※趣味の悪いお話(審神者≠夢主人公)




 夕餉の時刻を過ぎても髭切は行方知れずのままであったので、あの温厚なあるじもとうとう痺れを切らして、膝丸に――もちろん内々のことだが――髭切捜索の命をくだした。夏の逢魔が時である。ひととおり出入りを許されている曲輪の内部を見てまわったが、兄の姿はおろか、気配すら感じられない。膝丸は二の丸の廻り廊下で呼吸をととのえ、重たい上着ごと袖を肘まで捲りあげた。人間とは不出来なつくりをしたものだ。ちょっと身近をうろついただけで、忌々しい熱がどこぞに溜まっていく。
 髭切と膝丸、兄弟刀の二人は春の終わりに顕現したばかりで、この本丸ではいまだ新顔のうちに入る。時の果てに構える政府とやらの方針は彼らの知ったことではないが、刀剣としての練度を上げるのに結構な急を要していたようで、二人はしばらくのあいだ戦場と手入れ部屋を往復するような生活を強いられた。そのことを、あの人の良いあるじは気にしているのだろう。とりわけ、髭切に対するあれの気の遣いようといったら。おおかた鶴丸国永あたりの古参が、兄の性格やら気性やら、あることないこと吹きこんだに違いない。膝丸は小さく舌を打った。日の入りが近い。

 不自然な風の向きがふと気にかかり、膝丸は何もない空虚を刹那に振り向いた。黄金の西日が中庭を燃している。そのせいか、陽射しの当たらない軒下は何ほどかの災厄を孕んでいるかのように重たく翳っていた。

「兄者?」

 膝丸はじっと暗がりに目をこらし、しばし立ちすくんだ。二の丸の奥は一切の立ち入りが禁じられている。他の刀剣どもの話すところによれば住み込みの下働きたちの部屋があるらしいが、何しろあるじ以外の人間とはほとんど接触する機会も与えられていなかったので、詳細なことは彼にも分からない。膝丸はにわかの躊躇を飛び越えて、禁じられた廊下の先に音もなく歩を進めた。庭伝いに廊下はどこまでも深く入り組んで、それでも膝丸は己れの嗅覚をけっして疑わなかった。この向こうに、兄者がいる。一歩踏みしめるたびに彼の予感は揺るぎないものになっていった。

「そこにおられるのだな」

 やがて廊下の中途にぽつねんと兄の白い上着が打ち捨てられているのを見つけて、膝丸はひたりと足を止めた。すべて廊下に面した部屋の障子は閉まっていたが、この奥にだけ、明らかな呼吸のたわむれが感じられる。そして自分が無意識に発した呼びかけに沈黙が反応したのを膝丸は聞き逃さなかった。彼は廊下にひざまずき、丁寧に兄の上衣を拾いあげると、閉ざされた障子にためらいなく手をかけた。

「兄者、探したではないか。一体こんなところで何を……」

 安堵したのも束の間のことで、膝丸はすぐに口を噤んだ。ひらいた障子の隙間が薄暗い一間を切り裂き、その細くはかない日照りの道にてんてんと、廊下に上着が落ちていたのと同じような具合で数枚のころもが散らかっていたのだ。散乱するそれを目で辿ってゆけば、光の最奥には紛れもない兄の背中が浮かび上がっていた。日没のような速度で兄の首の皺がうごめく。妖気に濡れた朱色のまなざしが一片も揺らぐことなく、凍りつく膝丸を捉えた。只ならぬ禍々しさに膝丸は思わず唾を飲み、ひざまずいていた足の五指にも焦燥とは趣の異なる力がこもるのを感じた。

「ああ、なんだお前か」

 いつも通りの朗らかな兄の声が鼓膜をぬめる。黄昏の闇すでに深く、この距離では膝丸も兄の表情を読み取るのがやっとだった。それならば敷居をまたぎ、障子を派手にひらいてしまえばいいものを、彼にはそれができなかった。秘匿すべきものをそこに見たのは、内在した本能のせいか、とってつけた良識のせいかは知れない。優雅に顔を覆っていた金色の髪を、兄がどこか鬱陶しそうに耳にかける。その仕草のついでに、彼は片手間に己れの体温の下に敷いていたものを弟に見せつけた。膝丸がはからずももたらした光の帯のなかに、なまじろい手の甲が這う。

「ごらん、人間の女だよ」

 それは分かる。見ればひとたび。問題は何をしていたか、では?
 膝丸はその光景の異形さに立ち会って、かえって寒々しい冷静さを取り戻しはじめていた。そういう、どこまでも道理を踏み外せない賢明さが、彼が兄とは違って損な役回りを引き受けてしまうゆえんである。
 一つ、小さく深呼吸をして、瞬時に意を決する。素早く小部屋に身を潜めると、膝丸は障子を元通り閉ざした。暗い部屋のなかを兄の着衣だけを拾いあげ、適当な上衣をその背中に被せて覆う。そのまま兄の二の腕を掴んで強引に連れ出そうとするが、無論、意にそぐわない扱いに対してこの兄が容易く従うはずもなかった。ままならない。膝丸は、兄越しに、四肢の自由を完全に奪われている女の悲愴をようやく見止めた。まるで独り、時を失っているかのような顔をしている。じっと兄の顔から目を離せないようだが、焦点が合っているとはとても思えない。

