週が明けて、文化祭本番さながらの通し稽古が行われることになっていた月曜日、爆豪くんはやっとインターン活動を終えて雄英に帰ってきた。その知らせを聞いたのは、昼休みの更衣室で衣装係の女の子たちにドレスを着せてもらっているときのことだ。爆豪くんが久しぶりに登校している。だけどヴィランとの戦闘で足を怪我をして、今日のリハーサルでは舞台の転換の仕事はできない、というような話だった。胸が苦しいのは、腰回りのきついドレスのせいじゃない。あいつも怪我とかするんだねえ、と、ドレスの背中のリボンを整えながら耳郎さんは呑気に言ったけど、わたしは相づちを打つこともできなかった。
 午後のリハーサルが始まるまでのわずかな時間、少し頭痛がするからと適当な嘘をついて、更衣室を抜けだした。保健室にリカバリーガールは居なかったけれど、奥のベッドのカーテンのすきまから、爆豪くんの特徴的な癖毛がかいま見える。おそらく足の怪我の処置を受け、その副作用で眠ってしまったのだろう。
 極力音を立てないように、慎重にカーテンを開けたのに、彼はわずかな物音と揺れる影に反応したのかすぐさま過敏に目をひらいてからだを捻った。爆豪くんは大雑把に見えてとても神経質だ。わたしを見とめ、つまらなそうに目をこする。彼は制服のシャツを脱いで、黒いタンクトップ一枚になっていた。

「爆豪くん、」
「……んだ、お前かよ」

 肩からずり落ちた掛け布団をふたたび引き寄せ、爆豪くんはふわりと気緩んだあくびをした。その態度がまったく、歓迎どころかわたしに受け合うつもりなどこれっぽっちもないみたいで、「おかえり」と言うタイミングすら見失ってしまう。最後に会ったのは、十日前、文化祭の準備で。最後に話したのは、一週間前、電話で。インターン先で負った任務のことで、視てほしい対象者が居るということだった。一方的な業務連絡でしかかかってこない電話を、毎日、心のどこかで待ち望んでいる。彼に必要とされている。それが嬉しくて、そして、むなしかった。

「えっと、足怪我したって」
「それが?」
「そ……心配で。会敵したって、聞いたから」
「はあ。つかなんだその派手なナリは」

 ねめつけるような冷たい視線を投げられ、はっと、いつもと違う自分の身なりや髪型について思いが至った。パニエでふくらませた中世風のドレスも、ひとつにまとめた髪も、舞台の上に居ないのならとても場違いだ。そんなことも忘れて、更衣室からここまで走ってきた自分のそそっかしさが途端に恥ずかしい。爆豪くんに会いに行きたい、話をしたい、その一心で、ドレスにスニーカーというちぐはぐな格好で駆けてきた。

「こんなの似合わないよね、やっぱり」

 わたしのつぶやきに爆豪くんは何も応えない。ただ目を逸らし、からだを窓側にそむけながら、寝癖のついた髪をかきあげた。そもそもそういう問題じゃないだろ、とでも言うような呆れかえった仕草だった。

「で? なんなんだよ」
「……あ、うん、あのね、爆豪くん」

 そろそろ進路のことを報告しないといけなかった。大学の推薦を受けるつもりだと。だけど、眠たそうに目を閉じかけている爆豪くんの、そのあからさまに無関心な態度を見せつけられているうち、わたしのなかにもなけなしの意地のようなものが芽生えてしまった。意地というより、我儘かもしれないし、ただの向こう見ずな欲望かもしれない。わたしの爆豪くんに対する欲望はいつも、みじめな思い上がりのとなりにある。とっくに気づいているくせに、彼は目もくれようとしないのだと。
 身を屈め、寝そべる彼に、ひとつ、あまりに突拍子のない願いを口にした。こんなに心臓が騒いだのは、二月に彼にチョコレートを押しつけて以来のことだ。A組の女の子たちが食堂で、「爆豪、ことしもチョコ要らないってさ」というような話をしていて、絶対に受けとってもらえないだろうと思ったから、「捨ててもいいから受けとって」と随分な渡し方をした。俺をなんだと思ってんだ、と爆豪くんはやっぱり心底呆れてたけど、それでもとくにためらいもなくチョコレートを受けとってくれたのだ。
 見て見ぬふりを貫くならいっそ、あのチョコを目の前で捨ててくれてもよかった。気持ちって、かたちにすると、言葉にすると、こんなにも意味を変えるのだと驚いた。
 閉じられていたまぶたが、はたとひらいて、爆豪くんが振り返る。上体を起こしてわたしを睨みつける彼の表情からは、まったく眠気というものが取り払われていた。

