十二月も下旬にさしかかった、クリスマスムード一色の華やいだ街を、くたびれたパンプスを鳴らして足早にすり抜けていく。地図アプリを頼りに目的地を探しながら、ついでにスマートフォンの時計を確認して、つのっていく緊張のなかにほのかな焦りが滲んだ。あと五分で辿りつけるだろうか。遅れたとして、わたしは待ち合わせ相手の連絡先を知らないのに。
 出張中の窪山さんから電話があったのは今日の夕方、デスクでノートパソコンに向かっているときだった。彼は今、或る変死事件を独自に追っていて、その都合で福岡を離れていた。おかげで別件の原稿がこちらに回ってきたりと、だいぶしわ寄せをこうむっているのに、その上でさらにわたしに仕事を頼みたいという。特ダネを拾ってこられるエースさまは、勝手気ままなものだ。

『ホークスが今夜、ちょっとだけ時間とれるんだって。悪いんだけど俺の代わりに取材行ってくれる?』

 春夏の研修が終わってから、わたしは窪山さんと組んでホークスの番記者をさせてもらえることになった。先輩にはほかにも抱えている取材対象者が山ほどあったので、わたしのような代打要員がときには必要だったのだ。週に一度、ひとりでホークス事務所に赴いたことも、今や何度もある。それでも、わたしは彼のように個別の取材を許されたことはなかったので、その頼みを引き受けることには少しためらいがあった。

「わたしで大丈夫ですか」
『大丈夫、大丈夫。連絡はこっちでしておくし』
「はあ……でも、」
『場所と時間はメールするから確認して。あの件もそれとなく訊いとけよ~』
「自分で訊いてくださいよ、もう」

 まあそうかたいこと言わんと、と調子のいいことを笑いながら言って、先輩はあっという間に電話を切った。
 それから大急ぎで記事を二本書き終え、出稿のチェックをしてから、わたしは忙しなく街へと繰り出した。そしていま、約束の時間をぎりぎり過ぎて、待ち合わせの場所に駆けこんでいる。そこは看板の出ていない、とても見つけにくいバーだった。案内のウェイターが中二階の扉をひらくと、澄んだドアベルの音がフロアに響きわたる。薄暗いなかを見渡して、わたしはすぐにホークスを見つけた。それよりもはやく、奥まったソファ席から、彼がわたしを見つけていたからだ。

「あの、お待たせしました…………ホークスさん?」

 彼は私服のときも、仕事中と同じワンレンズのサングラスをかけていた。仕立てのいい濃紺のMA-1は、翼をもつ彼に合わせたオーダーメイドに違いない。わたしを見据えて、しばし呆けたように目をまるくしていた彼は、名前を呼ばれてようやく我に返ったようだ。この時点ですごく、嫌な予感がした。

「……ああ、ごめん。クボさんとくだ巻きながらって思ってたから、ちょっと驚いて」

 少し困惑したようにうっすら笑いながら、ホークスはサングラスをはずしてテーブルに置いた。連絡しておくと言ったくせに、どうやらまったく先輩から話は通っていなかったらしい。彼の待ち人でもなんでもないのに、息を切らしてここまで来てしまった。顔から火が出るとはこのことだ。

「す、すみません。窪山は出張で……出直してきます」
「いや、なんで。いいよ。となりどーぞ」

 席を横にずれて、ホークスはゆったりとした二人がけのソファのとなりにわたしを招き入れた。動じていたのはひとときだけで、彼はもう戸惑ったそぶりなど見せずに、いつもの、彼らしい気さくな調子をすっかり取り戻していた。
 こういうところに来るのは初めてか、と訊かれたので、素直にうなずくと、彼はわたしに代わって適当な酒をバーテンに頼んでくれた。酒を飲みに来たわけではないけれど、ホークスが先に飲んでいたのだから付き合うよりほかない。それにわたしも、一杯ぐらい入れないと、緊張してちゃんと話を訊きだせる自信がなかった。