「っ……このようないやしい醜女に近づいてはなりませぬ」
「醜女か……、なるほど」

 顎に指を添えてから、髭切はやにわに姿勢を低く構えた。女の頬に触れる指が、膝丸の予見していたそれとはまったく違う色の、まったく異様な穏やかさに満ちていて、それはこんな事情のもとに立ち現れたものでなければほとんど愛撫かと見紛うような手つきであった。何を自分は目撃してしまったのか、膝丸はたちまち不安にかられる。ともあれこの部屋に許されたことが何一つないのは確かだった。なんとか困惑を振り払い、膝丸は、女の耳に噛みつかんとしていた兄の獣めいた振る舞いを制した。制したといっても、右肩を押さえただけだったけれども。
 兄の指のはらが、女の頬に食いこむ。生気のない眼に彼は優しく語りかけた。女の頬にそっと薄化粧でも添えるように、障子に滲む薄日が乾いた涙の跡を映している。

「お前、名を教えてくれないのはそのせいかい。気おくれしているんだね。ならば、名は諦めよう。なんでもいい、最後に声を聞かせておくれ」
「兄者、はやく!」

 声を押し殺した膝丸の叫びがきぃんと密室にこだまして、三人はそのとき、はっきりとこの世界の宵闇から切り離された静寂のなかに居た。夏の虫の鳴き声に掻き消されるほどの寂しすぎる呼吸が、髭切にも、膝丸にも、二人の耳にはっきりと届く。女は確かにこう言った。
 おゆるしください、と。
 それがあまり望ましい適切な言葉ではないことが、膝丸にはなんとなく分かった。彼にはなんとかその場の後始末をするのがやっとで、兄の気ままな心向きをそれとなく変えてみせたり、逸らしてみせたりすることができるほど、二人は一つでもなんでもなかった。事実、あれから季節を一つ跨ぐあいだに、彼は何回、ああいった類のしりぬぐいをしただろう。数えたくもない。



 本丸の庭先では、今宵、月見の宴が催されている。
 短刀たちがすすきを握りしめて庭をあちこち触れまわっている声、縁側で団子の食べ比べに興じるはしゃぎ声、酒豪の刀剣どもが酌み交わすどんちゃん騒ぎ。ついさきほど、宴に顔を見せない二人のもとにじきじきにあるじが誘いを入れにきたが、髭切は出陣にかかわる命以外は従う余地なしと考えているのだろうということが、弟の膝丸には見え見えだった。表向きはにこやかなものだが、彼はまだ色濃く人間を統べる存在としての気概が残っている。それに、そうではないにしても、こんな隙だらけの夜を逃す手はないのだった。

「あいつ最近、当番の仕事も休みがちのようだね。かわいそうに」

 平服を脱いで、身軽な浴衣に着替える兄を手伝っていた膝丸は、帯を兄の腰に巻きつけながら己れの耳を疑った。なんの裏表もなく憐れみをこめた声色で、兄があれの容態を気にしていたから。これではまるで無垢な逢瀬の準備でもしているような気分になるではないか。兄の足もとに立て膝をついて、膝丸は下腹部のあたりで帯をゆるく締めあげた。どうせすぐに乱れてしまうのに、彼の着心地を気遣って丁寧に帯を扱うのも虚しいものである。

「……あの女はあるじとは違うのだ、兄者。俺たちを前にして声を出すこともままならない、未熟なはしため……このままでは、いつか」
「僕があいつを殺すって?」

 ぎくりとする。こんな明るく騒がしい夜に、話す言葉を自分たちは間違っているとしか思えない。一瞬でも彼の心の底に純真なものを感じ取った自分を、膝丸はすぐさま苦々しく思った。あるいは、それはそれ、これはこれ、ということなのかもしれない。裏表がないということは、一枚の手札で、二つの表を持っているということ。もしかすると裏があるよりも厄介だ。至極いつも通りの、うららかなものを湛えた瞳を流して、美しい兄がふくふくしげに笑っている。とても愉快そうで、膝丸はけっしてこういう兄の表情には逆らえないのだった。

「おかしいね。人殺しの道具じゃないか、僕も、お前も。それなのに、まるで人間のようなことを言う。千年の本分をもう忘れてしまうほど、この仮宿を気に入ってしまったのかい、お前」

 ゆるゆると暑くもないのに首筋に汗が伝って、このがらんどうは、えもいわれぬ感情を目に見えるものに帰してしまう点で良くも悪くも愚直すぎるのだと思い知らされる。人の情けを知らない奔放な兄の手のひらが、めずらしく脳天をさするようにあてがわれて、頭上で往復するそれがひどく重たい。伏せた視界から兄の脚が過ぎ去っていく。自分は一体何をそこまでおそれているのだろう。どうして思考は果てを知らないのだろう。この肉の小部屋は確かに、何かを考えるにはちょうどいい独房ではあるのだが、何かを考え抜くにはとうてい事足りない、兄の言う通りの、ほんのひとときの粗末な仮宿だったのだ。

「兄者はまこと、あの女を殺すおつもりか」

 兄の背中が障子の前で立ち止まる。彼はもう弟を振り返りはしなかったが、そのかわり、気味悪いほどに平然と笑い声を立てて首を横に振ったのだった。

「……いや。僕もこの仮宿を楽しむことにするよ」

 それから数日後、ひとりの名も知らぬ女中が謎の失踪を遂げたという話を噂好きの刀剣から膝丸は小耳に挟んだが、自分たちには一切関わりのないことだとして、兄の耳にいれるようなまねはしなかった。源氏の重宝は今日も二人揃って、本丸の片隅で鷹揚に仮宿の生を謳歌している。









THE END

2016.9