「今なんつった?」

 聞き返されて、もういちど願いを言葉にしようとしたけど、できなかった。そういう威圧感を彼は放っていた。でも、あとには引きたくない。ぐっとこぶしでドレスの裾をつかんで、まっすぐ彼を見据える。

「わたし、進学することにしたんだよ。東京の聖都大。爆豪くんの、言う通りに……。それぐらいの見返り、いいでしょ」

 自分でつかってしまった「見返り」という無機質な言葉に、自分ですぐにずたずたに傷ついている。どうしようもない。声が震えてみっともないし、そうやって打算的なことを言ったぶんだけ、きっと彼につけいる隙を与えてしまっている。爆豪くんはなんとも言えない怪訝そうな目を、ぎろりとわたしに向けていた。照れたり、焦ったり、そんなそぶりはびた一文も見せることなく。

「……なにお前、あんなド田舎の事務所に飛ばされたかったんか」
「……そうじゃないけど」
「ならいいだろうが。俺はお前に助言してやっただけだ」
「助言なんて、ずるいよそんな……それにわたし、わたし」

 地方の事務所から指名がきていると話したら、ものすごく嫌なカオをしたくせに。わたしを手放したくなかったくせに。わたしの「個性」を……。首を振って、責任転嫁の言葉をぜんぶ、ふるい落とす。わたしがわたしで居られないのは、彼のせいじゃないし、わたしの願いと彼の束縛は関係ない。ただ、わたしは。

「初めては、爆豪くんがいい」

 今日発したどんな言葉よりも、その言葉ははっきりと強いものだった。かわいい涙も出はしないぐらいに、強く。爆豪くんは、一体このわからずやになんて言ったらいいのか、そんな当惑した表情で口をへの字に曲げている。こんなずるい回り道をして、こんな大それた願いごとをするぐらいなら、好き、とどうしてその一言が言えないんだろう。いつからわたしの彼への羨望や尊敬は、その一言のまわりを衛星のように廻るばかりになっただろう。堂々巡りでどこへも動けないでいる。ここに、すべての中心点があるかぎり。

「……劇のあれは、ふりだろ」

 とっさに首を横に振った。勢いで嘘をついた。ものすごく性根の悪い嘘を。午前中の教室で、彼もあのシーンの演出が変わったことを知ったのだろうか。「話題性」の言葉の通り、演出を変更した次の日からもう、学内のポスターも貼り替えて、ヒーロー科のみんなも他科のみんなも、舞台の話題といえばそのこと一色になっていた。

「芦戸さんが、本番は、ほんとうに……口にしてって」

 ただ自分のためのでたらめを口にするというのは、こんなに嫌な気持ちになるものなのか。ずるい本心を見透かされるのがこわくて、まともに顔を上げられなかった。時計の針の音。廊下から響く足音。空調と、冷蔵庫のぶうんと鳴る音。二人の声しかないと思っていた白い部屋には、こんなにもたくさん世界の音が響いている。

「……へえ。まあ、相手があれだもんな」

 嘲るような笑みを含んだ、地を這う低い声だった。こんなことでなぜか、初めて爆豪くんと目を合わせた森のなかの、あの沈んだ冷たさと、匂いと、彼の存在、向けられた「殺気」のすべてを、ありありと思いだした。

