鼓膜をすっと突くような鈴の音がして、へし切長谷部は障子をひとつ開け、軽やかに寝室へと続く襖の前へと侍った。この男の所作はどれをとっても機敏にして流麗である。そしてまた古参の近侍としての誇りを一身にまとっていて、そんなところが人間の尺度に照らせば鼻につくかもしれない。あくまで、生粋の人間であれば。ここは人間の似姿をした神のたむろ場であったから、溢れいずる感情もすべてどこか雲のように心もとない。きっと正気の人間であればここに放りこまれて三日で気が狂うだろう。今日も一枚の絵画のように、整然と朝が来る。この平和を平和だと思える人間は、正気を保てているのではなく、狂気が日常そのものなのだ。この本丸のあるじが証明してしまっているように。

「あるじ、おはようございます。お目覚めですか」

 穏やかに長谷部が声をかけると、しばらくあって襖がそうっとひらかれた。次の間のついたての前に、ひとりの男が静座している。雅やかな薄い桃花色の髪と、皺のついた寝間着の襟口があまく乱れていて、一目見れば彼がどうしてここに居るのか誰の目にも明らかな有り様だった。つくったような長谷部の笑みが、一瞬にしてかたく結ばれ、気色ばむ。彼の前に現れたのは、近侍でもなんでもないのに、この本丸で誰よりもあるじの側近くに控えるあの一振りであった。名を、宗三左文字という。

「なんだお前か」
「そう露骨に嫌な顔しないでくださいよ」

 朝から辛気臭いですねえ、いやだいやだ。そんなことを言って、宗三は己れの長い髪にするすると指先を滑らせた。長谷部は彼がここに居て、あるじのかわりに言伝を自分に託すということよりも、彼のそのこれみよがしな態度に腹が立つのであった。いつも、いつも。別に、誰に対する優越感だとか、自慢だとか、独占欲だとか、そういう感情を根にしてだらしないふるまいをしているわけじゃない。長谷部には宗三がただ、己れの退屈に酔っているように見えている。退屈――彼がもっとも忌み嫌うもの。それを飼い慣らして怠惰に浸っているこの男とは、根本的に相容れないのだ。

「で? 何用だ」
「朝餉はいらないそうです。かわりに白湯を」
「ご気分がすぐれないのか」
「食欲がないんですよ。夜更けまで起きていたせいでしょうね」

 思いだし笑いのような含みのある表情を遠くに逸らして、そして、すとんと着地するように宗三はまた長谷部を見据えた。湖水のような瞳がまたたく。いちど。朝鳥のさえずりがどこからか薄く薄く伝ってきて、二人のあいだに流れる張りつめた空気を震わせた。今日は、春のようだ。

「……出陣は午三つとのこと。内番やら、日課やら、それまで勝手にやっててくださいな」

 それから二三の事務的なやり取りがあった。襖をしめ、遠のいていく長谷部の足音を耳に深く沈みこませてから、宗三はまっすぐ腰を上げる。次の間から寝室へ、重たい銀色の、とろりとした真夜中の名残りが延びているのが彼の眼には見えた。なんとも、まあ。寝室の襖がかすかに開けっ放しになっている。光の園に、女の美しい背中が際立つ。いつの間に布団を抜け出したのか、彼女は広縁に置かれている安楽椅子に座って、ぼんやりと外を眺めていた。
 年のころはいくつなのだろう、と彼女の背後に座して控えながら宗三はふと思う。この女について、について知っていることは意外なほどに少ない。そもそもこの世界は時間という概念に乏しいようで、季節もいいかげんな訪れ方をするし、宗三自身もまた己れの肉体の年齢さえよく分かっていない。出自の知れない現世の生身は、あまり気持ちの良いものではなかった。それが己れであるという確かさに慣れないのだ。そんなものでしょうよ、人間だって。は平気な顔でそう言うが、果たして。

「あるじ、朝餉は断っておきましたよ」
「……宗三」

 振り返り、酔いどれのような足どりで椅子から立ち上がると、は数歩で倒れこむように宗三に身を預けた。少女のような己れのあるじのふるまいを、彼はいつものように黙ってかいなでる。こんな頼りないなりではあるが、一応、何十もの癖の強い付喪神の刀身をたった独りで統べているのはこの女だ。並みの能力ではないらしいが詳細は分かりかねる。どうにも、そういうふうに自分たちは作られているようで、文句を言う者はあれど逆らう者は誰もいないのだ。
 宗三の腕の中でゆるりとが顔を上げた。悪くない顔だちをしてはいるが、いかんせん、朝の彼女は隙だらけでうつろな印象を与える。ぐしゃぐしゃの前髪を梳きながら、宗三は子をあやすような笑みを見せた。

「白湯を飲んで、もうひと眠りしたらどうです。ひどいお顔だ」

 こくんと素直にが頷いたので、宗三は彼女を抱きとめて布団の上へとふたたび寝そべらせた。
 あるじとする人間にこの身を贔屓にされること自体、宗三にはよくよく覚えのあることであったけれど、彼女が自分のことを美しい刀として愛でているわけではないのだということも、その意味も、彼はとっくに心得ていた。権力者とはいつの時代も酔狂なものである。ときどき宗三は、自分がこうして彼女のわがままや甘えた態度を受け止めてやっているのは、一体なぜなのだろうと考える。これもまた、あの呪術のような力に導かれて? それとも、親が子に従うようなものなのか。どちらが子どもか知れぬのに。

「いま、いくつ」

 腕に縋られた状態で尋ねられて、それが時刻を問うているのだとすぐには承知できなかった。白湯はまだだろうか。朝はとっくに昇っているのに、ここにあるのはいつまでも、胸やけがするような自堕落さだ。

「ええ。辰の刻にちょうど」
「そう……遠征の部隊がひとつあったかしら」
「そんなもの、へし切にでも任せておけばよいのです」
「あれにはいつも世話をかけてばかりね」
「生きがいを与えてやっている、の間違いでは?」

 生きがい、ねえ。質のいい掛け布団に寝間着のはだけた白い脚を絡ませながら、がくすくす笑っている。僕たちが生きているということを笑っている。袖を引っ張られて、引っ張られたそのちから以上に宗三は慈雨に引きつけられていく思いがした。やわらかな敷布団に半身を預ければ、乱れた髪がだらりとにしたたる。くすぐったそうに目を細めてその毛先を弄ぶ。二人は似ている。どこまでも手慰みに遊ぶようにしか生きられないところ。なすことのない楽園は、行き先のない難破船と同じだ。

「宗三、あなたは? あなたの生き心地はどう」

 それでも、ここにしかない。ここにしかいられないのが二人なのだから。せめてそれが一人でなくてよかったと、こんなことで安らぎのようなものすら胸に芽生えてしまうのが可笑しい。しかもそれが、浮ついた雲のようではけっしてなく、この不可思議な世界で唯一、彼に赦された確かな感情だったのだ。ここに閉じこめた者と閉じこめられた者。手を取りあうような利口さはないが、脚と脚を絡めあうようなはしたなさを愉しんで、日一日と生きている。

「それは僕の預かり知らぬこと」

 ここでこうしていることがほとんど全てなのだから、生き心地なんてものはあなたが決めるよりほかないだろう。生きていること。肉であること。一人ではとうてい値打ちをはかりえない恥ずかしい命を、けれども宗三は、けっして悪くはないと思っている。









THE END

2016.9