春の朝は冷たい。
 焦凍は縁側の雨戸を音もなくひらいて、誰も居ない静かな庭先に出た。寝不足のからだは麻酔を打ったようにどこをとってもおぼつかなくて、まるで現実感のないむなしい器だった。浅い眠りにつく前に見た、映画のせいかもしれない。どんな内容だったかはあまり覚えてないが、たしか、空を飛ぶ「個性」をもつ少女の物語だったと思う。焦凍はまだかすかに胸にくすぶっている、夢の残り火に手をあてた。夢のなかで焦凍はあの少女と同じような「個性」を持っていて、空に浮かび、幽霊のように地についた脚をもたない存在だった。砂利を踏みしめる、足もとに視線をこぼす。あんな情けない夢から覚めて、二本の脚で立つ飛べない自分もまた、夢にも似た非現実的なまぼろしのようだ。
 休みとも呼べない束の間の春の休暇が終わろうとしている。年度末の寮から一時的に吐きだされ、実家に帰ってきて三日目の朝だった。焦凍にとってさほど帰りたい家ではなかったが、彼はまだ十六歳で、家族や大人に縛られるのは仕方のないことだった。それに、億劫なことばかりではない。少なくとも、昨日の夕方、をこの家に招くまではそう思っていたはずなのだ。

「桜、夜の嵐でだいぶ散っちゃったね」

 その声は彼の背後から、肩にカーディガンを掛けるように優しく覆いかぶさってきた。振り返ると、焦凍のつくった雨戸のすきまをひろげて、が縁側に出てきたところだった。部屋を抜け出たときはぐっすり眠っていたはずが、いつ起きたのか、物音で起こしてしまったんだろうか。容赦のない朝陽が軋むからだの節々に染みいるように、の声がからっぽの器に注がれる。透明な、水面の色をした。
 焦凍の家は立派な日本家屋で、よく手入れされた庭園には塀に沿うように桜の木が植わっている。が言うように、それはもうだいぶ葉ををつけていて、風にまみれた花びらたちが軒先まであちこちに散っていた。
 焦凍は、砂利の上の桜の花びらを一枚、しゃがんで指先に拾いあげた。はよく、天気や季節について朗らかに話しだすけど、彼には今もその応え方が分からない。と出会うまで天気や季節を気に留めたことなどなかったから、空が青いということや、桜が散るということが、彼女の心のどんな一面を照らしているのか、うまく想像できないのだ。

「痛むの、ひだりめ」

 朝陽よりも、陽の光を翳らせるの濃い影のほうが、よほど焦凍にとってあかるい。適当なサンダルを素足にひっかけ、彼女は焦凍のとなりに同じようにしゃがみこんだ。色々なことに追いつけない。自分は一体、彼女に何を見透かされているのだろうと。

「……いや。どうして」
「寝起きはずきずきするって、言ってたから。まえに」

 言っただろうか、そんなひ弱なこと。言ったかもしれない。大事なのは過ぎ去った言葉ではなく、今、彼女がここにある痛みをまっすぐ見抜いたということだ。焦凍はうろたえた。もちろん、動揺を目に見えるかたちにはしなかったけれど、このほとんど日常と同化した痛みだって、他人の目に見えるほどのものではないはずだ。

「さわってみても、いい?」

 意外な申し出だったけれど、彼には拒む理由がなかった。焦凍がうなずくと、華奢な手のひらが彼の左頬に慎重にあてがわれる。消えない痣の上で、の指先が動く。手当てをしてくれている。の親指のはらが目もとを掠めるたび、末梢神経の疼きは波が引くようにしだいに鎮まっていった。

「小さいとき、ふしぎだった。痛いの痛いのとんでけーって、あるでしょ。どうして自分でさわるより、誰かにさわってもらったほうが、よくなるのかなって」

 ああ、と焦凍はじつにつまらない相槌を打って、まばたきをした。ほとんど目を閉じているような長いまばたきだった。
 今、こうしていることが、とても自然なことだと感じる。彼女が自分にさわっていること。自分が彼女にさわっていること。つい何時間か前にはこんなにおぞましいことがあるのかと、そう感じていたのに。
 焦凍が十六年間生きてきて真に思うのは、人間はとても脆いということだった。それを彼に教えてくれたのは、母であり、そしてだった。
 去年の夏、焦凍の母親が入院する病院で、二人は出会った。病院の敷地内にある花屋で花を買おうとして、何をどうみつくろえばいいか分からず、あげく小銭を切らしていた焦凍のことを、偶然居合わせたは心底優しく導いてくれた。は入院患者で、彼女だけこの世界から色素を奪われているのではないかと思うほどまっしろな手で点滴スタンドを持ち、一年ここに居たけど夏の終わりに退院するの、と人懐っこい笑顔を焦凍に向けた。それから「夏の終わり」まで、週に一度の母との面会のたび、彼女と会えたのは三回。その三回で、焦凍はすっかり、さみしさを手に入れてしまった。会うたび深くなる、別れのさみしさを。

