キッドの元からまた一人売女が逃げた。女という女は三日とキッドの相手をしていられない。というのも彼は興奮すると執拗に女をなぶる癖があって、何がなくとも殴る・蹴る・噛み付く・首を絞めるなどの行為に耽るのは日常茶飯事、調子が良い時には相手を半殺しにしてしまうことさえあるのだ。は溜息を吐きながら、命からがら逃げて行った女の持ち物をずた袋に回収する。テーブルの上のオードトワレ、コート掛けにぶら下がった華奢なハンドバッグ、洗面所のタイルに落ちた赤い付け爪。キッドの自室に散乱している女の足跡を、まるで証拠隠滅を企む殺人犯のように丁寧に拭っていくのだ。なんと世にも虚しい作業だろうか。
 ベッドシーツと一緒くたにくしゃくしゃになっていた女の下着を指先で摘みあげ、は行き場のない憎しみを込めてキッドをねめつけた。やむなく仕事をこなす彼女をよそに、円状の天蓋付きベッドの上で悠々と横になったままのその男。黒のファーガウンを毛布代わりにして、はだけた上半身を晒したまま肘枕でを眺めていたキッドは、突然向けられた鋭い視線をからかうように口笛を鳴らした。間抜けな音が寂しい密室に消えていく。

「お前がおれの女になりゃァ、こんな面倒も仕舞いだろう」

 冗談なのか本気なのか、「お前がおれの女になれば」は、キッドがに対して使うお決まりの枕詞のようなものだった。もっともがその誘いに乗ったことなどただの一度もないのだけれども。クルーとねんごろになろうなんて思いつきもしない血に飢えた極悪人の集団の中で、その筆頭に居るような男の放言を真に受けるほど、もまた善良な人間ではなかった。だからこそこの船に乗り込んでいるのだし、非道な男どもの中でも渡り合っていけるのである。

「一回一回のセックスに命を懸けろっての?」

 寝惚けたこと言ってんじゃないわよ、キッドの頭。は小さく舌打ちをして、ベッドの端に両膝を乗せて乗り上がり、腕を伸ばして金具の取れたチョーカーを拾い上げた。ちらりとすぐ横を見遣ればキッドの節くれだった指、黒く塗られた尖った爪がある。こんなんで身体じゅう弄られたら、それだけで傷だらけになっちゃうんじゃないの。はその人差し指が引っ掻くように自分の肌の上をうねる様を想像してみた。寒気がした。その痛々しさにも、男の前で裸になることにも、それらを瞬時に思い浮かべることの出来る自分にも。

「従順に命を差し出すタマでもねェくせして言いやがる」

 キッドはくつくつと笑いながら仰向けに寝転がった。シャワーでも浴びた後なのだろう、しっとりと濡れた赤い髪は色の深みを増して、その瞳の鳶色によりいっそう近付いている。はキッドのこの、サウスブルーの出身者らしい燃えるような赤毛と色素の薄い瞳を格別に気に入っていた。彼の美点を述べるのならば第一にこの二つの赤を挙げねばなるまい。もちろん荒れ狂う不如意な海には赤毛や鳶色の眼球よりも物珍しい特徴を持った人間はごまんと居たが、彼女にとってはこの身近な赤のほうが稀なる神秘だった。クルーが自身の船長に対して抱くような尊敬の念、畏怖の念、あるいは今のような状況下において煮えたぎる強い憎しみの情、嫉妬の情、劣等感、その全てが彼の宿す鮮やかな色の中に溶けていくのだ。混ざり合ったその斑な一色が一体何なのか、言葉にするのは難しい。ただそれはいつも彼にしかない唯一の不可思議な赤として、彼女の前に現れるだけだった。

「あんたそのうち女に刺されるよ」

 お決まりの皮肉を言って、傍にあった品のないゴールドのカーディガンをずた袋に放り投げる。掃除完了。あの女、ろくに服も着ないで逃走したんじゃなかろうか。惨めなものだ。そしてそんな惨めな女の置いて行った物たちを処理している自分も、相当に惨めなものだ。ベッドの上に膝を曲げてへたり込んだまま、はずた袋の口を輪ゴムできつくしばった。さて暖炉にくべて焼き尽くすか、大嵐の海に投げ入れるか。今日はどうやって葬り去ってやろう。

「おれが殺されたら、お前どうする」

 何の気なしに天蓋を見詰めたままキッドは呟く。まるで波立たぬ水面に一枚の花弁を浮かべるような、落ち着いた精緻な声で。「例えば」の話であったとしてもキッドは自らの死を仮定の引き合いに出すような男ではなかったから、は予想外の問いかけに僅かばかり驚いた。――その死は船長としてのあなたの? それとも一人の男としてのあなたの? ほんの一瞬、とてもくだらぬ二択が脳裏を過ったが、結局のところどんな文脈から彼の死が零れたとしてもの答えはたった一つしか有り得なかった。

