アコースティックギターとマンドリンの小気味良い旋律が古い映画の主題歌を紡ぐ。もう何十回聞いただろう。謝恩会だか引退式だかで披露するんだって、管弦楽部の奴らはこのところ昼休みになるとこればっかり弾いているのだ。教室の後ろで椅子をまあるく並べて、来る日も来る日も、彼らは幸福そうに同じメロディーを繰り返す。よく飽きねぇなあ、と思いながらその集団を遠目にぼんやり眺めていたら、突然その中の一人が顔を上げてこちらを見た。野宮だった。彼女の黒飴のような双眸が、一瞬だけ飛沫を放つ。無色透明なのに強く香って、そしてそれは俺の困惑など待たずに(きっと予見済みのことなのだろう)、すぐにはかなく溶けてしまった。恋をされるというのは、そう、例えばこういうこと。不可避の攻撃。覚悟も何も無い「ごめん」の一言などでは、とても受け止めきれないものなのだ。

「When the night has come……」

 思わず口を突いた出だしのフレーズは自分でも驚くほど流暢で、サエは文庫本に目を落としたまま「けっこう上手いじゃん、バネ」なんて言って笑った。
 二月の終わりの昼休みの教室は、今しがたの彼の微笑のように気だるくやるせない。三年生はまだ受験の終わった奴と終わらない奴とが半々くらいの状態で、もとより登校している人数が少ないようだった。それでも進路を決めた暇な生徒達はなんとなく集まって、通い慣れ過ぎたこの場所で、ぽっかり空いたこの時期をどうしたものかと持て余している。俺も、サエもその一人。各々好き勝手に音楽を聴いたり本を読んだりしながらも、どちらからともなく顔を突き合わせてしまうのがここ最近の常だった。

「バネさ」
「ん?」
「どうしてフッちゃったんだよ、野宮のこと」

 集中力が途切れてしまったのか、あるいは適切なタイミングを図っていたのか、サエは読み止しの本をひっくり返して机に置きながら朗らかに問うてきた。野宮はサエの幼馴染だ(と言ってもこの辺じゃ幼稚園からの仲なんてそんなに珍しいものではない)。三日前、俺は彼女に「告白」ってやつをされた。なんとなく気付いていたことでも言葉にされると逃げ場がない。――「もうすぐ卒業だから、っていう記念じゃないの。あなたの恋人になりたいの」。真っ直ぐな彼女の言葉が、俺には「逃げ切れるとでも思っていたの?」という詰りにさえ聞こえた。そしてそんな自分が大層、狡い人間に思えた。

「二股かけろってか。生憎お前みたいに器用じゃねーよ」

 不機嫌な色が滲み出てしまうと、サエはちょっと不意を突かれたような顔をした。手持無沙汰な自分の右手は、二つ折りの携帯電話を開けたり閉めたりしている。澱みないその音はまるで拍を取っているみたいだった。

「あの子とまだ、付き合ってたんだ」
「……ほっとけ」
「ほっとくけど」

 ――あの子。
 サエはのことを、名前で呼んだことがない。「あの子」というよそよそしい代名詞は、いつも、どことなく非難めいた響きのするもので、俺はそれを聞くたびに焦燥を弾かれるような不安を覚えた。ほんの少しの印象のズレで、ひとはひとを好きになったりも、嫌いになったりもする。再び文庫本を手に取りながら、サエは、「バネがそれで良いなら良いんだけどさ」と穏やかに付け足した。どう返したらいいか分からなかった。彼のその言葉が酷く見当違いなようにも、ずばり核心を突いているようにも、思えたから。



 「志望校受かった。」という簡潔なメールに対する返信は、「おめでとう」でも「良かったね」でもなく、「じゃあ、潮干狩りしよ。」の一言だった。なんちゅう季節はずれな、と誰もが思うだろうけど、これは流の無季節の挨拶のようなものだった。そっち行くから会おう、とか、海に行こう、とかそんな類の意味。海に行くということと、俺と会うということは、彼女にとっては殆ど同値だった。つまりどちらもまだ、彼女にとっての非日常だということなのだ。

 裏門を抜けて砂浜に出る。一、二年生は期末テストの最中で、部活動のロードワークをしている生徒達も居らず、時折犬を散歩させてるひととか、ゴミ拾いをしているひととかが歩いているだけだった。そんな殺風景の中で、はぽつんと一人、舗装路から砂浜へと続くスロープに腰掛けて足をぶらつかせていた。俺を見つけ、「ハル」と俺の名を呼び、タータンチェックのプリーツスカートを生脚の上で揺らしながら、彼女はいつも大きく手を振る。この辺りでは決して見かけない私立校の洗練されたブレザー姿は、それだけで俺には眩しく感じられた。すごい、単純。初めはただ「あの制服可愛いよなあ」と思って、目に留まっただけ。それだけのことが、とてつもない揺らぎを引き起こしてる。何度も何度も、いい加減酔ってしまいそうなくらい、大きく、揺らいで。

