※「wanna be a "MONSTER".|怪物にもなれなかったきみとぼく」というタイトルをテーマにしたお話です.





 洒落た白黒映画みたいに、別れるのは晴れた日の瑞々しい朝がいいわ。そう告げたというのに、彼は「出航は日が暮れてからだ」と言ってどうやらぎりぎりまでここに居るらしかった。それなら最後に一回くらい抱いてくれたっていいものを、もはや指一本たりとも私に触れようとはしない。階下でコーヒーを啜りながら名残惜しそうに難しげな海図やら航海資料やらを読み耽っているばかりだ。

 何千、何万と壁伝いに背表紙を光らせる書物たちをはたきでゆらゆらと撫でていると、天窓から射し込む夕空の明るさに思わず眩暈しそうになった。背の高い本棚が円形上の壁をぐるりと埋めつくし、吹き抜けを通って天井まで伸びている。あのいちばんさきっちょに並んでいる本なんか、誰か開いたことあるんだろうか。商品に匂いがつくからと煙草を制しても、「どうせ誰も買わねぇよ」と無視されてしまう程度だし。客がいなければ商売は成り立たない。貸し切り状態の図書館みたいなものだ。そんなこんなで暇を持て余し、本日二度目の店内清掃を終えつらつらと螺旋階段を降りていくと、吸いかけのまま放置された煙草の端からからツンとした辛い香りが立ちのぼっていた。はたきを置いてその煙草に手を伸ばし、一回だけその味を肺に吸い込んでみる。不味い。噎せないように、後悔が溢れないように、吸殻は灰皿に強く押し付けた。

「攫ってくれないのね」

 海賊のくせに。日没がさざ波に紛れて海の彼方から近付いてきている。ざざんざざんと波が鳴るたびに一刻一刻の時の重たさを感じた。私は残酷な別れに悲しんでいるわけでも、彼の薄情さに憤っているわけでも、日々の毅然とした流れに身を任せるしかない自分自身を憂えているわけでもない。むしろ私は酔っているんだろう。彼が、ひとりの女を愛せるような性分じゃないこと、その奔放さと根本的な弱さを許している自分に。素っ気なくあなたと決別できるだろうという予感で頭をいっぱいにしている自分に。そうすることで眼を背けている本来の敗北感は、本棚のてっぺんに置き去りにしたつもりで。
 マルコは本を読むときと新聞を読むときだけ眼鏡をかけた。彼が私を抱きとめながらベッドサイドに眼鏡を置く仕草は美しかった。とても。ライトブルーのストライプの入ったシャツは私が買ってあげたもの。ひとつ歳をとるのは別段楽しいことでもないけど、かりそめの一ヶ月弱が君という生命の誕生と少しでも接点があるのならば、祝うべき意義をそこに見出すのは容易かった。腕まくりした袖から覗く手首や、指から零れる鮮やかなエナジーを、器用に飼い慣らす存在の奇妙さ。この時代に共に生まれおちたことの不思議。彼の向かいに座りながらそんなよしなしごとを何気なく思っていたら、俯いていたマルコがふと思いもよらぬタイミングで顔を上げた。胸など高鳴らせる恥じらいはなくとも、焦がれることにきっと最大の信頼を寄せている。愛なんかよりもずっと。

「海賊が何かを奪うときは、奪うことで自由を得るときだ」

 とっくに冷めているだろうコーヒーを飲み干して、彼は存外穏やかな瞳をした。

「お前は誰のモンでもねぇだろ?」

 肘をついて身を乗り出すように、口角を上げた“してやったり”の顔がしなやかで憎らしい。海賊とアルコールは相性が良いけれどカフェインの似合う荒くれ者は珍しいだろう。この海域の過去百年分の資料が欲しいと言って彼がここへ訪れたときは、図体もでかいし柄も悪いし見たことのある刺青彫ってるしろくな印象を持たなかったけれど、ひとたびほだされてしまえば砂上の文字のように都合の悪い記憶は消えていった。げんきんなもんだ。奪うことの解放とか、善悪の混沌。彼の言葉の鎖がしめつけるのは足首だか手首だか首だか知らないけど、確実な痛みを残す。でもそれって悲しみなのか喜びなのか分からないよね。刺青だって描いてもらうときは痛いけど、彼のそれは彼が彼で在るための誇りのようなものだろう。この指はもう私の肌を滑らないんだとか、その声はもう私の耳に愛撫しないんだとか、考えたら今日の日に終わってしまうことはあまりに多い。彼に頭を寄せるように、両腕を伸ばしてゆるゆると眼鏡を外してみた。その奥で私の行為をじっと彼は見捉えていて、確かに指一本も触れ合っていないのに、擦りあったかのような熱を私は感じることができた。まるでシーツの中のような熱を。