「あんたを殺した女を殺す」

 自明の事柄を確かめるという儀式めいた行いは、いつもほのかに甘い味がする。なぜだろう。口の中に、舌の上に、喉の奥に、胸の内に。隠していたありったけの真実を、ポケットを裏返すようにしてあらいざらい見つけられてしまうこと。その素直さや、非力さに、少なからず恍惚を感じてしまっていること。屈辱の味は、滴り落ちる蜜のようだ。我が身を切り裂かれて内側から漏れ出てくる。うやむやにしようとも実体のないその甘さは自分ではどうにも止められない。どうせならあんたが啜ってよ。啜れるものなら、一滴残らず。は鍛え抜かれたキッドの上半身をふと見据えた。屈辱の蜜も、敗北の血も、決して流しはしない鋼の肉体。彼が呼吸するたび、割れた腹筋が上下するその艶やかな様。鎖骨、首、顎のライン、耳、鼻筋、睫を伏せた目元。そんな図体をしていても、一つ一つのパーツは至って繊細なのだな。何百回心に留めたか分からない事実を、今日も上書きする。指一本も触れること、なく。
 キッドは濡れた髪の毛を掻き上げながら、そうか、とあくびを噛みしめるように呟いた。伏せ目がちのその穏やかな表情は、にはとても自堕落に映った。

「そりゃァ、泣かせる話だな」
「……どこが」

 他人のために流す涙なんてこれっぽっちも持ち合わせてなどいないくせに、とは心の中で毒づいた。誠実になりきれない自分が、不誠実な彼を生んでいるのか。それとも逆なのか。今となっては知る由もない。神様が決めたのだ。二人が交わせるものは、生涯虚しさだけだと。可能なことも不可能なことも「運命」と名付けてしまえばそれ以上の悪あがきは無い。無いと思い込むしかない。は、彼が自分ではない女を抱いた動かぬ証拠を強く、強く握り締めた。明日になれば、あるいはこのままひと眠りすれば、キッドはもう自分が組敷いた女のことなどすっかり忘れてしまうだろう。それでもだけは覚えている。決して忘れることは出来ない。キッドでもあばずれ女でもなく、こそがその行為の第一の証人なのだから。

「そんな茶番、せいぜい笑い話じゃない」

 自分自身に言い聞かせているかのようには唸った。ありふれた滑稽な愛憎劇。笑えるかどうかも怪しい退屈な筋書き。はキッドがわざわざ自分を呼びつけて連れてきた女の世話をさせたり、ベッドルームを片付けさせたりすることに、ある特別な執着心のようなものを少しも感じないわけではない。けれどもそれが一体何になるのか。あの安い女たちのほうが、自分よりはいくらか生産的な存在として生産的な関係を彼と結んでいるのではないか。そう思うとどうしてもやりきれなかった。落胆と言えば軽薄だが、絶望と呼べば大袈裟な、だけどももはや一人ではどうすることも出来ないこの憂鬱な気持ちを、はキッドに伝える術を持たない。どんな決意をしても諦めがすぐさま追い着き、追い越していく。それは決して、希望の糧にはならなかったのだ。

 は全てを回収した袋を脇に抱え直し、この精液と血でどろどろのシーツくらい自分で洗ったら、とせめてもの嫌みを呟いた。あんたなんか皺くちゃのシーツの海でいっそ溺れでもすればいいのに。そのまま背を向けてベッドから降りようとしたは、突然の強い引力によってカクンと不自然に前のめりそうになった。キッドの腕が不意に伸びてきて、の手首と手のひらをベッドに押さえつけるようにして拘束したのだ。振り向く。あの、神秘の赤い色が、撫でるように彼女を見詰めていた。

 ほら、まただ。また、これだ。は下唇を噛んで、毒の如く滲み溢れる悔しさに耐えるしかない。キッドは彼女を扱う手だてを、彼女がどうすれば喜び、哀しみ、泣き、笑うかを知り尽くしている。そんな声で名前を呼んで、そんな瞳で見上げるなんて。右手を襲う湿っぽい手のひらの質量に、それだけでの全身が粟立つ。不意打ちの戯れ。彼の声色にも指先にも、改まった神妙な素振りは全くなかった。むしろそれらは至極日常的で、だからこそきつく彼女を縛り上げていた。

「愛してるのはお前だけだ」

 そこに彼なりの誠実な気持ちや、真実の切なさがあるかどうかはには分からない。
 ただ子供がお気に入りのオモチャを独り占めにしようとしているだけなのかもしれないのだから。









THE END