※中学三年生|反倫理的内容




 開けっ放しの窓のせいで、清潔なカーテンがくらげのように膨らんでうねります。午後五時のチャイムが鳴ったというのに、いまじきの空はまだ真昼のように水色です。明るさがいやになってまぶたをおろしても、木漏れ日が薄いところと、濃いところと、まだらになってベッドに落ちていることがよくわかる。まなうらが痛い。まぶしくて、泣きはらして。
 校庭ではしゃぐ男の子たちの声がわあわあと聞こえてくるから、もしかして、あの窓をつうじてわたしたち二人の呻き声も誰かに届いているのでしょうか。わたしは、言うことのきかない自分の口を塞ごうと思って、ひさかたぶりに右腕にちからをこめました。もたげた手首のだらしなさを半開きの目にとめて、こんなときに思いだしてしまったのは、遠い日の幼い二人のことです。ついさっき巻いたばかりだったのに、抵抗ともつれあう熱のせいですでにほどけかけている憐れな包帯。かつてわたしは、彼の左目を暗く覆っていたそれに触れたことがある。そのときもちょうど、夏のくちなしの匂いがざあっと吹いて、カーテンが甘い深呼吸をした。わたしはその内側で、まばたきを忘れ、彼の左目に映る自分と見つめあっていました。

(みーつけた)

 小学校の低学年のころでした。クラスのみんなと、わたしは、かくれんぼをして遊んでいました。わたしは鬼でした。昼休みの空き教室には誰もいないように思われて、だけれど、誰もいないのに窓が開いていたこと、カーテンが束ねられていないこと、白いオーロラの奥にうっすらと人影が浮かんでいることを鬼の目になっていたわたしは見逃しませんでした。足音を立てないように窓辺に近づき、お決まりの文句を意気揚々と叫びながら、わたしはそうとは知らずに彼の秘密基地を暴いてしまったのです。
 焦凍くんはかくれんぼをしていたわけじゃありませんでした。だけど、隠れてはいたんだと思います。誰にも邪魔されないように、その場所で、息をひそめ。突然カーテンを払って首を突っこんできたわたしを、彼は右目をまるくして迎えました。わたしは両目をまるくしました。彼の膝の上には活字の細かくて分厚い、小学校の図書室には絶対に置いていなさそうな本がひらかれてありました。あれは、なんの本だったでしょう。記憶を反芻するときいつもわたしは、そこに切ない疑問を持つのです。だってもう、永遠にわからない。焦凍くんとあの日の、この瞬間のことを分かち合ったことはありません。これは確かに二人きりの過去だったけど、それぞれ、ひとりきりの思い出でもあったから。

(とどろきくん、みにくくないの、それ)
(……みにくいよ)
(だったら、)

 そのころの焦凍くんはいつも左目を白い包帯や、大きな眼帯で覆っていました。クラスの子たちはそれを気味悪がって、いつしか彼の左目に睨まれると石になってしまうという噂をみんな信じるようになりました。おとぎ話みたいな「個性」だけど、無いとは言い切れないのがこの世界のことわりです。大人たちは大人たちで、彼のお父さんが有名人なものだから、あることないことぺちゃくちゃ噂していたみたいです。だけどわたしは、子どもながらにどれもこれも、信じるにあたいしない妄言だと思っていました。どうせみんな信じたいことをほんとうのことのように語るだけなのだから、わたしにはわたし好みのほんとうがないといけないと考えたのです。
 伸ばした手はいちど、乱暴に払われました。氷みたいな手でした。だけどわたしはめげなかった。あれはわたしの人生で、いちばんに勇敢な日でした。強い風が、小難しい本のページをさらう。わたしは、彼の見えない左目から目を離さないように、一直線に、もういちど指を伸ばしました。石になんか、なるものか。白い線を踏み越えて、わたしは初めて、彼のぜんぶと出逢いました。

(かくさないほうがずっとかっこいいよ、とどろきくん)

 自分の上半身と下半身と、ばらばらになってしまったような不気味な気分で、わたしはぎこちなくお腹のなかをゆすられながら頭のなかで遠い日をやり直しています。ほどけてしまった包帯を口枷のようにふくんで、なんとか歯を食いしばって行為を耐えていると、焦凍くんがわたしのそのやるせない努力に気がついたのか、視線を落とし、かたちのいい眉をますます悲惨に歪ませました。ゆるしてくれ。彼の唇がそんなけったいな願いを紡いだような気がします。気がするけど、とても信じたくない響きでした。みんな、信じたいことをほんとうのことのように記憶するのだから、信じたくない何かをまざまざと見せつけられたとき、自分の五感に正直になれるひとは少ない。わたしも嘘だと思いたかった。こんなにも自分ではないものが自分のなかに蓄積されていっても、なお。
 唾液まみれの包帯を彼はわたしの口内から掻きだしました。かわりに差しこまれた彼の指に、わたしは深く歯型をつけました。火柱のような指でした。
 あれから一週間が経つけれど、彼の左手の指先にはまだ、痛々しい痕がついたままです。