「受験おつかれ」

 数メートルの距離を埋めるように、は何かを勢いよく俺の腹に押し付け、腕を突っ張った。手首ごと掴んでそれを高く持ち上げてみると、彼女の手には見慣れた赤いパッケージがあった。

「……まさかこれが合格祝い?」
「うん。それと、出遅れバレンタイン」

 が俺の腹に押し付けて寄こしたのは「キットカット」だった。あの、受験シーズンによく出ている、桜があしらわれた期間限定のデザインのやつ。裏返すとメッセージの欄には「I love you」とご丁寧にハート付きで書き込まれていた。チョコレートを口にしたわけでもないのに、それだけで胸やけしそうなくらいの甘ったるさが襲う。卑怯だろ。こんな大量生産の、コンビニでも買えるような菓子で、愛を囁くなんて。

「バレンタイン、何個貰った? あ、受験生はそういうのおあずけか。うちね、跡部くんって知ってるでしょ? もーすっごいの。他校の子もテニスコートぐるっと囲んでてさ……」

 砕ける細波の白に向かってはたどたどしく歩を進めながら、時折こちらをぐるりと振り返った。初めて彼女を試合会場で見かけたとき、その眼はとてもつまらなそうにテニスボールを追っていた。だから惹かれたのかもしれない。自分とは全く正反対の、自分にはない光がそこにあったから。

(あー、また……)

 たった一度だけ俺は、に会うために部活を休んだことがあった。今考えれば、それは実にくだらないことだったと思う。男友達と二人で遊びに行くとか、行くなとか、電話で言い合って、結局俺は陳腐な独占欲で彼女をさらいに行った。遠路はるばる、東京まで! 恋は思案の外とはよく言ったものだ。けれど仮病を使った逃避行はなぜかサエにだけはすぐ勘付かれた。以来、サエはのことを、と俺のことを、あんまり良く思っていない。そりゃあそうだ。これは全く、「印象」の問題なのだから。
 なんとなく付き合うようになって一年とちょっと。始まりがあやふやなら、終わりもあやふやなのか。このままでいいのか。今日の水平線のように判然としない何もかも。遠くばかり気にしているから、そんなふうに曖昧なものばかり目についてしまうのかもしれない。かといっては果たして近いのか遠いのか、そこからしてはっきりしないんだけど。

「お前さあ」

 砂利混じりの砂浜にしゃがみ込んで、足元の丸っこい石を一つ、前を行く彼女めがけて放った。描かれた放物線は思った以上に弱々しく、その軽薄な背中に届くことはなかった。

「そんな呑気にしてっと、俺どっか行っちまうぞ」

 いつもならそれは実の無い冗談で、せいぜい可愛らしい強がりにしかならないような文句。けれども今はもう、この言葉を現実に還そうと思えばそうすることの出来る自分が居る……のかもしれない。そんな砂粒ほどの優越心をなんとか拡大解釈したら、その言葉の一音一音のどこかにでも支配の匂いを漂わせることは可能だろうか。近付いてくる茶色のローファーを無視して視線を落とし続けていると、はスカートの短さなんて気にせず脚を折り曲げて、同じ高さで目を合わせようとしてきた。だけどその目は決して俺を、見抜こうとはしないのだ。濃い睫に縁取られた、深遠なようでいてその実何も分かってない目。分かろうとしない目。見つめ返したって意味の一つだって出てきやしない。それなのに飽くことなく彼女が見ているのは、俺が見ているのは、一体なんだというのだろう。

「ハルはどこにも行かないよ」
「……その自信がさ」
「自信なんてないけど」

 彼女の狭い額が肩に寄せられる。その軽いような重いような、距離を失うことへの喜びでも哀しみでもあるような、ともかく触れられているという確かな感覚がこそばゆかった。手を繋ぐのも、キスするのも、そんなに難しいことじゃないのに、それよりもっと微かな接点で感動しているなんて馬鹿みたいだな。俺の日常との日常はいつまでたってもうまく重なり合わない。肩に額を合わせるようにしなやかに、日常の歩幅だって揃えられたら楽なのに。

「想像するのがこわいだけ。ハルが居なくなるなんて」

 彼女の言葉には、俺の言葉にあったような汚い打算や幼稚な含みなんか全然なかった。それはただ数多の「選ばれなかった」選択肢を奪い去るように神妙に紡がれただけだった。
 日常の中の、たった一つの非日常。日常のドアノブを廻す、たった一つの鍵同士。さみしさの中に真実があるのなら、そのさみしさを選択し続けられる強さを教えてくれよ。なあ。潮風の沁み込んだ冷たい髪に指を絡めて、ぐ、と引っ張るとはゆっくり顔を上げた。そして、痛い、と言ってなんでか笑った。俺もなんでか笑っていた。

 ――想像なんて、させてやるものか。









THE END