さんこないだ、公安の批判記事書いてたね」

 何かのロックを飲みながら、ホークスはリラックスした様子で、わたしの書いた記事のことを話した。わたしの書いた記事、と言っても、ほんの小さなコラムのようなものだし、そもそも紙面上にわたしの名前なんか出していない。窪山さんの入れ知恵かもしれないが、このひとなら、どの記者がどんな記事を書いているのか大方把握しているのかもしれない。そう思わせてしまう神通力が、彼にはあった。

「批判というほどのものでは……」
「良かったよあれ。俺も、設立基準つくって事務所の数を制限するより、警察と組んで地域格差を是正するほうが先だと思ってたし」

 公安ってバカだよね、と言って、あっけらかんと彼は笑う。あれは、もう少し角の立たない書き方をしろと上司にあとから怒られた記事だ。そういうものを「良かった」と言ってしまうところが、いかにもホークスというひとらしい。ありがとうございます、と言って、わたしは彼の頼んでくれたカクテルをひと口飲んだ。甘酸っぱいリキュールの味が、さわやかに口内にひろがっていく。

「そうだ。俺、さんにひとつ聞きたかったことがあるんだけど」
「え、……なんでしょう」
「前に言ってた、俺が『家族の思い出』ってやつ。あれ、何?」

 そう問われても、わたしには彼がいつのことを話しているのかすぐには分からなかった。まさか四月の、初めて出会ったときのことを彼が覚えているなんて思いもしなかったから。それも、ほんの一言ほんの一瞬、口の端にのぼったようなおぼろげな言葉のことを。ここまでくると、たんに記憶力がいいとか、耳ざといだとか、そういう次元を超えているような気がする。畏怖の念すら覚えて、わたしは、彼に伝えるべきことを胸のうちでかき集めた。

「三年前、北中洲のグランドホテルで火災があったことを覚えていますか。ホークスさんがいちはやく現着して、死者はゼロでした」

 わたしのささいな一言を覚えていたひとが、自分が処理した事故のことを忘れるはずなどない。彼は間髪いれずにもちろん、と答えた。

「覚えてるよ。たしかずいぶん高層の客室から火が出て、最上階のレストランに居たひとたちが逃げ遅れた」
「はい。それで……その、逃げ遅れたレストラン客のなかに、わたしの両親がいたんです。ちょうど結婚記念日で、二人で食事をしに出掛けていたみたいで」
「あらまァ……」
「ほんと、ついてないですよね。でも、不幸中の幸いだったんだと思います。ホークスさんの存在が……」

 わたしは、現場に駆けつけた(というより飛んできた)ホークスに父と母が助けられたこと、それをきっかけに二人ともすっかりホークスの信奉者になってしまったこと、この仕事に就くときに、当時の新聞記事をスクラップしたものを父から貰いうけ、それを会社のデスクの引き出しに潜ませていることなどを、ぽつぽつと話した。こんなエピソードは、年間何百何千と市民を救っている本人からすれば、特別なものではないと知りながら。
 わたしは今まで生きてきて、ヒーローの手を借りたことは一度もないし、ヒーロー頼みのこの国の治安には少なからず疑問を抱いてきた。それなのに突然、彗星の如くあらわれた若手ヒーローが、自分の両親の「命の恩人」となってしまったのだ。ホークスが居なければ二人はどうなっていたか分からない。地元を離れ、ずいぶんあとになってから、「おぞましい記憶」ではなく「幸いな奇跡」として両親からそのことを訊かされたわたしには、いまだに実感の湧かないおそろしいこと。それにしても、一生残るかもしれない恐怖を、その存在だけで、一生分のおのれへの信仰に変えてしまうのだから、ヒーローというのは稀有なアイコンだ。そしてやっぱり、わたしには少し、こわい。不気味だ。まるで、神さまのようで。

