今日も起きてこないね、と朝食の席でベポがソーセージを齧りながら心配そうに呟いた。その向かいに座って新聞を読んでいたローは、瞬間色々なことを思い巡らせたが、結局、あいつは低血圧なだけだ、とだけ言い捨ててコーヒーを啜った。船長じきじきのにべもない言葉に、近くに座っていた船員たちは口々に異を唱えだす。だからそれが心配なんでしょ、キャプテンの人でなし、女の子なんだからもっと気遣ってあげてくださいよ、というかあんた医者ならなんとかしろ、等々。一船の船長ともあろうものが酷い言われようである。どだい男どもは皆、にとびきり甘いのだ。それは十中八九あの人形のように整った容姿のせいだが、それに加えてどこまでも控えめな性格の彼女は、何かと世話を焼いてやりたくなる雰囲気に満ちていた。朝からごちゃごちゃうるせェ、バラされてェのか野郎ども。ローは新聞から目を離すことなく唸るように一喝してその場を収めた。もはや記事など一つも頭に入って来なかったけれども。
 彼らは知らない。誰も知らない。の寝坊の原因が、他でもないローにあることを。



 ローが通りすがりの洗面所でを見掛けたのは、もう時計が十一時を回ったころだった。がたがたと音を立てて数台の洗濯機や乾燥機が回っている横で、彼女は床に座って本を読み耽っていた。大方、洗濯番か何かなのだろう。湿気のせいで暑苦しいのか、上半身はオレンジのタンクトップ姿で、揃いの白のつなぎは腰回りに袖を結んで縛り付けている。ローは洗面所の壁をコンコンと手の甲で軽く叩いた。

、起きたのか」

 その声にはすぐさま顔を上げた。陶器のようにつややかな肌が白熱電球の小さな灯りの下で蒼白く光っていた。

「あ、……キャプテン。おはよう」

 着崩したつなぎに袖を通そうと慌てるをかざした手のひらで制しながら、ローは洗面所に足を踏み入れた。今さら何を、とローは彼女の行動を可笑しく思う。お前のことならもう隅から隅まで知っている。隠すことなど一つもありはしない。洗濯機にもたれてしゃがみ込んでいたの前に膝をつき、彼は挨拶代わりにの頬に指を滑らせた。その指先の動きには、これっぽっちの躊躇も遠慮も有り得なかった。

「顔色が悪ィな。熱でもありそうだ」
「え、そんな別に、……寝不足なだけ」

 どこか不安げに下がった眉の愛らしさに、思わず顔が綻んでしまいそうになる。寝不足、か。これはまた可愛いことを言ってくれるものだ。ここのところ毎晩毎晩を自室に呼びつけているというのに、それでも昨晩の逢瀬がもう遠い過去のことのようで、今すぐにでも新しい記憶が欲しいと脳髄が心地良く疼きだす。二人のきっかけは、酔った勢いの他愛無い口付け。宴の席で酒の苦手なに、少しくらい飲んでみろ、と促したとき。こくりと頷いたの唇を、酒を含んだ口でいきなり塞いでしまったのだ。薄暗がり、はしゃぐ船員たち、どんちゃん騒ぎの中で、その数秒の二人だけが凪のような沈黙を共有していた。あの時のあの感覚が、ローは忘れられない。たった一つの秘密を、二人で分け合う高揚感。少しのスリル。追い求めるほどに霧の中へと誘われ、自分がどこに立っているのか分からなくなってしまうような。もちろん夢中であることに夢中になったり、盲目であることに盲目になったりするような真似は彼の趣味ではなかったが、の張り合いの無い曖昧な態度は、彼に「夢中」や「盲目」を一つの嗜みとして楽しむだけの少々の退屈を同時に与えていた。だからこそ、なかなかこの関係性を手放すことが出来ないのだ。
 ローは頬を撫でていた手をゆっくりと動かし、耳を包み込むようにして彼女の髪を梳いた。未だ抑えきれぬ好奇心。顔を近付け前髪に乾いたキスを落とすと、の肩がその刺激にびくりと跳ね上がった。

「キャプテン? どうした、の」
「……名前を」

 呼んでほしい。二人きりの夜のように。はベッドの上でしかローの名前を呼ばなかったし、それもローに促されない限り絶対に自分からはその名を口にしないのだった。そもそも彼女には意志が希薄だ。何を想っているのかよく分からない。もちろんそんなところも、ローの気に入るのだが。は何か訴えたげにローの瞳を見詰め返した。けれどもしばらくの沈黙の後その唇が紡いだのは、結局彼の名前だけだった。ロー、と。俯いて目を逸らしながら、おそるおそる彼女は呼ぶ。か細い声。二人の共犯関係を証明してしまう声。ローはの両頬を片手で挟み込むようにして強引に上を向かせながら、その鼻筋に唇の触れる距離で満足げに口角を上げた。