 雨は朝から本降りでした。明日から始まる定期テストの勉強を図書室でいやいや進めて、だいぶ遅めに学校を出ても、雨はまだ目に見える激しさで降り続けていました。
 お気に入りの青い傘の柄をくるりくるりと散漫な手つきで回したり、裏地の模様を見上げたりしながら、わたしは帰りの道をひとり歩いていました。通りの向こうからダンプカーが近づいてきていることに気づいたのは、クラクションの音が鳴ってからです。びっくりして、わたしは傘を落としてしまいました。クラクションのけたたましさのせいではありません。いきなり力強く腕をつかまれ、道路脇に引きずり寄せられたからです。タイヤが水たまりを轢いて、ハイソックスに盛大なしぶきが跳ねる。荒々しい一瞬でした。反射的につむってしまった目をおそるおそるひらいてみます。ダンプカーが過ぎ去っても、わたしは、不意打ちの拘束を解かれずにいました。

「……え、焦凍くん?」

 わたしをきつく抱きとめていたのは、なんと焦凍くんでした。雨のせいで砂色のパーカーを濃く変色させた彼が、わたしの家のすぐそばの角っこに立っていたのです。今日一日、学校を休んでいた焦凍くんがここに居るだけでも驚きなのに、彼の腕のなかはぞっとするほど冷たくて、芯から濡れていて、随分と長いこと雨に打たれて立っていたのだろうということを容易に想像させました。心臓がうるさく鳴る。転がっていた傘を拾いあげ、彼の頭の上にかざす。尋常ではない、と思いました。わたしはそのとき、この一週間で初めて、あの保健室での忌々しい行為のことを忘れて彼を見上げていました。わたしにもう少し脳みそがあれば、あの日のできごとと目の前のずぶ濡れの彼をもっとなめらかに、素早く、賢しく、結びつけられただろうに。

「どうして……なんで、傘は……ここに、ずっといたの? こんな、びしょ濡れで……」

 何かを喋ってくれないと始まらないのに、焦凍くんはうんともすんとも零しませんでした。ただ目を伏せて、わたしの顔も見ずに俯いているだけなのでした。とにかく、明日から定期テストが始まるのに、このまま彼が風邪を引いてしまっては絶対によくないだろうと思い、わたしは無言の彼を家のなかに引っ張っていきました。ママもパパも夜まで帰ってきません。わたしは鍵っ子でした。ドアを開け、玄関の明かりをつける。焦凍くんの髪の毛から、顎の先から、ズボンから伝うように雨水が落ちて、玄関タイルの上には彼の足もとからじんわり水が広がってきていました。

「わたし、なにか拭くものとってく」
「悪い」

 セーラー服の表面を軽くはらってローファーを脱ごうとしたとき、二の腕をぐんと強く引っ張られ、かかとを浮かせていたわたしはふたたび彼の腕のなかに倒れこんでしまいました。今度は、正面ではなく、背中から自由をすくわれ。ひやりと、服越しに涼しい湿った感触がひろがる。熱があとから追いかけるように襲ってきて、逃れたい、そんな思いが胸にたちこめたときにはもう、手遅れでした。

「こうすれば、口をきいてもらえると思った」

 焦凍くんのうしろめたそうな声が髪に触れる。なんて、むごい、むごい言葉でしょう。この一週間、確かに、わたしたちはまるで他人のようでした。思えばあの日の翌日も、彼はわたしの家の前まで来ていたのです。怠くて、打ちのめされて、学校を休んでしまったわたしが、彼と顔を合わせられるはずもありません。授業のない土曜日も、日曜日も、焦凍くんはわたしの家のインターホンを鳴らしました。ママが部屋のドアをノックして教えてくれたけれど、「今は会いたくない」の一点張りでわたしは彼のことを無視し続けました。土日が明けてやっと学校に出てきても、同じ教室で一日を過ごしていても、言葉を交わすことはおろか視線を合わせることもないまま。一週間なんてあっという間です。考えごとをするには足りないぐらいだったのです。焦凍くんには、我慢のならないもどかしい時間だったのかもしれないけれど。

「帰って」
、」
「やだ、離してこわい、」
お願いだ、聞いてくれ」

 身をよじってみたところで彼のつくる頑強な檻から出られるわけもありません。切実な声音で呟かれた懇願とはうらはらに、彼の腕は一週間前と変わらずわがままで、聞く耳をもたず、わたしの骨と肺の深いところを軋ませます。寒くもないのに全身に真冬の鳥肌が立つようです。背骨に彼のからだの震えが伝わってくるのは、彼がずっと、激しい雨に打たれていたからなのでしょうか。

