小さな丸窓の奥で水平線へと落下する夕暮れの音が、鼓動と手を繋ぐようにリンクして、とくとくと命を揺らしている。一分一秒も休まずに、毎日同じ方角から、同じ方角へ。決まりきった軌道を巡るお前に迷いなんてないんだろ。問いかけるように見下して、今日の日の短さをふと思った。だってもうこんなに暗いのだ。秘密を隠すように、暗いのだ。床の軋む部屋。二人で居ること。肩と肩の隙間に震える淡いオレンジの光。日は落ちても夕餉までにはまだ時間がある。男部屋の並ぶこのフロアは静けさに満ちていて、まるで人っ子一人居ないようだった。多くの船員が出払ってしまえば、船内には重たい時間が澱むのみ。止まってしまいそうだ。時計の針も、空気の流れも、呼吸も、一枚の写真がありのままの事実を凍らせてしまうように。それなのにおれだけは彷徨い続けてる。袋小路に辿り着いても、まだ道があるって、悪あがきをしてもがいてる。あがくほど、細切れの記憶が降って来た。あぶくをあげて自分は沈んでいった。何故だか懐かしい。知ってるんだ、この息苦しさを。きっと生まれる前から、ずっと。

「すごく綺麗」

 夕陽の照らす波のさざめきにでも見惚れていたのかと思えば、予告も無しに手のひらを持ち上げられて内心ギクリとする。同じ時間を共有していたって、そこから得るものは限りなく違う。「二人」は二人であって、一人ではないのだから。そう当たり前のことを言い聞かせ、やや訝しげにの表情を窺った。視線はまるで合わない。伏せた目に黒々と輝く睫は、今しがた泣いてきたみたいに濡れているように思えた。「すごく綺麗」。そんな安易な賛嘆じゃあ足りないと、おれの直観が訴えている。だからといって言葉を重ねて精神を削るほどに、我慢強くも賢くも無かったけれど。

「どうしたの、このブレスレット」

 趣味じゃないじゃない、と言って、そうしてようやく目を上げる。ああ、と思う。これのことか。の爪が繊細なチェインをあやすように弾くので、流れる金色が光を受けてちろちろと火のように踊った。目ざとい奴だな。確かにそれは普段のおれでは選ぶことのない、華奢なアクセサリーだった。首からかけるルビーにも、左手の皮のバンドにも、正直合わない。それでもこの金の眩さに目を留めたのは、自分のではない白い腕にその輝きが流れることを一瞬でも思ったからだ。

「昨日の敵船からくすねた」
「ふうん、相変わらず鼻が利くのね」

 様々なかたちの小さなゴールドの鎖が連なっている、シンプルながら凝ったつくりのブレスレット。海賊狩りの連中の船にたまたま商船から略奪したであろう宝飾が山ほど積んであったのだ。討伐のついでに気に入ったもののひとつやふたつポケットに入れてそ知らぬ顔をしたってバチは当たらないだろう。羨望の眼差しで熱くチェインを凝視するの前で、意地悪く手首を動かしてみる。するとの眼は波のうねりようにぱっと光を打ち寄せた。その眩しさが足もとを掬う。少しでも気を抜いたら引きずり込まれそうだ。この感覚を恐怖と結び付けてしまう、そんな自分を呪いたい。あいつならきっと、そんなふうには決してならないのに。

「してみていい?」

 黙ったまま静かに頷いた。は慣れた手つきで留め具を外す。指先の繊細な動きが微かに皮膚に伝わってこそばゆい。の着ているキャミソールの片方の紐が目の前で肩からするりとずり落ちて、動揺しないわけが無いというのに、当の本人はやっぱり慣れた手つきで紐を肩に掛けなおしてしまう。どうしてさりげない指の動きってやつは、こうも艶かしいのだろう。ゴールドの鎖を見詰める熱っぽい瞳は無邪気そのものなのにな。欲しいものに純粋で、思ったことがすぐ顔に出る。おれたちは似ていると思う。だからこそ危うい。少ない脳みそで考えた出来の悪い妄想がそっくりそのままこの現実に返ってきてしまうなんて、夢と現実の境目を見失いそうになるじゃないか。どこまでが許されるのか、どこがデッドラインなのか、神経すり減らして頭を抱えるくらいなら、いっそ妄想に没頭してしまったほうがいい。深遠な海へと引きずり込まれることに怯えて立ち竦んでしまうよりもそっちのほうがよっぽどマシな選択に思えた。