「それ、ど」

 どういう意味、とは訊けなかった。
 腕をつかまれ、ちから任せに引き寄せられ、そんなやり方はいつもと同じようにひどく乱暴なのに、その先に待っていたのはまったく知らない彼だった。
 唇を押しつけられてすぐ、一瞬ぶつかるような、かすめるような、そういう素っ気ない感触の予感はいっさい裏切られた。喉をつつむような熱い手は、わたしの自由を奪ってあまりある。暴力とはまったく違うたぐいの、拒むことのできない負荷が皮膚から延焼するようにひろがっていく。まったく目を閉じてくれない彼の圧に押しつぶされるように、たまらず目を閉じた。目を閉じると、もう、二人が何をしているのかさえ分からない。だけど自分から求めておいて彼の行為を引き剥がすなんて、わたしにはとうていできないことだった。
 頭の上で予鈴が鳴っている。腰から背骨を伝って、痺れるような悪寒が走る。
 ふと唇を離して、爆豪くんが厚ぼったい息を吐いた。けっして泣くものかと思っていたけど、不思議なぐらいわたしの内側は凪いでいた。満ちるのも、干上がるのも、遠い遠い孤独な潮目で。

「これで満足かよ」

 かたちだけ十分な、空っぽの口づけをして、爆豪くんがわたしの耳もとでささやく。ほんとうなのに、ほんとうに触れたのに、まるで演技のようだった。首を振って、彼の肩をやっとの思いで押し返す。彼の唇には、わたしのつけていた口紅の赤がくっきりうつっていた。どうせすぐ、拭われてしまう。なかったことになる。わたしは彼のおもてにすら何も残せない。

「……爆豪くん、慣れてる」
「はあ?」
「もういい。ごめんね、わがままで」
「おい」
「進学はする、から。……でも、その先は分からない」

 ベッドを区切る白いカーテンをつまんで、目を合わせないように半端に振り返る。つけたした言葉が、わたしの未来を欲する彼に対する、今できるせいいっぱいの抵抗だった。抵抗というより、訴えかもしれない。わたしはもう、彼への敬意をこの感情と切り離して考えることができなかった。きっと彼が、その二つを切り離すことでしかわたしという存在を受け入れられないように。
 ぜんぶを渡せない相手に永遠にわたしの一部を与え続けられるほど、わたしはわたしを、引き裂けない。



 走る。来た道を引き返すように走る。保健室を飛びだして、すぐ近くの階段から降りて来ていたのは、今いちばん顔を合わせてはいけない男の子だった。自分が今、どんな酷い顔をしているのか。化粧や、髪の毛が、不自然に乱れているに違いない。考えれば考えるほど今すぐ女子トイレに駆けこみたくなって、つい、彼を無視するような仕方で逃げてしまった。彼はとても優しいひとだけれど、あからさまな不自然を見て見ぬふりしてくれるようなお人好しではなかったみたいだ。まるで深い仲のように囃したてられても、わたしたち、互いの深さなんて何も知らない。そこに何が沈んでいるのかも。

!」

 轟くんの声はあっという間に近づいてきて、つかまる、とすぐに悟った。脚がもつれて、どうにも気をとられる。こんな華奢なドレスはやっぱり性に合わない。それにひきかえどうだろう。青いビロードのロングガウンに身をつつんだ轟くんは、颯爽としていて、ほんとうに中世ヨーロッパの王子様のようだった。

、っ、おい、なんで逃げてんだ」

 レース地の薄いグローブの上から、手首を容赦なくわしづかみにされる。その左手の力強さは、つい数分前、この腕を引き寄せたあの硬い右手よりずっと荒々しいような気がして、心臓が跳ねた。腕を引くように振り向いてみたけど、離してはくれない。彼の涼しげな眼のなかに、まじめな、硬質の光が宿っている。それは紛れもなく初めて見る彼の表情だった。

「轟くんこそ、なんで、」
「耳郎たちにが保健室行ったって聞いたから、帰ってこねえし、心配で……」

 本鈴のベルが鳴って、轟くんの言葉の先が弱々しくしぼんでゆく。まるで、彼はわたしのようだ。心配だって、きっとその言葉は嘘ではないのだろうけど、自分をかえりみればそれはけっして真実のすべてではなかった。そんなに単純な良い子にはなれない、誰も。

