浅い噴水に浸した素足は冷たく、脳天にさす陽射しはとても熱い。水しぶきの虹をかたちにするようにホースの先に爪を立てながら、ときおり足先で戯れに水を蹴りあげてみる。遅刻常習犯たちの一学期をしめくくるのは中庭の居残り掃除だった。とはいっても遅刻なんてしてくるのはたいがいやる気がない問題児ばかりで、学期末の教職員会議で見張りがいないのをいいことに半分はサボって帰ってしまったし、もう半分は今ごろピロティーでだらだら時間を潰しているだろう。矢野ちゃんとゆんちゃんなんか箒とちりとりそっちのけで、浴衣特集の雑誌を膝にひろげて隣のクラスの男の子たちと花火大会に行く計画を立てていた。軽い気持ちで混ぜてもらおうとしたら「あんたは旦那がいるやろ」の一言で一蹴。仕方なくこの眩しくて涼しい場所で水まきに精をだしている。女の友情なんて、そんなものです。

「なーに、ぼけっとしてるん」

 耳慣れた低い声と色濃い影が不意に降り注ぎ、瞬間、ぎょっとしてホースを足元に落としてしまった。ど、ど、どぼ、ぼぼ。重たくて出の悪い水が足の甲を越えて流れていく。慌てて振り返るようにして見上げると、噴水のふちに座るわたしのことを汗だくの謙也がひょいと覗きこんでいた。テニス部の揃いのタオルを首に掛け、リストバンドで額をぬぐい、ポカリスエットの大きなスクイズを脇に抱えて。ロードワークの帰りか何かだろうか。テニス部ってまさか今日はないでしょって隙間にことごとく練習を入れているから凄いなあ、と思う。終業式の日に部活をしているのなんて彼のところくらいだ。私にはとても分からない。この炎天下にあんな小さなボールを無心に追いかける情熱なんて。

「……謙也」
「ちゃんと掃除しいや、問題児」

 謙也は横に立てかけていたデッキブラシを適当によけて、わたしとは反対の向きに当然のように腰をおろした。汗に濡れた金色の前髪が額にはりついている。どうせせっかちな男だから他の部員をはるか遠くに置いて一人だけさっさと突っ走って帰ってきたんだろう。そんなに飛び抜けて足が速いなら大人しく陸上部にでも入ったらよかったのに、現に今までいくらも勧誘されただろうに、それでも彼はこの三年間ずっとラケットを手放さなかった。わざわざ決して一番になれない場所で彼は、今日も今日とて戦っている。それがわたしの「旦那さん」。クラスの女の子たちはみんな口をそろえてそう言うけれど、夫婦だなんだとからかわれるたびに「ほんなら夫婦漫才でもしよか?」とか慣れたふうに乗っかって笑いを取ろうとする謙也がわたしは大きらいだった。茶化されることも、彼が逃げるようにそうしていることも。

「ここ、暑いやろ。ピロティーで矢野と斉藤涼んどったで」
「うん……そうなんだけどさ」
「てか……お前なんや、濡れてへんか」

 話がうまく噛み合わないまま、謙也の熱い手のひらがためらいなく背中に触れた。自分が好かれていることを知っているから、まるでデリカシーのかけらもない態度だ。確かに彼のように何キロも走ってきたわけでも何十分も太陽の下にいたわけでもないのに、わたしの制服は背中から裾に向かって不自然に湿り気を帯びていた。紺と黄のバイカラーの制服が濡れてところどころ色を変えている。噴水の水を抜こうとして水のなかをうろうろしていたら生した苔に足を取られて転んでしまったのだ。どうせすぐ乾くだろうと放っておいたら水を含んだワンピースが陽射しに温められて、何とも言えない気持ち悪さに襲われている。
 謙也の手のひらの熱がスカートの生地を背中に押しつけるようにする。腰から背筋をぞわぞわと寒気がのぼりつめた。こんなにも暑い空気のなかで。