「だめ、すり抜けちゃう」

 はっとして目を上げ、を捉える。の腕を。彼女は金具の留まったままのブレスレットを棒のような手首にくぐらせながら、心底残念そうな溜め息を漏らした。瞳の潤いが唇にまで伝染してしまったのか、溜め息までも濡れている。しおれた表情、それだけで心の中は容赦なく泡立った。甘いクリームのような真っ白な清らかさは勿論まるでないが。

「ならこうしろ」

 いきなり足首を引っ張ったらは「あっ」とだらしない声を出した。あいかわらず締まりがないな。どこもかしこも隙だらけで、「余地」があって、開けている。誰に対しても、そうなのか? の手首をすり抜けたゴールドを片方の足首に巻き付けながら、心の中で問いかける。なあ、どうしてお前はここに居る? どうしておれに近寄る。誰も居ない廊下を抜けて、部屋に来て、黙りこくっていたと思えばいきなり何をするでもなくじゃれて、あげく「触れて」いる。おれたちは惜しげもなく今、触れ合っている。何でなんだろう。ここまでの経緯がまるで分からない。おれはいつの間にかここに居た。そしてお前もここに居た。針の穴を通すような計算のなかで、しらじらしく偶然を装って。

「お前にやるよ」
「ほんと?」
「見返りは要求するけどな」

 一瞬喜びに緩んだの顔に、顔を近付けると、条件反射のようにぱっと顔を背けられた。それでも構わず覗き込むように先回り、執拗に追いかけ回して、腰を引いたところをしなだれ倒して肩を押さえつける。するとは観念したような表情で向き直ったので、遠慮することなくその唇を舐めるように口付けを交わした。初めてキスをしたのはいつかの食堂の隅っこ。無心で食べ物を頬張る唇を、どうしても塞ぎたくなったのだ。理由はあったのだろう。だけれど唇に触れるたび、固く結んだ論理の紐もするするとほどけてしまうのだ。初めこそも驚いていたけれど、どんな日常的なシーンでもいきなり訪れるその行為に、自身もだんだんと動じなくなっていった。これは二人の関係性の延長にあるもの。何かを変化させる作用は無く、ただ慣性に従ってだらだらと二人を引きずる。だから心を揺らす必要は無い。の穏やかな顔がそう言っているようだった。それが気に食わない。動じてくれ。動いてくれ。おれだけが殺風景な闇を彷徨っている、もがき続けて死にそうだ。

 ぐ、と肩を押す手に力を入れて、もう片方の手をキャミソールの下に這わせた。わき腹をじかにさすると、平生を保っていたが異常を鋭く察知して悲鳴する。足先が力んでいるのが分かる。わき腹でうごめく手を制しようと、の片方の手がおれの手首を引っ掴んだ。見下すかたちでふと眼が合う。の眼のなかにはおれが居る。それでも一度昂ぶってしまった気持ちは、なかなかもとには戻らない。訴えるような瞳をしても、駄目だ。

「なにするの。やめて」
「それ、……本物の金だぜ」

 囁くように不必要に声のトーンを下げた。は百面相だ。だけれどくるくるとメリーゴーランドのように表情が変わるわけじゃない。淡いほうから濃いほうへ進むグラデーションのように、花々が咲き誇って移ろい枯れてゆくように、彼女の表情は意外にも理知的に、順序だった変化をする。もう既に穏やかさもなく、驚きもなく、今は鉄みたいな冷たさを保つだけ。悪戯が過ぎたんじゃないの、と。は無言でおれを軽蔑しているようだった。

