(王子様みたいな顔……。)

 その印象は、おそろしく整った彼の目鼻立ちによるものでもあったし、何の躊躇いもない清廉な表情によるものでもあった。まるでこうすることが当然であるかのような、こうすることが許されている、いやもっと言えば、こうするべきなのだと諭すような。前髪の上に彼の額が重ねられて、ワックスなのか香水なのかそれは判別できないのだけれども、とにかく未だ嗅ぎ慣れないツンとした香りが鼻を掠めた。思わず顔をしかめると、眇めた片方の目に乾いた唇が落とされる。かわいい、なんて一丁前に嘯く、その気取った唇が。
 誘惑する力は女性の特権である、とどこかの小説家が言っていたけれど、それのどこが含蓄のある物言いなのかわたしには全く分からない。そんなの男の身勝手な発情を、なんとか文化的に取り繕おうとしている言い訳に過ぎないとさえ思う。だってわたし、あなたのことを誘惑した覚えなんかない。わたしはそんな体の良いフィクションに加担する気なんかないの。それなのに彼の鋭い眼光は、容赦なくわたしを女にしようとする。厄介な王子様だ。むしろ「王子様」なんて呼び名が似合う男は、本来そういう不躾な物語の住人なのかもしれない。

「天根くん、」
「……ヒカル」
「……どっちでもいいでしょ。ほら、退いて」

 薄いカッターシャツの上から分厚い胸板を押し返すと、彼はようやく渋々と身を起こした。マッチの火のような短く頼りない熱情も、三度目ともなるといつぞや燃え移ってしまうのではないかと多少の危うさを感じるものだ。スカートの裾や、ブラウスの襟が、よもや既に焦がされていないだろうな? いつもより一つだけ余分に外されてしまったボタンを掛け直しながら、身体中に火傷の跡を探してみる。……大丈夫、わたしはまだ、犯されていないみたいだ。

 机から降りて、落っこちたスケッチブックを拾う。描きかけのそれを天根くんもひょいと上から覗き込んで、「上手」となんだか嬉しそうに漏らした。彼が仲間内で「ダビデ」と呼ばれていることを知ったとき(それはデッサンのモデルをしてほしいと頼みこむより前のことだったけれど)、わたしはそのネーミングセンスに感動さえ覚えた。人間の美を象徴する、あの彫刻に準えられているなんて! それはまさにわたしの直感を代弁していた。彼は「絵になる男」ではなく、「絵のような男」だったのだ。彼が夕陽に染まるシンとした美術室の中で、きりりと口を結びじっと一点を見据えている姿は、人物というよりも静物のようで、わたしはたまに彼が呼吸していることを忘れてしまう。もっとも、彼が無言で静止していられる時間はせいぜい三分くらいだったけれども。

「部活、行かなくていいの」
「庭球は、今日は定休……プッ」
「嘘。ラケット持ってるくせに」
「……ああ、あとでオジイにグリップ巻いてもらうから」

 最近ちょっと滑る、と彼はラケットを握る素振りをしながらぼそぼそ付け足した。図体の大きさとは裏腹に、彼の声は最低限の音量しかなくて聞き取りづらい。何か語呂合わせのようなものを呟いては一人で笑っていて、彼がこれほどの美貌の持ち主でなければきっとその様子は大層気味の悪いものなんだろう。「あいつ、鬱陶しかったら殴っちまっても構わないからな」と、黒羽くんが冗談交じりで言っていたことを思い出す。昼休みによくうちのクラスに遊びに来ていた天根くんは、いつも黒羽くんに頭を叩かれていた。漫才で言う、ボケとツッコミということだろうか。幼馴染の距離感は不思議だ。
 美術室のど真ん中に置かれた四人掛けの作業机は、まるで円形劇場の小さな舞台のようだと思う。舞台上には美しい男の子。観客はわたし、一人だけ。ずっとそのままを眺めていたいのに、彼は隙あらばわたしを舞台の上に引っ張り上げようとする。天根くんは机の上に座ったまま、片腕で髪をかきあげた。大きく腕が持ち上がると半袖シャツの奥から逞しい二の腕が露わになる。日に焼けた腕でも内側はもともとの白さを残していて、なんだか見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった。

