られる彼女じゃない。動揺を絡めとられたくはなかったが、そんなのむりに決まっていた。なんとも言えずに固まってしまった俺の表情を見上げて、が心配な気持ちと哀しい気持ちがぐちゃぐちゃに炒められたような顔をしている。こんな切傷なんかよりずっと酷く、赤く、擦り減ってしまったもの。彼女はそれをなんとか見つけようとしているのだった。俺のなかに。

「……心操くん、なんでタカハシくんのこと殴ったりしたの」

 顎に触れていた彼女の指が、弱々しく、こうべを垂れるように剥がれ落ちていく。
 真昼のあれはちょっとした騒ぎになって、幸いにも三年生の授業はもうなかったから目撃した人間は少なかったはずだけれど、やはりこういう話題は光速で巡ってしまうものらしい。きっとご丁寧に尾ひれだなんだ、色々よからぬものまでくっつけて。

 こんな平和な片田舎の中学校ではテストの出来が良すぎるぐらいでも変に浮くし、ちょっと周りより発育のいい女子がいれば、それだけで男子どもの話題の餌食になりもする。俺たちは理由はどうあれ多少の弾かれ者だった。そしてそのことに自我の前足を掛ける者どうしだった。夏が始まるころ、彼女は俺のことを好きだと言った。俺は「だろうね」と答えた。今思わなくとも、浅はかな自惚れまみれの酷い返しだ。でも、どこかでこう思っていた。俺以外に、この場所で、彼女の好意に値する人間など居るはずがないと。

 あの忌々しい陰口がまた鼓膜で再生される。洗脳と言ったって、奪えるのはきっと身体の自由だけだ。心の向きは変えられない。それをあいつが知っているわけないが、だからなおさら反吐が出た。あの冒涜は、に宛てたものだ。

「ムカついたから」
「……でも、」
「説教なら今度にしてくれる。今日はもう……疲れた」

 の脇を通り過ぎて足早に昇降口を出ると、彼女も控えめな靴音を立ててすぐ後ろに続いた。冷たい風が頬を刺す。首に巻かれたできたてのマフラーがさっそく有り難いような三月の夕暮れ時。何時間も経っているのに未だに右手のこぶしに不気味な痛みが残っているような気がして、そんな割り切れない自分も、ただただ惨めで腹立たしかった。

「だめだよ、……その、お友達を殴ったりなんかしたら」

 背中で、彼女のローファーが砂利を踏みしめる足音。まるで保護者みたいなありふれたことを言うんだな。ていうか、友達でもないし。一向に追いつけない、わざと追いつかないでいる彼女を、校門の手前で立ち止まって振り向く。色んな種類の苛立ちが交錯していた。だから、八つ当たりのように睨んでしまっていたかもしれない。が多少むりにでも笑顔をつくってくれていなければ、また、苛立ちの根に自己嫌悪がおぞましく覆い被さって、出口のないぐずぐずの塊が長く心に巣食うことになっていただろう。

「だって、心操くんはいつか、国民的ヒーローになるんだから」

 ばかみたいに呑気で、ばかみたいに遠く、貴い。彼女がほろっと口にした言葉の、その果てしなく場違いな響きが、割れない硝子に囲われているようで、繊細なくせにとても堅く守られている。宥めようとしているなら大げさで逆に胡散臭いし、心から信じているなら他人に期待をかけすぎだろ。白くも残らない滲むような溜息が募る。彼女の無垢な気楽さにも、自分の拙い単純さにも。

「そんな大層なもんにはなれないよ」

 弾ける寸前のの眼が自分の左胸と相似形を描いている。彼女が壊れることは、自分が壊れること。それは隙間なくぴったりと重なりあう事実。そういう幸福な独りよがりを二人で夢みることができるとき、ひとはそれを恋と呼んでしまうのかもしれない。自分には何もかも不似合いだし、けっして納得しきれないつまらない癇癪を起こしてしまった今日の日も消えない。自分に投げかけられた心ない言葉と同じように、自分で自分を誤魔化したことも、しぶとく、消えない。それでも。

「……まあヒーローにはなるけど」

 悪魔と契約を交わしたようなこの妙な個性と。不遜なまでに胸の水位を満たしている自信と。自分を呼ぶ誰かの声。きみの声。こんな手でなんとかかき集めた、頼りない、愛しいものたち。
 熱を溜めこんでゆくマフラーの内側で渇いた喉が上下する。肌に馴染まない真新しい毛糸の表面が、今はまだ、少しこそばゆい。









THE END

2016.12
♪ 非国民的ヒーロー - 大森靖子