「……じじ臭い。そういうのいらない」
「ほっとけよい」

 舌を出してあからさまに茶化したら、ものの数秒で眼鏡は奪い返されてしまった。軽やかな指を伝ってすとんとシャツの胸ポケットへ収まっていく。机上には羊皮紙と羽根ペンとインク壷、分厚くて厳つい本の山。私には何を調べているのか到底分からない、難しい数式や使ったこともない単語が踊っている。一度「それを読んで何が分かるの?」と彼に尋ねたことがあるけど、何が分からないのかが分かるかもしれないと返されてその果てしなさに少し失望したものだ。そんな途方もなく遥かなものに、ひとは行き止まりのような、「これしかない」真実を求めてさまようんだろうか。マルコがぐっと背伸びをする。夕陽の色が部屋中を染め上げていることに気が付く。緩やかな時間を滑り落ちてしまう、弱々しい泣き言も痩せ我慢も。行き場もないのに延々と転がり続けるのだ。

「安心しろ。おれもお前もどうせ地獄行きだ」

 椅子の背もたれにからだを預けながら彼は眠たそうな眼で冗談めかしたことを言う。色んなことを知っていて、楽しくて、聞かないふりも聞いているふりも上手にやってのけてしまう。そんなことにまで惹かれていたらきりがないのを分かっていて、むしろ茫漠としたものに惹かれていることがこわいから、定義づけるための諸々を見失わないようにしているんだ。細かな仕草や、繊細な表情、皮膚のあたたかさを忘れたら、あとに残るものは私を一体どうしてくれるだろう。忘却はサディスティックな運命だけれど、全てを忘れてしまうんならそれさえ成り立たない。

「清らかな田舎娘はきっと天国行きよ」
「いーや、海賊をたぶらかしといて無罪とは言えねぇだろうな」

 私を忠犬にして、主人みたいな顔してさんざん手懐けていたくせに、ふと我に返ってみると鎖も首輪もついてなかった。お前は自由だったんだ、お前の意志でそうしてたんだろ、って首をすくめて嘲るの。誰が誰をたぶらかしたのよ。何がどうなってこうなったのよ。所有の欺瞞を持たない彼は、突き放すことで私を掴まえてしまった。あっという間の出来事だ。これのどこが自由なんだろうか。私はただその支配から逃れられない言い訳をするしかなかった。ほんとうは当事者なのに虚構を見立てて作者のふりをした。神様が空から見ていたら今ごろ怒っているかもしれないなあ。案外、地獄に近いのは私のほうなんだろうか。
 恨めしげにマルコを見上げるとちょうど煙草に火をつけるところだった。そのよどみない動きに見惚れるのも今この瞬間が最後になるだろう。言ったでしょう、愛なんかよりずっと、焦がれることに嘘がつけない。この想いをト書きだと思い込むことは出来ても、殆ど反射的に惹きつけられていく、この衝動は失くせない。彼が煙を吐くたびに、鼻の奥を刺激する煙草の香りが漂う。紫煙をくゆらし大仰に椅子を引く、取り巻く所作の全てがあなたそのものだ。

「地獄で会えりゃいいさ」

 立ちあがったマルコはふとさりげない様子で右手に羽根ペンを拾った。どうしたの? 彼は応えない。羊皮紙の端に何事かを書きこんで、ゆっくりペンを置く。そしてそれを私に差し出して屈託のない笑顔をした。ちょっとした悪戯を試すように。

 残照が不気味に赤かった。私はおそるおそるそのメモに目を通す。期待を固めている余裕も、一人きりの落日を悲観している暇もなかった。……

 “I wannated to be a monster.”
 ――ぼ く は き み を あ い し た か っ た 。

 顔を上げたときにはもう部屋の扉が閉まる音だけが在って、嘘っぱちを呟いた背中は二度と帰らなかった。









THE END