「みんなに様子見に行けって言われたの?」

 轟くんの目が意外そうにみひらかれる。わたしは今まで一度だって、ほんのわずかな棘だって、轟くんに向けたことはなかった。それを今、今さら、制御もできずにばら撒こうとしている。数分前の自分の許せなさを、彼になすりつけるように。

「……いや、違う。それは」
「轟くんっていつもそうだね。優しくて、流されてばかり」

 彼の気づかいを踏みにじるような酷いことを言っているという、自覚はあったのに、取り消せなかった。心のどこかで甘えている。その甘えが何を養分にして胸に巣食っているのか、少し頭をつかってしまえばすぐに分かることを、分かろうとせず捨て置いて。握りしめられたままの手首がだんだんと熱く、重たくなってく。
 そうだ彼の左手は、あのひとに似た熱の手のひら。

「爆豪と何かあったのか?」

 わたしを離さない彼の手をじっと見ていた、俯いたうなじに声が降る。後ろでシニョンのようにまとめあげた、このよそゆきの髪型もやっぱり慣れない。無防備にさらした首筋から脳天まで、轟くんの声が、彼の名前が、髄をじかにむしばむように伝ってくる。保健室に居たのは分かっているのだから、他意はないのかもしれないし、もう、すべてを感づかれているのかもしれない。両極に触れうるあやしい問いかけに、しだいに脈拍が加速してゆく。視界に滲む自分の手首はまるで、手錠を嵌められているみたいだった。

「……何も。轟くん、あの、手」
「流されてるのはのほうだろ」

 撒き散らした棘が、轟くんの怒気を含んだ言葉として、自分に返ってくる。今になってこわくなり腰を引こうとすると、所在なくガウンのポケットに入っていた彼の右手が、わたしの二の腕をつよくつかんだ。逃げるなと命じられているような気がした。その束縛と、涙の気配に耐え切れずに、とうとう上を向く。轟くんの目のなかでわたしは身勝手なほど怯えていた。

「俺は、何言われても平気だった。噂も、ひやかしも、となら。むしろそれで、お前が誰にもとられなきゃいいって思ってたんだ」

 そう言いながら、今度はわたしの目のなかで轟くんがひどく自信なさげにうなだれてゆくので、驚いた。彼の重みが触れたはしから流れこむ。こんなふうに腕と手首をつかまれていなければ、わたしのほうこそ彼のからだを支えようとしていたかもしれない。他人に張り巡らされた無責任な嘘のなかに、彼が隠していたほんとうのこと。こんなに壊れやすくてもろい、彼のこと。
 轟くんのひたいがわたしの前髪に重なる。くすぐったくて、息を呑んだ。

「俺は、優しくなんかねえよ。ただ……」

 ごめんね、ごめん、轟くん、ごめんね。掠れた声でごめんと言うたび、むしろ罪悪感が募っていくのはなぜだろう。ほんとうのわたしを知ってしまったら、きっと彼は幻滅するのだろう。優しくなんかないと言う、誰よりも優しい男の子を、今すぐわたしは突き放さないといけない。それなのに、わたしをつかんで離さないこの手に、今は縋りたくてたまらなかった。こうして、彼の想いをはっきりと拒まず、数秒後に落ちてくるだろう温もりに、あのずるくて悲しい瞬間を塗りつぶしてほしくて、それだけだった。
 いつもより濃い舞台用の化粧をして、剥がれ落ちてしまった赤の跡に、轟くんの指先が触れる。まるで犯した罪をつまびらかにされた悪人のような心境で、わたしは、二度目のキスを待っている。
 ふりじゃなくて、ほんとうの行為で、噂でも、ひやかしでもない、ほんとうの結び目で、わたしをあのひとから攫ってほしい。
 舞台の上に辿りつくまでなんて待てない。今すぐここで、掻き消して。









THE END

2018.5