「あの日のことを、謝りたい。……お前を失いたくなかったんだ。それで、俺には……あの日の俺には、ああするしか思いつかなかった」

 喉を締めつけられているかのように、苦しそうに焦凍くんが話す。彼はものすごく頭がいいのだから、ああするしか思いつかなかったなんて、ひどい言い訳だと思います。確かに彼は少し……あのときの焦凍くんは少し、平静を失いかけていたとは思うけれど。だって、そうじゃなきゃ、あんな破滅的な、あんな野蛮なことを彼がするはずありません。焦凍くんはいつも、奉仕のように献身的にわたしに優しくしてくれる。あの日だって、彼はとても慎重な手つきでわたしの手首に包帯を巻いてくれていたのです。
 わたしと焦凍くんはいつから付き合っているんでしょうか。それはきっと、周りが付き合っているのだと信じはじめたときからです。そういうあいまいな、ふわふわした態度が一部の女の子たちの気に障ったのかもしれません。左目をあらわにした焦凍くんはわたしが見初めたとおりとても格好良くて、女の子によくもてました。目をつけられたあとで挽回するのは難しいことです。無駄なことです。チョーシにのってる、という魔法のような理由で、わたしはここ一年あまりずっと特定の女の子たちに痛めつけられてきました。

(……少し疲れちゃったな、焦凍くんと一緒にいるの)

 包帯の上からいたわるようにわたしの手首を撫でていた彼の手を、やわりと拒んで、わたしは彼にそんな告白をしてみました。まさかあんなに彼がうろたえるとは思っていなかった。疲れているのはお互い様だと感じていたし、二人の関係が疲弊しているのは明らかなことでした。見て見ぬふりはもう、できないほど。
 ものをなくしたり、汚して、壊したり、あちこちに傷をつくり、痣をこさえ、そのたびに焦凍くんに悲しい顔をさせてしまうような毎日はうんざりでした。焦凍くんのことは大好きだけれど、大好きな男の子と二人でいるよりも、仲の良い友人たちとお喋りをしながら、カフェに居座ったり、雑貨屋さんを巡ったりして過ごすふつうの放課後に憧れをいだいていました。焦凍くんは最難関の国立高校を受験するようです。それを聞いて、どこかでほっとしている自分がいました。焦凍くんと離れられる。焦凍くんと、もっと穏やかな距離をとれる。わたしは戻りたかったのかもしれません。白い繭のなかで互いの目を見つめあったあの日に。それがどうして、あんなことになってしまったんだろう。結局のところ、時間はもとに戻らないという、当たり前の事実に打ちのめされただけでした。時間は進むものです。それも、平等にではなく、ゆっくりだったり、おぞましく速まったり。押し倒されたベッドの上で見た、カーテンの爽やかなひろがり。あれはきっと、すこやかだった日々の二人のまぼろしだったのです。

「焦凍くん。わたし、焦凍くんのものじゃないよ」

 焦凍くんの腕のちからが少し緩まったような気がして、わたしは彼を振り向きました。焦凍くんがとても傷ついた顔をしている。保健室のベッドで、わたしにまたがり、わたしを見下ろしていたときとそっくりな顔です。あのときも彼の前髪は不細工にひたいにくっついていました。汗と雨の、違いこそあれ。こんな距離で見つめあっているのに、何も見つけられないで隠れあっているような、変なざわめきが胸を掠めます。きっと彼もようやく、わたしと同じまぼろしを見ているのです。焦凍くんの左目が初めてわたしを見つめた日。彼のぜんぶと出逢った日。あんな強引な行為に頼らなくたって、お互いを「もの」にするごっこ遊びなんてお手のものだった。
 だけどいくら鮮明なまぼろしを辿ったって、当たり前のことにはけっして逆らえない。

「……俺がしたことは、あいつと同じだな」

 力ずくで、お前を…………焦凍くんの声が途切れ、焦凍くんの吐く息が鎖骨にかかる。彼がずぶ濡れの頭をわたしの肩口にうずめたのです。
 痛ましい告解でした。それは彼にとっても、わたしにとっても。時間はただただ進むばかりだけれど、この世のことがらはほとんど反復と模倣によって成り立っているようにも思います。わたしがもし、彼にとって、その左目の痣の複製でしかなかったら? 疲れてしまったなんていう、あまり考えもなかった独りよがりな弱音が、彼にとって煮え湯のようであったら? 焦凍くんの大きな背中に腕をまわして、わたしは、今できるせいいっぱいで首を横に振りました。そこには色んな拒絶と肯定が入り混じっていました。あなたが嫌い。あなたが好き。あなたが許せない。あなたが憎い。あなたと居たい。あなたと離れたい。あなたに尽くしたい。あなたを突き放したい。どんな感情の袋を引っ張りだしても、わたしの心はひとつにはとてもおさまらなかった。

「ちがう、ちがうけど」

 わたしに触れたのは、誰でもない、あなただったけれど。
 焦凍くんが首を持ち上げて、わたしに怯え、それでもわたしに縋るような、悲しい優しさを溜めた瞳をよこしました。目じりにあてがわれる、わたしの歯形が浮かんだ指先。あなたがあなたでしかないということを刻んだ指先。だけどいつしか、そんなか弱いしるしはきれいさっぱり癒えてしまうだろう指先。
 不格好に濡れた前髪の先から、焦凍くんが連れてきた夏の雨がわたしにしたたる。涙のように降ってくる。









THE END

2017.6