「……あ、そのポーズいいかも」

 鉛筆を握る手に力がこもる。天根くんはあぐらを崩したような足の片方の膝に、持ち上げた腕の肘を乗っけて、もう片方のだらしなく伸ばした手で足の甲を触っていた。大きな足、一体何センチあるのだろう? 机の横に脱ぎ捨てられた履き潰した上履きとスニーカーソックスを何気なく見遣る。そうして再び視線を上げると、髪に指をさしこんだ状態のままの天根くんとはたと目が合った。

「ポーズって……」
「動いちゃダメ!」

 思わず語気を強めて叫ぶと、彼はちょっと肩をすくめ、「ダメと怒られ大ダメージ……」なんて言いながら(そのわりに口元は相変わらず薄く笑っていたが)解きかけた足を元通りに折り曲げ直した。急いで椅子に座って、スケッチブックを一枚捲る。写真を撮っちゃえば簡単にこの瞬間をモノに出来るのに、どうしてこんなもどかしいことをしているんだろう。したいんだろう。真っ新な紙の上に鉛筆を走らせて、目の前の「絵のような」輪郭を忙しなく描き止めていく。生み出すことは快感を伴う、と思う。確かな実感が欲しいのかもしれない。傍観者を決め込みながら、どこかで関わりを持ちたいのか。出来れば傷付くことなく、犯されることなく。完璧なそれを崩さぬように。
 ガラスを通しても一向に和らがないどしゃ降りの蝉の声、シャッシャッシャッと音を立てるペン先、クーラーの機械音。会話などなくとも夏休みの美術室はそこそこ騒がしい。だけど舞台上のお喋りな男の子はそれだけでは満足してくれないようで、やがてぽつりと、口の中に溜まった台詞たちを呟くように放り出した。

「ヌードはイカが」
「……馬鹿じゃないの」
「ごめんなサイ」

 例えばこんなふうに、彼の台詞はいつもくだらない。しかもこの先には「ごめんね、なんて言っても、和めんね……プッ」と続くのだから、もう答える気も失せるというもの。はいはい、と適当に返事をしながら手を動かす。あなたの周りにはあなたの一挙手一投足に反応してくれる誰かが必ず居るのね。癖のように絶えず放たれる言葉遊び。きっと、なんだかんだでちやほやされ続けてきたに違いない。そして彼にとってはわたしも、そのちやほやしてくれる他者のうちの一人なのだ。甘やかし、構い、ほめそやす。そんな女のうちの一人なのだ。

(……ふざけんな。)

 パキと音を立てて鉛筆の先が欠けたせいか、天根くんはちょっと首を動かして、こちらを見た。「動かないで」と言おうと思ってわたしは咄嗟に口を開いたけれど、彼の微かに弓なりになった瞳と持ち上がった口角があまりに綺麗で、咎めの言葉は簡単に奪われてしまった。美しい、だけどなんだか、おぞましい。それは静物の美ではなく、全く人間的な美だったから。

「俺のこと描いてるときのさんの眼、好き」

 彼はその発言でわたしに愛を囁いているつもりなのだろうか。そのあどけない言い草が、とんでもなくナルシスティックな賛美を含んでいることに、彼は本当に気付いていないのだろうか。生まれて初めて異性から向けられた「好き」の二文字が、真夏の只中でこんなにも虚しい。息苦しい。自覚の無さは、重たい罪だ。どんなに真摯ななりをしていても、きっとくだらない台詞のほんの一部。あるいは、わたしを女にする呪いか何か。どっちにしろ、ふざけんな。
 わたしはあなたのお姫様にはならない。王子様、もし欲しいものがあるのなら、まずはその舞台を降りて来い。









THE END