「さっきそこで滑って尻もちついた」
「え? 足とか捻ってへんやろな」
「んー…それはたぶん大丈夫なんだけど」

 「けどなんや?」と間髪入れずに言葉が返ってくる。もしかして心配してもらえているのだろうか、これは。てっきり「何やってんねん、相変わらずどんくさい奴やなあ」などとからかわれるのかと思っていたから、そんなふうに真っ当な反応をされるといかにも調子が狂ってしまう。謙也がスクイズをほとんど垂直にさかさに向ける。ごくりごくりと豪快に水分を補給する謙也の、上向いた喉仏のでっぱりに、つうと汗が一筋垂れた。アスファルトの蜃気楼のような、どこか遠くの景色のようにそれを眺める。あなたが遠くにいるまぼろしと、あなたが近くにいることのふしぎと、その消失点を目の当たりにしているような気持ちで。

「下着まで濡れちゃった」

 スカートの裾をぱたぱたしながらそう何気なく言ったら、スクイズの飲み口を咥えたまま謙也は盛大に咽かえった。上を向いていたのが一転、背中を折るようにして下を向き、げほげほと激しく咳をする。「大丈夫?」と言って覗きこもうとした顔は俯いてなかなか思うようには見えず、かわりにほんのりと赤く色づく耳たぶがすべてを物語っているような気がした。ああ、もう。こんなことくらいで、愛しさの波に呑みこまれそうになってしまう。

「ちょっと、変なこと想像したでしょ。絶対」

 彼の背中に手を置いて子どもをあやすようにさすってみる。謙也の背中は私の背中に負けず劣らず濡れていた。熱い。夏って、びしょぬれの季節なんだな。恨めしそうにちらりと顔を上げた彼と眼が合って、乾いた端からまた濡れていくような心地がする。こんなに近くにいて、同じように熱くって、互いに体温に触れている。それでもわたしたち同じ水のなかを泳ぎきり、ふたりで溺れたことは一度もない。笑っちゃうでしょ、あなたはわたしの「旦那さん」なのにね。

「……お、まえが想像させたんやろ、アホ」
「あ~アホって言うほうがアホなんです~」
「アホって言うほうがアホって言うほうがアホなんです~…ってガキの喧嘩さすなや」

 ぱしん、と突っこむように頭をはたかれて耳に掛けていた髪がひとたば落ちた。全然痛くないけれど、痛みなんかよりも酷いこそばゆさがこめかみをぎゅっと締めつける。謙也がさっきまでの動揺を誤魔化すようにがしがしと髪をかきまわすと、汗のにおいが鼻を抜けてうっと胸まで押し寄せてきた。これが彼の戦いの轍なのだろう。彼を濡らしているもの。彼が溺れているもの。わたしの歩みを絡めとった錆びついた水とは全く違う水のなかで、彼はもがき苦しんでいる。いくらだって差し伸べられる手はあるのに、変なの。だって信じられないだろう。何をやらせたってひとより多くをひとより優れてこなせてしまう、凡人とは持っているものがはなから違うようなこの男が、あの緑色のコートの上ではいとも簡単に追い抜かれたり、負けたり、膝に手のひらをついて俯き動けなくなったりするのだから。

「あー…もう、練習戻るわ。熱中症ならんよう気ぃつけや」

 謙也が足の裏に力をこめてのっそりと立ち上がる。彼の視線の先にはぽつぽつとひとの集まりだしたテニスコートがあった。行ってしまうんだね。胸につかえるわがままが溢れてしまわぬように、彼のTシャツの裾を捕まえる。その右手に気安く触れることは、できなかった。

「あ、謙也、待って」

 当たり前のように教室で交わすたわいのない一言だったり、授業中にふと目が合ったときのどうしようもない胸のうるささだったり、そんなちっぽけなもので満たされていれば目を向けずに済んでいたものが明日から一ヶ月半もの間わたしをじわじわと蝕んでゆくのだろう。なんて不公平なんだ。なんて理不尽なんだ。あなたはここを離れたらすぐさま、きっと三歩も歩けばわたしのことを忘れてしまうのに。

「明日の決勝戦、がんばってこいよ」
「は、なんやそれ、いきなり」

(嘘、がんばらないで。何もがんばらないで。何も。)

 滅多に口にしないわたしの気まぐれな言葉に、謙也は怪訝そうな顔をして笑った。
 明日から中学最後の夏休みがはじまる。あなたの指先がわたしの濡れた下着に決して届くことのない、気の遠くなるほどに長い長い夏休みが。









THE END

♪ 最後の夏休み - aiko