主を欠いた中将控室に不器用な沈黙と穏やかな春がたゆたう。日ごろ複雑怪奇に荒れ狂う海の気候に慣れ親しんでいると、地上の安穏とした季節の移ろいがまるで現実のものとは思えなくなるからおそろしい。常識を逸脱した海に馴染むということは、世間が「現実」と呼んでいるものを自らの現実として受け止められなくなることなのか。とすれば一体、この奇妙な春はなんだ。デスクの椅子を回して開け放った大窓と向かい合う。煉瓦造りの外壁の隙間を縫って足元に落ちる埃まみれの陽射しは、まるで天空へと一直線に続く階段のように確かな光の道を作っていた。かたちある終焉。おわりなき平凡。ここには現実ではなく、天国へのすべらかな近道が伸びている。

「……いつまでそうしている気。当分おつるさんは戻らないわよ」

 コーヒーカップをソーサーの上に置く繊細な金属音が背後から聞こえてきた。再び椅子を回して振り返ると、応接用のソファにさも客人のように腰を下ろしている“無法者”は、くつろいだ様子で足を組み替え「それがどうした」と言わんばかりに嫌味な溜息を吐いた。

 あんた帰って来てんなら店番してなよ、とおつるさんに会議中の留守番を頼まれてからどれくらいの時間が経ったろう。名も知らぬ三等兵に運ばせたコーヒーは既に生温い。半年に一度の本部への帰還は、時折りこんなふうに支部の近況報告という任務だけでは終わらないことがある。だらだらと恩師の押し付ける雑用をこなしているうちに厄介な男と鉢合わせてしまったものだ。針の穴を通すような偶然か、否か。天下の海軍本部に足を踏み入れ無事で帰って来られる“無法者”など、この世界にそう何人も居るものじゃない。

「老中将に用はねェ。懐かしい顔を見に来ただけだ」

 飄々とのたまい冷めたコーヒーを啜るその所作は、地上の春と同じようにわたしにはとても現実のものとは思えない。この男とは幾度となく顔を合わせてきたはずだけれども、今となっては確かな過去すら幻のようだ。管轄していた航路で一番の賞金首だった男がまさかねェ。新世界になかなか入らず何を企んでいるかと思えばこの通り。デスクに肘を突いたまま春陽にきらめく二連のピアスを何の気なしに眺めていると、突然ゆるりと彼は頭をもたげ、深く被ったキャスケットの奥から笑みを含んだ双眸を覗かせた。幻のような優雅な仕草に紛れて、ああ、こんなところでようやくわたしの踏みしめた現実が見つかったじゃないか。わたしはこの悪しき瞳をずっと、追いかけていたのだ。ずっと、ずっと、飽きもせず。

「おれと“鬼ごっこ”ができなくなって退屈か、

 気安く人の下の名前を呼びつけ、肌身離さず持っている不気味な大刀を置いたまま、彼はソファから腰を上げた。ローヒールの皮靴でタイル敷きの床を鳴らし、近付いてくるその音色にはもはや警戒も威嚇もない。さすが天下の七武海様、海軍将校を前にしても余裕たっぷりね。そんな皮肉めいた台詞を頭の中で練り上げては壊し、吐き出そうとしてはぐっと飲み込む。繰り返せば繰り返すほど、言葉は噛みしだかれ意味を失っていくというのに。息苦しささえ覚えるほどきつく香るベルガモット。律儀に香水をつけてその匂いを振りまくような色気なんて、海の荒くれ者のくせして全くどこで身につけてくるわけ。忍び寄った影は何を思ったか、わたしの指からコーヒーカップをするりと奪い取った。宇宙の塵のような些細な接触。無くてもいいようなくだらない刹那を積み重ねていく関係を、世間ではなんと呼ぶのか。これが、「現実」というものなのだろうか。現実――彼の指の付け根の入れ墨と、わたしの丸い爪の先が不意に触れ合うことが?

「いずれまた始める気でいるんでしょう」
「……さァ」
「今はさしずめ休戦中ってとこね」

 休戦か、と彼は帽子の陰で薄く笑いながら呟き、わたしから奪ったカップにそっと口をつけた。略奪の味の冷たいコーヒーは、生温い所有の味わいとはまた違うのかしら。まるで見せつけるように至極当然という顔をして、人の領域に何の戸惑いもなく踏み入る妙。とはいえ自分自身の浅はかな無防備さを棚に上げてまで、彼を咎める気にはならないのだけれど。

「なら休戦ついでに昼食でもどうだ。これから」

 その低い声は紳士的とも言えるような慎み深さに満ちていたが、紡がれた提案は甚だしく突拍子の無いものだった。見上げた先で、図ったようにゆるりと動く喉仏。眩しい。鍔の下の表情は暖かな陽光を纏いながらも涼しげにそよいで、世界中の全てを見下ろしているかのように傲慢だ。一体今、何時なのだろう。発せられた“昼食”の一言に引きずり出されるのは、そんな間抜けな疑問と空腹の在り処ばかりではない。身体じゅうの細胞ひとつひとつが赤いランプを点滅させ始める。だってわたしたちつい数ヶ月前には、この距離で殺し合ったことがあるのだ。

「わたしとあんたが?」
「他に誰がいる」

 ソーサーの上にカップを静かに戻しながら、当たり前だろう、といった口ぶりで彼は呟いた。何かを、わたしを、自分自身をも試しているかのようなその口元の微笑み。彼の背後の応接用ソファを見遣れば、置き去りにされたままの大刀がだんまりを決め込んで横たわっているし、暑くて脱いでしまった軍服の白いコートもまた、ひしゃげた“正義”の二文字を輝かせ、デスクの端でうんともすんとも言わずに押し黙っている。いつもの武器も、いつもの信念も、ほんの少しだけ置いてきぼりの二人。戻れない道を進みながら、戻る気もさらさらないのに、たったひとつ脇道に逸れるだけで見えるかもしれない別の景色が、淡い幻想となって手を拱いている夢を見る。わたしの人生はわたしだけのもの。あなたの人生はあなただけのもの。それってとても、不思議なことなのね。

(こんなに近くにいるのに)

「ありえない。海兵と海賊よ」

 そろそろ出て行ってちょうだい、と付け加えるつもりだった。しかしそれは叶わなかった。デスク越しから腕が伸びてきて、さっきまで人のカップを我が物顔で弄んでいたその指が、不躾に顎に添えられたからだ。軽く、けれども強引に、持ち上げられた視線が彼のそれとぶつかる。近付いてきたその顔は、飽きるほど見続けたDEAD OR ALIVEの紙切れの中の彼とは全く違う。トラファルガー・ロー。さっきまでの悪しき瞳は何処に隠したの。曖昧な春の中で笑っている男を、その男に視線を束縛されている今を、「現実」と呼ぶには何もかもが朧に霞みすぎている。このまなざしに、肌に、息に、触れてはいけない。確かさと不確かさの一生終わらぬ螺旋の渦に、巻き込まれてしまうだろうから。

「違うな。男と女だ」

 春にも似た彼の体温が、声となって鼻孔に届いた。身を屈めるようにして光を注ぐ瞳の奥には正真正銘、わたしだけが映っていた。そしてその時、ふと気が付いた。殺し合う距離と、愛し合う距離は、全く同じなのだということを。
 延々と続く天国への近道が、“正義”を背負わぬわたしの背中を容赦なく焦がし続けている。








(刀を置いて、コートを脱いで。さて、何をしよう?)

THE END