夕日は滴るハチミツのようにやわらかく甘く、とろりと頭の中を溶かすような弱々しさで降り注いでいた。思わずその黄色い世界に目を細めると、自分の部屋だというのになぜだか切ない感情が燃え始める。ベッドに横たわる小さな背中だとか、作り出されたシーツの皺だとか、織り交ぜられたいくつもの光の線だとかが、静かな箱の中で輝かしい宝石みたいに思えた。寝ているのだろうか、起きているのだろうか。テニスバッグをわざと大きな音を立てて床に降ろし、自分のベッドの上に横たわる自分ではない生命体を見下げる。目線が触れ合う一瞬、それはハチミツよりもやわらかく、甘く。

「お帰り。早かったね」

 くしゃくしゃになった彼女の制服は白いシーツとよく馴染んで、何かそのまま無くなってしまいそうなくらいはかないもののように見えた。ほのかに色づいた夕暮れの光と同化して、いつか君は本当に居なくなってしまうのかも知れないなあ、なんて。そんなことが頭の中をぐるぐるとめぐり、いっそのこと存在を確かめてみたいのだけど、それはいつも難しい。西向きのこの部屋に、二人の影が伸びている。影の中で二人はきっと、祈るように仲睦まじく手をつないでいて。そんな虚妄がせめて頭の中だけでもざらついた質感を持っていれば良いのに。何の取っ掛かりもなく滑り落ちていく日常。ふわふわと不規則に舞い落ちる埃屑と、生温い空気と、刺すような光が眩しくて、思わず噎せ込みそうだった。

「退いてくんない?」
「やだ」
「やだじゃない」

 それでもかたくなにベッドの上から降りようとしないから、苛立ちを伝えようと彼女の身体の上に白ランを脱ぎ捨てた。するとは嫌がって退くどころかむしろきゃっきゃと嬉しがり、くるりと反転して上着の中へと身体を滑り込ませてしまう。

 この子を一体どう扱えばいいのか、いつの間にやら、俺には分からなくなっていた。だってこいつはいつの間にか俺の居ないところで俺の知らないたくさんの思い出を抱え込んでいて、その異質感や違和感はとてもじゃないけど耐え難いものだったから。混ざってゆく不純物は俺の心とは裏腹に、鼻をくすぐる彼女独特のにおいをより一層強くする。きっともうこのベッドにも乗り移っているのだろう、と、丸まる彼女の横に腰掛けながら思った。冗談を言って触れたり、笑ったり、そういう当たり前のことが憚られる。二人でここにいるということを無視してでも、消してしまいたい。だけどそれだって絶対に難しいのだ。シーツの皺を伸ばしながら、視界の中で白い手が動いていた。もうその手に向かって言ってしまいたい。気まずさは一度作ってしまったら、簡単には消えないものさ。と。
 紺のハイソックスがだらしなくふくらはぎのあたりまでずり落ちている。片方はもう脱げそうで。いつからはくすくす笑うだけの得体の知れない生き物になってしまったんだろう。居心地の悪さを疲れと夕暮れのせいにして、それでも痺れそうになる頭の芯を、いっそくりぬいてしまえたらいいのにと思った。

「汗のにおいがする」

 当たり前だろ、バカ。

 まるで毛布のようにくるまっていた白ランをひっぺがして、ベッドの上に放り出されたままになっていたハンガーに手を伸ばした。俺のにおいがにうつってしまったかもしれない、彼女のにおいが俺に届いているように。いとも簡単に混じりあってしまうこと。当たり前のように禁忌を侵してそれを厭わなかったあの頃の二人はもう居ない。
 開け放たれた窓からは雨上がりの涼しい風が吹き込んで夕暮れのやるせなさを加速させる。何事もない一日が何事もなく終わる、はずだったのに。平静は装うほどに演技する自分を浮き彫りにしてしまうのだ。

「キヨちゃん、あの子と別れたの」

 クロゼットにハンガーを戻して制服のシャツのボタンを外していると、後ろから舌足らずな声が伸びてきて無防備だった肩を叩いた。振り返るとベッドの上では、なんでもないというふうに仰向けになって天井を眺めている。頑なにその呼び方を変えないのは嫌がらせのような、無視できぬものを無視しようとする俺への当てつけのようなもの。足をばたつかせ、すべらせ、腕をブランケットに絡ませて頬を寄せる。ベッドの上はもうぐちゃぐちゃだ。フローリングに落っこちてしまった枕の情けなさが自分と妙にダブる気がした。凶暴で繊細な女の子に掻き乱されて、背中をやわく押されただけできっと落ちていってしまう。一体何処へ。きっと何処まででも。

には関係ないでしょ」
「あるよ」
「お節介っつーの、それは」
「ちがうもん」

 枕を拾い上げて押しつけたら、勢い良く拒絶されて投げ返された。ばふ、と情けない音がして再び墜落するのは枕か自分か知れない。まとわりつく空気に雨とは違う水分の予感が漂っている。はうつ伏せになって腕の隙間から顔を覗かせた。笑っているようにも、怒っているようにも、泣いているようにも、見えた。

「私ずっと、キャンセル待ちだもん。キヨちゃんのこと」

 くぐもった声は耳に届くよりも先に心臓に到達したみたいだった。刃が切り裂く、悲しみに暮れた青い血が流れて、夏の手前だというのに凍えそうになる。扱ったり、扱われたりするやり方でしか他人と関われない自分が、それ以外にどうやってと一緒に居ようとすればいいだろう。「千石くん」と黄色い声で呼んだり、「清純」と甘ったるい声で囁いたりすることもない。無邪気で何の色気もない、駄々をこねているみたいな声色で呟かれる「キヨちゃん」が、それだけが鋭い勢いで胸を抉る。記憶の中で何度もリフレインする。そしてそれはいつもたった一人のひとの「声」だった。

「……勝手なこと言うなよ」

 消えてしまえ消えてしまえ消えてしまえって、呪詛みたいに念じて、あの漫画に出てきた「どくさいスイッチ」をときどき押したくなってしまって。だけどそれなのに忘れたくないって。失いたくないって。同じくらいの気持ちで思っている。俺が消してしまいたいのは、本当は以外の全てだ。

 ゆっくりと彼女の足先が伸びてきて、ベッドの前で立ちすくんでいた俺の性器を、服の上から押すように撫でた。

 驚くことも腰が引けることもなかった。まるで彼女がそうすることを俺は知っていたみたいだった。望んでいたみたいだった。その行為は下品で、行儀が悪くて、寒気がするほど奇妙で、だけど彼女を夕暮れに負けないくらい美しくはかないものにした。細い足が器用に蠢くと、スカートが捲れて太腿と下着があらわになる。まだあどけない彼女のソレ。手に入れたらいつか失うし心は語るほどに色褪せてしまうしそれを知っていてなおこの感情に沈潜していけるほど潔くも罪深くもない。だけど、

「ねぇ、キヨちゃんは私で勃つ?」

 当たり前だろ、バカ。









THE END