どうせログが溜まるまで暇なのだからどこかに食事でもしに行こうよ、と退屈そうな彼を誘ったのはわたしのほうだったのに、どうせログが溜まるまで暇なのだから今夜は船には戻らない、とその食事中にしれっと言い放ったのは彼のほうだった。面倒がるローに無理やり仕立てた白いシャツと群青のネクタイは、彼の浅黒い肌によく馴染んで、その内側に薄らと漂っていた未知なる色香をより一層引き出しているように見えた。馬子にも衣装、いや、海賊にもシャツとネクタイ。それ相応の美男にも映る、まだあどけない海の子ども。

 適当なレストランでフルコースとワインをたいらげ(大して美味しくもなかったけれど)、どちらからともなく手を繋ぎながら見知らぬ夜を歩いて、酔っているのか、寝惚けているのか、奇妙な心地良さを抱えたまま安ホテルの門をくぐった。口説いたのは一体どちらの仕業だったろう。どうして欲しくて欲しくてたまらなかった武骨な手が、こんなにもさりげなくわたしの手を握りしめているのだろう。必死に記憶の糸を手繰り寄せようとするのだけれど、胸の内に蘇るのは無口なあなたがぽつりぽつりと呟いた故郷の切ない思い出だとか、昔のちょっとした恋の移ろいの話だとか、これからのあてどない野望を紡ぐ力強い言葉の数々などだった。断片的なそれぞれは、この瞬間の二人の仕草を教えてくれるわけじゃない。過ぎ去った日々も、未だ来ない日々も、わたしたちの現在を常に縛っているようでいて、その実とても脆くて非力なものだ。そんなふうに考えながら無言で指先に力を込めたら、絡み合ったその先であなたの指も同じようにわたしをきつく束縛した。過ぎ去った何かでも、未だ来ない何かでもない、紛れもなくたった今のあなただけが、わたしを確かに縛っていた。



「永遠を信じる?」

 街外れの古びたホテルは芳香剤の匂いと埃の匂いがした。札付きを泊めるような安宿なのだから、当然のこと満足のいくゴージャスな部屋というわけにはいかない。天井や壁にはところどころ染みがあって、浮かれた二人を嗤笑するように不気味な模様をいくつもつくっていたし、お世辞にも清潔とは言い難い狭苦しいセミダブルのベッドは、ちょっと体重をかけるだけでスプリングが卑猥な音を立てた。やだ、わたしたち本当にこんなところで、寝ちゃうわけ? さんざん回りくどいやり方で性的な興味を匂わせながら肩の一つも触れ合わせなかった二人が、まさかこんなちんけなベッドに行き着くなんて。最低なのか最高なのかも、分からないじゃない。

「人間の寿命はたかだか百年もないだろう。そもそも海賊なんざ、明日死んでも不思議じゃない」
「その間だけでもいいの」

 壁に半身をもたれて小窓からぼんやり闇を眺めていた彼を、ベッドの端に浅く腰掛け仰いでみる。その緩まったネクタイを解いてみたい。そのシャツのボタンを一個一個丁寧に外してみたい。ローはあれだけ飲んだのにまだ飲み足りないのか、ルームサービスで注文したグラスワインを飲み干し、舐めるようにわたしの全身に目を遣りながら薄く笑った。だいぶ酔いが回っているようだった。

「お前の永遠は安いな」

 空になったグラスをサイドテーブルのランプ下に置き、ローはわたしと同じようにベッドへと腰を下ろした。手首から手の甲にかけて続くタトゥーが、揺れる灯に照らされてひときわ艶めかしい。書斎の机で書きものをしているときの蠢く手指とはまた違う、何をするでもなくさまようジョリー・ロジャーは、光の加減のせいでなんだか上質なチョコレートみたいにも見えた。あれを舌で掬ってみたらどんな味がするのだろう。想像力を持ち合わせないわたしに、どうかあなたの、味を教えて。

「お買い得でしょう」
「お前におれの寿命分の価値があると?」
「もちろん一生ものよ。但し返品もお試しもできないけれど」
「かたぎの商売じゃねェな」

 だって、海賊だもの。もったいぶった会話が可笑しくて、わたしたちは束の間に笑い合う。邪魔者が入り込む隙のない、船上を離れた正真正銘の二人きりの密室でも、冗談まがいの探り合いはどうやら続いているようだ。いやもっと正確に言えば、この探り合いに終止符を打ちかねているということなのかもしれない。どうしたってわたしたちは、身体を気持ち良く擦り合わせる間柄である前に、同じ船に乗っている仲間同士なのだから。あなたはわたしの、たった一人のキャプテンなのだから。ようはその輝かしい潔癖を飛び越えていく術が必要なんだろう。

 夜風のせいで窓枠が絶えず小刻みに音を立て、無為な沈黙はかろうじて穏やかさを繋ぎ止める。ベッドに座ったままローのほうへ身体を向けると、濡れた視線に気が付いた彼もふっと神妙な面持ちでこちらを見た。
 決して目を逸らさぬよう、ベッドに後ろ手をつきながらゆっくりと片方の足を持ち上げると、ローの表情が微かに困惑するのが見てとれた。ヒールを履いたまま逞しい膝の上にそっと片足を降ろせば、それだけのことで崩れてしまうものは沢山あるわ。わたし、壊してあげられる。この距離を。スリットの入ったドレスの裾がだらしなく捲れたら、開いた足の奥に何が見える? 膝の上に突如乗せられた真っ赤なハイヒールを、あなたはもう無碍には出来ないでしょう。

「……何のマネだ?」
「ねぇ、脱がしてくれる」

 既にかかとが落ちかけている足先を彼の膝の上で揺らしてみせた。真っ黒な瞳が見つめているのは赤く光るエナメルか、はたまた肌色の素足のほうか。あなたは船長がクルーに命令を下すように、わたしを支配してはいけないのよ。今夜はきっと、それを忘れて。絶対に、忘れて。

 彼は何も言わぬまま、腱を包むようにおもむろにわたしの足首を引っ掴んだ。瞬間、息を呑む。つま先の滑らかなエナメルに注がれた彼の伏せ目は、獲物を狙う鋭い眼光と同じようにわたしを射抜き、声を奪った。けれどもそれは“キャプテン”としての威厳を放った所作とは全く違う。わたしの足首を撫ぜながら、もう片方の手の中指と薬指で器用に細いピンヒールを挟み込み、ローはまるでワイングラスを持つようにしてヒールをかかとから引き離した。焦らすような緩慢な動きが、胸の鼓動を速めていく。脱がされたハイヒールは鈍い音を立てて床に落ちた。それはもう、決してわたしのものではなく。
 あらわになった裸の足の指に、彼は噛みつくようにして口を開いた。その挑発的な表情には、つい数分前の困惑など欠けらも残っていなかった。

「おれの“永遠”は高くつくからな」

 足の裏を滑る渇いた手のひらが。親指の爪に押し付けられたぞんざいな唇が。そのまま甲を這っていく温かな舌が。
 ――瞬くあいだに、足の先まで買い占めて。









THE END