「すみません、せっかく聞いてくださったのに、こんな辛気臭い話を長々と」

 ぽつりと謝ると、ホークスは優しく首を横に振った。伏せたまぶたにちらりと光る、金色のまつげ。ほんものの鷹のように、切れ長の目を覆う漆黒のふちどり。善良な表情をしているけれど、彼は一体、わたしの話からどんなことを感じとっただろう。不意にもちあげられた彼の視線からは、心なし、胸をひらくようなアルコールの匂いが漂った。

「じゃ、今度はさんの番だ」
「え?」
「貴重なお話を聞かせてくれたお礼にひとつ、俺もさんの質問になんでも答えてあげる」

 わたしにからだを向けるようにして、ホークスはソファの背もたれに頬杖をついた。片手につまんだロックグラスのなかで氷が涼しい音を立てる。溶けていく。なんでも答えてあげる、という、記者からすればこのうえない誘惑につつかれて、わたしのなかに浮かびあがったのはなぜか、先日スポーツ紙を賑わせた「あの件」についてだった。そんな詮索、くだらないことだと思っていたはずなのに、どうしてまっさきに思いついてしまうのだろう。お酒をすすりながら、わたしの深層心理を見透かすみたいに、ホークスが目を細める。その笑みが、火照った肌にはりつくようで、少しぞくりとした。

「例の記事のこと訊かないと、クボさんに怒られちゃうんじゃない?」
「……あれは、ホークスさんはお答えしなかったことにしようと」
「いいよ、オフレコなら答えても」

 そんなふうに言われたら、逆に尋ねないでいることのほうが野暮になってしまう。プライベートのことなんて訊いたって意味がない。この感情が、記者としての打算でも、この仕事に対する誠意のようなものでもないということ、とっくに気がついている。とりつくろえない選択を迫って、ホークスはブロンドの髪を弄ぶようにかきあげながら、わざとらしく首を傾げた。わたしから何かを引きだそうとしている。質問を許されたのは、わたしのほうだったのに。

「俺の何が知りたい? それとも、知りたくない?」

 さんになら何を教えてもいいよ、とホークスは密やかにささやいた。だけどわたしはもう何も訊きたくなかった。わたしは言葉で彼を暴きたくなかった。知りたくないからじゃない。教えてもらいたくないわけでもない。
 ――だってわたし、ほんとうは知っていたの。
 そういう無知な傲慢さが、あなたと出会う前から、ずっとある。



 何かの言葉を引きだすためにではなく、言葉ではないものを交わすために彼のそばに居るというのは、それだけでもわたしには非常な体験だった。

「あ、もしもし、クボさーん。来れないなら連絡してくださいよ。貸しですからねー。そうそう、さん、クボさんのペースで付き合ってもらったら、だいぶ酔っちゃったみたいで。はい、……はい、タクシーには乗せたんで、大丈夫じゃないですか。かわいそうですよ、あんまり深い時間の仕事押しつけちゃ。ちゃんと埋め合わせしてあげてくださいね。じゃあ、またー」

 ホークスがにこやかに、まったくいつもの調子で窪山さんに電話をかけているあいだ、わたしはずっと彼の腕のなかに居て、彼の胸にひたいを寄せ、前のめりにたたまれた翼に全身を覆われるようにつつみこまれていた。普段どおりの会話を続けながら、彼の大きな手のひらが、わたしの耳や、髪や、頬に無為にさわる。通話口からぼそぼそと聞こえる先輩の声が、背中を撫でている羽根先の心地とまざりあって、心臓をたまらなくざわつかせた。耐えがたい。たまらず、彼の胸に震える息を吐きつけた。
 電話を切ると、彼は一枚の羽根をつかって、ベッドの上からソファに目がけてそれを放り投げた。わたしは頭を彼の肩口にあずけたまま、スマートフォンが紙飛行機のようにすっと浮遊し、クッションの合間に落ちるのを見た。これでアリバイづくりは完了、というわけだ。

