物心ついたときから私の人生の大きさなど高が知れていたけど、それを不幸だと感じたことは一度も無かった。朝焼けの海のきらめきは宝石のように美しいと思ったし、町に金を落としてくれる海賊たちの冒険譚より面白いものはないと思ったし、私の背より大きい碇を降ろす海賊船に乗ってみたいとも思った。だけれど、そんな些細な憧れは、さざなみひとつで掻き消される、砂浜に描いた落書きのようなものだった。私はこの小さな宿場町の、そこそこ賑わう陽気な酒場で、毎日グランドピアノの前に座って、男たちが一日の疲れを癒せるように、ひたすらにメロディーを奏でる。時には得意でもないけど歌を歌う。そうやって日々を循環させていくことが、私が生きているということ、そして私を取り巻く世界が呼吸をするということだった。

 町に一台しかないこの見事なグランドピアノは、私にとって立派な商売道具だったけれど、彼にとってはただ興奮を増大させる麻薬のようなものであったに違いない。私はこれから起こるであろう全ての事柄に対して無知だった。それなのに、不思議と恐怖を感じることは出来なかった。彼の放つ強いウイスキーの香りが、私にとっての麻薬になり得たからだろうか。酒場の娘が、酒の匂いにやられるなんて、おかしなこともあるものだ。

「よう、お前よ、おれに教えてくれよ。ピアノってやつを」

 右肩に重力。ちょうど一曲弾き終えたときだった。悪酔いした海賊に絡まれることは、こんな場所で働いていたら、ままあることだ。こうやって意味不明なことを言っては身体に触れてくる輩も、珍しくもなんともない。あしらい方も知っている。だけれど私は、そのとき、言葉を発することを忘れた。ありえなかったからだ。出窓の外はオレンジに染まりつつあるといえども、まだまだ明るい。カウンターにもテーブル席にも、誰一人客は座っていない。もちろん、入り口にはしっかりと「CLOSED」の文字を掲げていたはず。ではどうして、今、私以外の人間がここに居るのだろう。

「無視かよ」

 くっくっくっ、と押し殺したような笑い声が耳の裏側あたりでしている。仕込みが終わって、日が沈むまでの小一時間、一人きりでピアノを奏でるのは私の日課だった。これもまた、日々を循環させるということだったのだ。自分で奏でたピアノの音が大きすぎたのか、私の背後にたたずむこの人が只者じゃないのか、近付いてくる人影に、どうやら私は少しも気付くことが出来なかったらしい。
 首の横から腕が伸びてきて、悲鳴をあげそうになる。その自分のものとは明らかに違う、男の腕は、おそらく生まれてこの方楽器を奏でたことのないであろう指先で、「ド」「レ」「ミ」と鍵盤を叩いた。最初はお行儀良く一音、一音、丁寧に弾いていた指だったけれど、そのうち何を思い立ったか和音を奏ではじめた。そうして左腕も伸びてきた頃に、それは不協和音となった。汚い音がする。お酒の香りが漂う。その人の左腕にはド派手なアクセサリーと、刺青が飾られていた。

「あの、」
「お? やっと喋った」

 右肩だけに掛かっていた重みは、今や両肩、そして背中全体にまで及び、後ろから身体を覆われているような感じだった。背中に目がついているわけではない私は、未だ振り返ることも出来ず、声の主の顔さえ分からない。誰ですか、と私はか細い声で喘いだ。精一杯だった。すると背中で低い声が、「お前はおれのこと、知ってるよ」と言った。その落ち着き払った声が、とても思慮深いものに思えたので、私は少し安堵しながら「そうかなあ」と心の中だけで曖昧な返事をした。不意に二人きりのこの空間を満たすように、耳障りの悪いピアノ音がして、思考が途切れ途切れになってしまう。その人の骨ばった手の甲と自分のそれを比べると、私の肌も白く感じられた。そうしてその白よりももっと純粋な、鍵盤の白。その白を滑る、無骨な手。彼の手首に光る宝石が、反射して眩しい。だんだんと状況に慣れてきた私は、なんだかおかしな気分になって、少し笑った。

「ピアノなんて、一度も触ったことない、って指」
「おれは聴く専門だからな」

 私の小さな笑い声に釣られたのか、背中越しの彼もまた、笑みを含んだ声になった。ライ麦を発酵させたような、蒸留酒独特の苦味を鼻が嗅ぎ分ける。嗅ぎなれたその匂いも、太陽の沈まないうちに出くわすことは滅多に無かった。