「もう、轟くんと会えなくなっちゃうのは、少しさみしいけど」

 さみしいと言うわりに、彼女はすっきりとした眼をして、焦凍に別れのあいさつをした。午後五時の入院棟のロビーで、Tシャツの半袖からのぞくの細腕はやはり病的に白かった。この白い清潔な世界で、何より白いものだった。

「轟くんのお母さんも、はやくよくなるといいね」

 焦凍はなぜが一年もの長いあいだ入院していたのか深くは知らなかった。訊こうとしなかった。それは、それを知ってしまえば、自分と自分の母親のことについて、彼女に差しださなければならないのではないかと考えたからだ。重たくて、悲惨で、自分も母もまだすべてを解消したわけではないわだかまる記憶を、どうしてそう易々と委ねることができるだろう。
 だけどこの消えない痣を、こえていかなければ。
 二人の二人という歩みは、きっと同世代の恋人たちよりも慎重で、拙いものだっただろう。それでもなんとか辿りついた夜の淵で、の白いやわらかなからだをひらかせたとき、焦凍は突然、なんの前触れもないおそろしい疑問に襲われたのだ。俺は今、何をしようとしているのだろう、と。
 医者が患者にメスを入れる行為は、医者が医者であって、患者が患者であって、二人のあいだに行為の合意がありはじめて、無惨な暴力ではなく適切な治療になる。それなら、俺とのこのいとなみはなんだ。俺は彼女にとって何者であって、どういう料簡でどんな合意をとりつけてこうしているのか。いいよ、とも、しよう、とも言われてない。これが暴力ではない証明は、一体どこにある。
 そんなふうに思うと、もうだめだった。かたまって、何もできず、言えず、ただ萎えてゆくだけの焦凍のからだを、はあやすように抱きしめた。――わたしね、大好きな映画のDVDもってきたの、一緒に見ようよ。そんな、はだかの二人には不釣り合いな幼い提案が、焦凍にはこの上ない慰めに聞こえた。

、もういい。ありがとう」

 左目を覆う夢のような手のひらを包みこむ。両目を開ける。焦凍はのひたいにひたいを重ねた。こそばゆい前髪の奥、のひたいの熱が芯から焦凍をあたためた。

「……なおった?」
「ああ。……それと」
「と?」
「ごめんな、ひとりにして」

 見さだめるような目をしてから、はくすりとあっけなく笑った。彼女は迎えにきたのだと思う。この春の庭に、ひと足先にあの何もできなかった一組のふとんから這いだした、臆病な自分を追って。
 それから焦凍はの手を引いて自室に戻り、彼女と二度寝をした。二度寝というより、まさしく初めての。どういうわけか朝、カーテンを突き破って降り注ぐ光のなかで、逃げも隠れもできない日溜まりのふとんの上で、夜中こわばってできなかったことがするするとできてしまったので、驚いた。それはも同じだったようで、彼女はどこまでも聞き分けよく水気を含んで、焦凍を正しく招き入れた。初めて会った花屋で、迷い子のようであった彼を丁寧に導いてくれたように。は出血したが、つらい、苦しげなようすは見せなかった。それどころか、初めてが朝なんて……、と焦凍に耳打ちする余裕もあった。ほんとうだ。あべこべだ。
 夜をうまく閉じられないまま、二人は朝を迎えている。



 混みあった黄昏の車内で、どこかで聴いたような耳ざわりのいい旋律が焦凍の胸に触れる。電車の走行音にまぎれ、それはきっと、焦凍にしか聞こえないか細い声だった。が鼻歌をうたっているのだ。帰宅するサラリーマンたちの波に呑まれ、小さなからだがつぶれてしまわぬよう、腕のなかに匿っていた恋人は呑気なもので、揺れるドアに頭をあずけてしだいに夕闇に溶けていく街並みを眺めていた。彼女の眼のなかで反転する蜜色の風景。
 はっとして思いだす。が口ずさんでいたのは、彼女が見せた、あの古いアニメーション映画で流れていた歌だった。

