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 彼女がソファに座ってボードレールの詩集を読んでいるその足元で、俺は床にしゃがみ込みシャボン玉を吹かそうとさっきから試行錯誤している。暇つぶしに机の引き出しを漁っていたら、おもちゃ屋で売っているような安っぽいシャボン玉キットを偶然見つけてしまったのだ。いつごろからそこにあったのだろう。物心のついたころからこの書斎は俺たちの遊び場で、隠れ家で、秘密基地だったから、きっとここにはまだいたるところに童心の欠けらが残されているに違いない。ショッキングピンクの小さなボトルに入ったシャボン液に、エメラルドグリーンの細い管の先っちょを浸して、もう片方の端から慎重に息を吹いてみる。静かに膨らんでいくシャボンの膜は、テニスボールほどの大きさになると必ず割れた。ひとつも浮遊することはなかった。

「どう?」
「やっぱ無理かも」
「古すぎるんだよ」
「ちぇー」

 ソファに首を預けてを見上げると、残念だったね、と子供をあやすみたいな口振りでなおざりに慰められた。彼女の視線はずっと分厚い詩集に注がれたままだ。それそんなに面白い? ちょっと読んでみて。気取ったソプラノがまるで歌うように、「なんと彼女は美しい! そして不思議に若々しい! 雅で重い塔に似た、多く備わる思い出が、貫録を彼女に添える、桃に似て傷ついたその心、その肉体と同様に、愛の秘術に熟している」……。なんだか催眠術の呪文みたいで、聞いているだけで眠くなる。そんなふうに茶化せば、ジロちゃんはいつだって眠いでしょ、なんて言っては笑うんだろうけど。俺にはブンガクの素養などまるで無いから、いつまでもシャボン玉の童謡を歌っているほうが性に合ってる。しゃーぼんだーまーとーんーだー。自然に口をついたその懐かしい旋律は、飛ばないシャボン玉の代わりにゆっくりと螺旋を描くようにして天井まで昇っていった。見えないうねりを目で辿る。天窓から黄土色の陽射しが差している。土曜日の午後はいつも、時が抜け落ちたみたいに穏やかだ。

「イイナズケって楽で良いね」

 口の中でひろがる軽薄な言葉の響きは、まるで出がらしのお茶のようでなんとも味気なかった。だってそうだろう。ずっと三人で仲良く遊んで、時にはくだらぬ喧嘩をして、横一列で育ってきたのに。そういう取り返しのつかないことは早めに言ってほしいよね。十五歳じゃあ、もう遅い。三人はもう自分が何者であるかという大仰な問いを放ったまま、一日中書斎でかくれんぼが出来るような歳ではないのだ。もちろん、だからといって“自分が何者であるか”という問いに答えられるようになったわけでは決してないけれど。それでも分からないなりにその問いはひとのかたちを成して、今ここで呼吸している。シャボン玉と同じように、人知れず静かに膨らみを帯びて、浮遊する日を夢に見ながら。

「……レンアイはとっても面倒だよ」

 自分の声が自分の声ではないみたいに引き攣っている。そう、レンアイはものすごく面倒だ。どんなふうにでも曲がるし、なんだって覆されるし、決まっていることはひとつもなく、誰も何も教えてくれない。時が来れば自然と分かることだって大人は笑うが、そんなことを言いながらお前らが何も分からずに歳だけ食ってきたこと、はっきり言ってバレバレなんだよ。適当な嘘をついて十五歳を騙すなよ。俺たちはもう“ひとのかたち”をしているんだ。

「でも、恋愛はやりがいがあると思う」

 がようやく、俺に視線を落とした。彼女はずるい。言いたいことの半分も言葉にしてないくせに正直ぶった物言いをする。頑なに閉じようとしない忌まわしき詩集に腕を伸ばし、ちょいと指で背表紙を引っ掻けて彼女の手からそれを奪った。重たい本が鈍い音を立てて絨毯敷きの床に落ちる。危ないじゃない、とは俺を咎めた。ごめんね。でももう、ちょっとくらい危ないことをしなくちゃ、俺たちは距離を保てない。それにそもそもこの部屋に二人で居るってこと自体が、俺には充分、危険なことだ。

「……まあ確かに“ヤりがい”はあるかもね」

 何気なくその細い膝の上に置かれていた左手に自分の右手を重ねたら、指先が手のひらの中で微かに跳ねて、美穂があからさまに動揺しているのがよく分かった。決して拒むことなくただ戸惑うだけのに、意地悪な笑顔を向けてみる。彼女の頬はもう熟れたトマトみたいに真っ赤っかだ。あらら、本当に俺のことが大好きなんだね、。君はとっても欲張りな子だ。

「そういう意味じゃない」
「どういう意味だって結局同じだろ」

 レンアイにやりがいがあろうと、ヤりがいがあろうと、恋人同士は手を握り合うんだし、唇を重ね合うんだし、身体を擦りつけ合うんだ。当たり前の欲望をさも貴いことのように、これから二人で繰り返していかなくちゃならないんだよ。愚かになる覚悟はあるのか。傷付く覚悟と、傷付けられる覚悟はあるのか。隠しているその言葉も、想いも、身体も、俺の前で全てまる裸にするんだ。だって、吹かれることなく古くなって、飛ぶこともなく割れ続ける、そんな日々を過ごして何が楽しいの。浮遊しなくちゃ、意味がない。

「ねぇ。どうせするなら、本気でしなくちゃダメだ」

 例えば君が十年後、俺ではない男と結婚するとして、その運命めいた未来がどうして現在の君を拘束できるだろう。俺にはそのカラクリがどうしたって理解できそうにない。どうにもならないことなんか十年前と十年先にしかないのに。今ここには、ひとつもないのに。

 の左手をしっかりと握ったまま、もう片方の手でそのすべらかな足を舐めるように撫で上げた。息を呑むような小さな悲鳴。捲れるスカート。あらわれる曲線。子供っぽい剥き出しの膝頭にそっと歯を立てたら、の皮膚の味が口の中いっぱいにひろがっていくような気がした。あんな軽薄な言葉の響きとは似ても似つかない、濃厚な味だ。とっても美味しいよ、。いただきます、の代わりにそんなあられもない言葉を囁いた。君の足元にしゃがみ込んだまま、首をもたげた先で相変わらず真っ赤なが、じっと俺の行為を見詰めていた。

「……ジロちゃんの変態」

 召し上がれ、よりもずっとタチの悪い涙混じりの弱々しい抗議の声。“ひとのかたち”をしているだけの、虚ろな俺の内側で、際限なくぶくぶくとシャボン玉が膨れ上がっていく。ああ、願わくはそのまま舞い上がれ。何処へ。もちろん君の内側へ。そして二度と帰って来るな。君の中で、こわれて消えろ。









THE END

引用:ボードレール『悪の華』堀口大學訳・新潮文庫