「……クボさんてさ、俺のこと信用しすぎだと思うんだよね。ヒーロー性善説?」

 くつくつと笑いながら、彼はいいように乱したわたしの髪を耳にかけなおし、そっと低い声を吹きこむ。長年の付き合いのなかで、ただ信用してもらったのではなく、積極的に信用させてきたのはきっと彼のほうだろうに、少し偽悪的な響きのする言葉だと思った。もちろんその信用も、ヒーローとしての誠実さも、けっして嘘ではないのだろう。だけどどんなに仲が深まっても、彼が仕事以外の、こういう性根を先輩に明かさない理由も、わたしにはなんとなく分かる。似た者どうしの目ざとさを持っていても、あのひとはきっと、性善説。どんなことを見抜こうと、正義も悪も、対岸の火事だ。自分に飛び火するなんて、夢にも思わない。
 頭をもたげ、わたしは彼の腕を離れて身を捩った。背中をくすぐっている、しだれた紅の翼に、初めて手を触れてみる。それは思ったよりもかたくて、そしてかすかな温もりを秘めていた。市民の手となり、足となり、それ以上の献身をほどこす一本一本の優等な羽根。しばらくぼうっと、その毛並みを撫でていると、やがて背後からふたたび彼の腕に引き寄せられた。

「ごめんね。幻滅させちゃって」
「幻滅なんか……」
「しない?」

 耳の裏に唇があてがわれる。彼の触れ方がしだいに核心に迫っていくたび、わたしの頭は不都合にも冴えわたった。そもそも、電話で語っていたように、わたしは酔いつぶれてなどいないのだから。ホークスはわたしにジュースのようなカクテルを一杯飲ませただけ。わたしたちはあの場でちゃんと仕事をこなした。そして、わたしはまぎれもなく自分の脚で、このホテルの部屋に踏み入れたのだ。

「わたしは、性善説は信じないので」

 言うね、とホークスが息まじりに笑う。その途端、するりと腕がほどかれて、わたしは張りのあるシーツの上にしなるからだを投げだされた。かすむ目を擦らずに見上げる。百万都市の平和を象徴する美しい翼が、たった一晩の、重なりあう男女のもとに仄暗い影を落としている。今になってやっと、ひとつの答えを与えられている気分だ。はなから、言葉では答えきれない問いをわたしはこのひとに投げかけていた。だから今、こんなふうにしてまで、ここに居る。
 あなたはきっと、こういうひとだろうと、心のどこかでずっと思っていた。そんな、盲目的な少女のようなことは口が裂けても言えないのだけれど、わたしの思いこみを確信に変えてしまったのは彼のほうだ。わたしのからだを倒して。わたしを見下ろして。そんなふうにして、わたしを驕らせた。

「今日さ、さんがバーに入ってきたとき、まずいなあって思ったよ」

 首筋にざらりとしたものが這う。しめった笑みを擦りつけられれば、喉の血管から、薄い皮膚から、伝わる性感がお腹の奥をじんわり澱ませた。

「ああ、俺、今夜この子のことが欲しくなっちゃうなって。そう思ったらもう、自分を止められないんだ」

(そうやって、あのひとのことも口説いたの?)

 ふと、そんなひらめきが脳裏によぎって、わたしはどうしてか泣きたくなる。こんな土壇場で、ここまで来てしまったというのに、慣れない甘い言葉をささやかれれば、まるで条件反射のように弱気な自分が言葉になってしまうのだ。ホークス。ホークス。わたしは初めて、彼のことを彼と同じ目線から呼びかけた。はっと彼の呼吸が逡巡する。そのわずかな隙に、わたしは彼の顎に両手を添えて、自分から彼の唇に噛みついた。
 お願いだから、今はそのお喋りな口を閉じて。黙っていて。そして二人、この夜を二度とどうしてなんでと問わないように、はやく言葉を脱ぎ捨てよう。









THE END

2019.1