「……あなたうちのお客さん?」

 鍵盤に乗せられた大きな手を退かして、親指と中指と小指で白い鍵盤を押さえる。「ド」「ミ」「ソ」は綺麗な三和音。明るい調べの合図。

「知らないとは言わせねえ。自分の胸に聞いてみな」

 再び彼の手が降りてきて、私の指のマネをした。「ド」「ミ」「ソ」と一音ずつ、発音するようにはっきりと。記憶の鍵穴を解き明かそうとする、優しくて強引な協和音。
 私はただ、この場所に一人、佇んでいるだけなのに、まるで日々はスライドショーのようで景色だけが私を置き去りにして変わってゆく。今日も明日も、明後日も、見たことの無い帆船が港に停泊している。同じ船を、二度と見たことがない気がする。私の覚えが悪いのかもしれない。でも、たとえそうだったとしても、忘れた頃に訪れる船はやはり私にとって初めての船なのだ。
 右耳に唇があたりそう。その人の前髪が視界の端に入る。海風に吹かれて痛んだ髪。フラッシュバックする。―――お前はおれのこと、知ってるよ。ああそうだ。もしかして。そうに違いない。ライ麦の匂い。グレーン・ウイスキーを頼んで、このグランドピアノを真横から見ることの出来るあの席に一人で座って、馬鹿騒ぎの海賊たちをよそに、じっとお酒を飲み続けていたあの影。あの人は、私を見ていた。私は、気付かないフリをした。それは睨みつけるという表現が正しいと思えるくらいに、痛い視線だった。強い眼差しだった。左半身だけが麻痺したようになった。あの夜、ピアノを弾き続ける私の指先だけが、自分から切り離された滑稽な玩具のように思えた。指人形みたい。痺れる頭の片隅で、そう思った。

「それに」

 鍵盤を彷徨っていた彼の指が、私の顎を器用に持ち上げた。鍵盤を見詰めて俯いてばかりだった私の視界は、いきなり開けた。微かに右を向かされた私の目の中にゆっくりと映し出された、グランドピアノの深い黒よりも沈んだ色を宿した瞳は、確かにあの時の、あの人の瞳と、同じものだった。

「本当に触りたいのは、こっちだ」

 私の顎を支えていた指先が、つつつと鎖骨に降りて、くたびれたシャツ越しに私の身体を撫でた。窓から差し込んでくる夕陽が二人きりの空気を乾かそうとしているけれど、ゆっくりとした彼の手つきは、まるで氷を溶かして水にするかのような怠惰な熱に満ちていた。なぜだか崖っぷちから突き落とされてしまう不安と似たものを感じて、咄嗟に鍵盤に肘をつくと、強烈なカコフォニーが耳をつんざいた。ああでも、この不快な音と比べれば、彼の腕の心地良さは私にとって恐怖では無い。私の人生において、この出来事は永遠に躍り続けるさざ波みたいに静かなものだ。影も実体も私に伸びてくる。夕陽と同じように、世界を染め上げてゆくように。朝が来て、夜が来る。それは全く、当たり前のことだ。
 彼が私を、最終的にどうしたいのかは、ここまでくればもう理解していたけれど、その到達点にゆくまでのプロセスの一つも私は知らなかった。落ち着き払った心の中とは裏腹に、服の下で私の意志に反して敏感な箇所を弄ろうとしている彼の指を、身体は拒絶しているようだった。腰が引けると、小さな椅子から私は転げ落ちそうになった。彼はそんな私を見て、意地悪く笑った。

「お前、処女だな」

 膝の裏と背中に腕を回されて、私の身体は宙に浮いた。グランドピアノの黒が遠のくにつれて、私の記憶の中に、着々と彼の瞳の黒が侵入してくる。あの日、彼が一人きりで座っていたテーブルの上に、私は寝かせられた。天井に回る空調を背に、彼はまたあの日と同じように「痛めつけてやる」とでも言いたげな、強烈な視線を私に注いでいた。自惚れることも無い。幸せとも思わない。だけれど不幸でもない。毎日が循環している。私以外の、誰かが呼吸をしている。たとえ何が起ころうとも、それだけは揺るがない。無知だった何かを知る。盲目だった何かを目に写す。たとえそれが非日常だったとしても、スライドショーは止まらない。私はただここに寝そべったまま、あなたが動くのを、待っている。
 手首についていたアクセサリーを外して、彼はそれを私の頭の横に置いた。首に掛かっていたルビーのネックレスも、帽子も、片手で取り去った。その無言の行為たちは、私に見せ付けるためのもののように思え、それでいて流麗で美しかった。天然の、橙の明かりが、消えてしまう前に、私はこの人に、一体何をされるのだろう。彼の指が、Tシャツが捲られて露になっている私の腹部をなぞり、白い巻きスカートのリボンを解いた。

「……しょじょ……って?」

 生温い熱と少しの湿り気を帯びた手が、裸の腰に吸い付いた。彼がウイスキーに本当に酔っているのか定かではなかったけれど、どちらにせよその瞳はアルコールに漬けたかのようにとろけていた。

「お前の全てをおれが奪うってことさ」

 そう呟くために開かれた唇は、そのまま私の唇を食べた。リボンはただの紐に、スカートはただの布に。冷たいテーブルに押し付けられた背中は凍えそうなのに、彼の肌と擦れあっているお腹は、マグマを抱えているかのようだ。熱くて痛い。めくるめくスライドショーを目の前に、私は、この行為の先にある、新しい感情のことを思った。されるがままにされながら、私はその衝動を予感していた。舌を引きずり出され、足を開かされ、白い闇に溺れさせられた向こうに、心と身体の隙間を埋める何かがある。私はきっと今、私なりのはやさで、それを名付けようとしている。深く、深く、ウイスキーの海に沈みながら、奪われる全てに身を委ねて。









THE END