「わたしがこれっぽっちのゴールドと同じ価値だっていうのね」

 漆黒の睫がゆっくりとまばたく。二度はないわ、と諭して。馬鹿だな。二度なんて、無いに決まっているだろ。そんなこと、百も承知だ。

「……同じ価値? 釣りがくるんじゃねェの」

(てめぇはUSEDだもんな)

 耳元でそう付け加えると、あれだけ威勢の良かったは途端に青ざめた。そうやっての顔色を瞬時に変えたのは一見するとおれだけれど、実はそうじゃない。分かってる。すべて分かってる。動かしているようで、本当は動かせてなんかいない。ただ見せかけの動揺でも何もないよりは遥かに救いで、いつの間にか幻にさえすがっている自分が居た。血の気の引いた頬に手をあてる。やわらかい。そのまま爪を食い込ませたい。お前の化けの皮を剥いで、あいつにしか見せないひとつひとつを、丁寧に確かめるように貶めたい。分かるか? どうせ分からないだろ。何の不自由も無く甘やかされ続けてきたお前には。

「……エース、だめ」
「おれが知らないとでも」

 胸の膨らみに手を伸ばす。すると、の右足が窮屈さを跳ね飛ばして蹴り上がり、下半身に鈍痛が走った。その隙にはおれの下から四つんばいになって這い出す。悪魔の実も役立たねぇな。立ち上がろうとしたの肩に手を掛けて立ち上がるのを制しながら、不意を突かれて痛みを被った自分をとても愚かしく思った。逃げられるにしても、逃さないにしても、どちらにせよ愚かだ。彼女を貶めるたび、自分をも朽ちてゆく。まわりまわって全てが自分に降りかかる。因果応報。まあ、悪い言葉じゃない。人間は時としてより汚い行為を望むものだ。

「いや、いや……!」

 腰を掴んで引きずろうにも強い抵抗がなかなかそうはさせない。かっとなって喉に腕を回して引き寄せれば、は苦しそうにむせ返って喘いだ。うなじに舌を這わす。微かにしょっぱい味がする。シャンプーの匂いがすっと鼻を抜けて、下半身がだんだんと熱を帯びてゆく。暗闇は色濃い。夕暮れはもうオレンジではなかった。その深い深い群青は、行為の大胆さを助長させるには充分だった。烈しい抗争のなかでぐったりとし始めたを再び仰向けに押し倒し、キャミソールをついに引き裂いてしまう。露になった雪のような肌と、はかないシャボン玉みたいな丸い瞳。今にも弾けてしまいそうだ。ああ、さすがにもう、為す術がない。の顔が諦念に歪んだのが分かった。だけれどその潔さの奥で小さく唸る声を、おれは聞き逃せなかった。―――たすけて。たすけて、たすけて、たすけて。抗えない征服の下でさえ、媚びているのは唯一人。ありえない。ありえない、ありえない、ありえない。

 そんなこと、あっていい筈が、ない。

「マル……んっ!」

 やめろ。考えも無くただ塞ぎたくて、彼女の口内に二本の指を突っ込んだ。の両の目尻からとうとう涙が溢れる。なあ、その涙の意味は一体なんだって言うんだ? 気が狂う。いや、既に狂ってる。狂おしいくらいに狂ってる。もうどうでもいいんだ。お前をこの場で犯すこと以外。幸せにすることよりも、不幸せにすることを願う。勿論それだって、所詮はおれの幻に違いない。だけれど夢っていうものは、寝てさえいれば確かな質感を持っているもんだろ? だから今だけは。今だけは。今だけはその名前を口にするな。

 あとほんの少し、あとほんの少しだけ。
 ぼくの彷徨いの中に、きみが居ますように。









THE END