「良い子だ」

 中毒みたいなものなのだ。いっそ自室のクローゼットの中にでも閉じ込めておけりゃァいいのに、と時折ローはどうしようもない考えに陥る。彼がこの厄介な病の名前を知らない筈がない。ただその治療法となると話は別だ。今はひたすら、症状を和らげることしか出来ない。ローはの背中に腕を回すと、うなじから背骨に沿って人差し指のはらを滑らした。彼女は無防備にも下着をつけていなかった。ローが呆れ半分の小さな笑みを零すと、は顔を真っ赤にして彼の腕から逃れようと身を捩った。彼女の背で洗濯機が耳障りな機械音を発して小刻みに揺れている。ローはその細い肩を振動する洗濯機に無理やり押し付けると、もう片方の手を背中からタンクトップの中へとさし込んだ。

「誰か、来る」

 息も絶え絶えには呟いた。少し裸の脇腹を撫で上げるだけで、もう抵抗もままならない弱い生き物。タンクトップの下、じかに乳房の輪郭をなぞると、は口元を手のひらで覆いながら喉の奥で小さく啼いた。急いていく気持ちが快楽に変わる。真っ昼間から堪え性のない自分を棚に上げ、ローは彼女の悪あがきを疎ましく思った。確かにここは二人きりの密室とは言い難いが、だからこそ生まれる情緒もあるというのに。騒がしい宴の隅で唇を重ね合わせた二人の始まりのあの数秒が、淡い情景となってとろりと脳内を流れる。もう一度同じように、してみたい。美しい記憶をやり直したい。欲望が定まればもう、転がる石のように指先が、腕が、足が動いた。

「冒険は嫌いか? 海賊だろう」
「そんな……あっ」

 いつまでも渋っているをよそに、ローはその柔らかな躯体を抱き上げた。隣のバスルームの、空のバスタブの中で、彼女を抱いてみたいと瞬時に思ったからだ。彼女はまるで中身に何も詰まっていないかのように軽く、危うい。何事かと困惑を浮かべた瞳で見詰め返してくるに、さすがに今日の夜はゆっくり寝たいだろう、とローは意味ありげに笑ってみせた。それは今ここで、夜の真似事をしたいという合図だった。の目が大きく見開く。そこに映った焦燥の色。仄かな絶望の影。途端、彼女はローの肩口を精一杯の力で押し返し、足を激しくばたつかせた。まるで子供が駄々をこねるかのように。

「だめ、おろっ、おろして!」
「おいおい昼間の姫様はとんだじゃじゃ馬だな」

 夜だったらあんなに素直に足を開くじゃねェか、と耳に直接息を吹き込むようにローは囁いた。そしてその殆ど考えなしの下卑た言葉は、二人にとってもう一つの合図となった。の小さな手のひらが、渾身の力を込めてローの右頬を張り叩いたのだ。バスルームの扉を蹴り開けようとしていたローは、予想外の衝撃をくらって僅かに身体のバランスを崩した。大して強くも速くもない、下手な張り手。それでも避けることは叶わずに、全くの不意を突かれてローは盛大に咳き込んだ。頑強な腕の囲いからの細い身体が抜け落ちる。は床に尻餅をつきながら、懸命にローを見上げた。その眼は明確な敵意を持って彼のことを睨んでいたし、それ以上に自分自身への怒りに燃えているような、哀しくも激しい熱を宿していた。

「自惚れないで」

 ちょうど音を立てて回っていた洗濯機と乾燥機が同時に動きを止め、の震える声と荒い息遣いだけが狭い洗面所に響いた。ローもも、互いの眼から寸分も眼を離すことが出来なかった。今まで一度たりとも見ようとしてこなかったものが、その中に全て映り込んでいるような気がしたのだ。それはの過ちでもあるし、もちろんローの過ちでもあるもの。二人が見つけられなかったもの。の瞳から一筋の涙が溢れる。ローはそれを拭いたいという衝動に駆られ反射的にしゃがみ込んだが、手を差し伸べることはついに出来なかった。

「……あなたをずっと尊敬していたいの」

 の言葉は碇のように彼の心の砂地に沈み込んだ。もう一生引き上げることの出来ないほど、深く、鋭く。今すぐ抱きしめたい。そして謝りたい。百万回でもごめんと繰り返して。それはこの船の船長としての彼の切な願いだった。けれども今さらそんな野暮な行為で、一体何が変わるだろう。何が許されるだろう。
 変わるものなど有りはしない。許されることなど有りはしない。

 愛してる。
 その一言が、ここには無いのだ。









THE END