「もうすぐ着くね、ひさしぶりだなあ」

 あの夜のふがいなさも、朝のふしぎも、すべてをつつみこんだ夕暮れどきの彼女は、なぜかとても機嫌がいい。からだは大丈夫か、どこも痛いところはないか、ひとりで歩けるか。そんなことを過保護に焦凍は問いかけたけれど、は「ちょっと休めば大丈夫だよ」と言って、家を出るとむしろ焦凍の手を引くように最寄り駅の切符売り場に並んだ。
 おぼろな朝もやのなかではうまく思いだせなかった彼女の気に入りの物語が、焦凍の内側にゆっくりとふたたび立ち上がってくる。一枚の毛布にくるまって、眠れない夜のなかで、絡まる体温といたたまれなさが世界から二人を切り離していた。映画のなかの鮮やかな色彩も、軽やかな音楽も、名前も覚えられぬ人物たちの平和な表情も、そのときの焦凍にとっては無機質な記号の大洪水でしかなかった。ただ、が「大好きな映画」と言った。それだけが、流れるばかりの車窓の眺めのような映画を、彼にとって記号以上のものにしていた。


「うん?」
「……ひとつ、聞いてもいいか」

 密度の高い狭苦しい車内の空気はなまぬるく停滞していて、スプリングコートを着こんだにはあついのか、彼女の頬は少し火照っているように焦凍には映った。腕一本で彼女のための空間をつくったまま、もう片方の手の甲を軽くその頬にあてがってみる。は焦凍の言葉に、触れる手に応じるように、首をかしいで夕陽を溜めたままの瞳をよこした。

「どうして、あの映画の主人公は空を飛べなくなったんだ」

 べつに、熱心にあの物語を解読しようなどという気は毛頭なかったのに。あやふやに思いだせる映画の、断片的に頭に流れているイメージから、気づくとそんな疑問が溢れだしていた。映画のなかで途中、主人公の少女は、親から受け継いだ「個性」を何故か突然に失ってしまうのだった。なんの理由もなく、そんなことって、あるのだろうか。もしあるのだとしたら、映画のなかの少女は失望していたけれど、自分にとってはどうだろうか。この左側を、母が醜いと言った半身を、父の罪咎として突き放すのではなくおのれ自身として受け入れるまで、自分はいつも不完全な「個性」を持て余して凍えていた。
 自分のなかで何かが少しずつ変わってきている。冷たく清らかな雪解け水のように、過ぎ去った季節のなごりが、ゆっくり流れだしている。
 は、焦凍の突然の問いかけに、目をまたたかせて笑った。きっと予想外の言葉だったろうに、少しも動揺なんかせず、むしろレールの敷いてない会話のゆくさきを楽しんでいるかのように。背後のドアにあずけていた頭をもたげ、が焦凍の着ていた薄手のセーターをつまむ。ついさっき上機嫌に歌をうたっていた唇を、いたずらっぽくひらいて、そして密やかにこう告げた。

「焦凍くん、にぶちん。そんなの決まってるじゃん」

 干上がった川を渡る鉄橋にさしかかり、車体が大きな音を立てて揺れる。は人目もはばからず、焦凍の肩にしがみつくようにしてつま先立ちの背伸びをした。まるで子どもの内緒話でもするようなそぶりで、耳にじかに声を注がれる心地よさ。ささやき声が伝える、生々しい「個性」のからくり。毛布のなかでは錯乱していて気づかなかった、くすぐったいようなねっとりとしためまいに襲われる。一瞬のこと。川を渡り切ったころには二人はまた、腕のなかに匿い、匿われる、もとのささやかな恋人のかたちに戻っていた。

「そうだ。着いたらね、お花買っていこうよ、あそこで」
「……ああ」
「黄色のガーベラがいいな。眺めてるだけで気持ちが明るくなるの」
「ああ」
「お母さん、喜んでくれるね」

 焦凍が黙ってうなずくと、もまた満足げにうなずいて、彼の指にそうっと小指を寄り添わせた。自分の喜びを、まっすぐに誰かの喜びと結びつける、彼女のそういう愚かしいまでの素直さを、焦凍はときおりたまらなく愛しいと思う。何かを芽吹かせる春の、あいまいで、だけどその何ものも拒まない優しい温もりが、焦凍のなかにさかいめをつくっている苛烈なふたつの季節を馴染ませ結びあわせてくれる。
 二人が降りる次の駅まで、あと数分。
 彼は今日、初めて、愛するひとをあの病室へ連れてゆく。









THE END

2018.4