途方もなく長かった夏休みも終わってしまえばあっけなかった。夏期講習と宿題、それから受験生の息抜きと称したカラオケや夏祭り。ささやかな夏の思い出のなかに、彼の姿はなかった。学校に来さえすればきっと、毎日毎日テニスコートでラケットを振る彼の姿を見ることができたのに、自分がこんなに意地っ張りで融通が利かない性格だなんて知らなかった。知りたくもなかった。テニス部のこと、彼の試合のこと。人づてには色々と聞こえてきたけれど、きっと彼の口から直接聞くことはないんだろう。「結局、去年と同じやな」と一緒の塾に通っていた女の子たちが残念そうに話しているのを盗み聞きながら、その去年と同じ結果のなかにうねる、たった一度きりの熱のことを想った。そしてその熱の只中にあった、彼の最後の夏のことを。

 夏休み中の不規則な生活がたたって、二学期の初日から遅刻すれすれの時刻に家を飛び出した。教室に寄っている暇もなくそのまま放送室に足を向ける。あたふたマイクの調整している途中、誰も訪れるはずのない放送室のドアが勢いよく開いて、まるで約束をしていたみたいな様子でけろりと謙也が顔を覗かせた。謙也とわたしは同じクラスの放送委員だったけれど、今日の当番はわたしひとりのはずだった。一ヶ月半ぶりに見る彼は、少しだけ以前とは違う空気を纏っているように感じた。背格好も、髪色も、白いシャツの夏服も、同じなのに。外見も内面も女の子にはないスピードで生まれ変わっていく。彼はわたしとは全く別の生きものだった。

「……どしたの。当番の日、間違えた?」

 おはようとか、久しぶりとか、最初に言うべきだった言葉はどうにも浮かんでこなかった。謙也が眉を下げて笑う。ふたりの距離がもっと近ければ、彼の手のひらはわたしの頭を軽く小突いていただろう。

「アホ、そこまでボケてへんわ。……ほら、東京土産。教室で配っててんけど、お前おらへんかったからさ」

 彼は手に持っていた小さな菓子包みをひょいと目線の高さまで持ち上げてから、放送室の長机に放ってあったわたしのかばんの上にそれを置いた。そうか、つい一週間前まで彼は遠くの大都会にいたんだ。マイクを動かしながらの片手間のありがとうと、予鈴の響きが重なり合って、わたしはあわてて放送ブースの重たい防音扉を閉じた。すう、と呼吸を整えてから、校内放送のスイッチを入れる。緊張でうわずった第一声は、とても自分の声とは思えなかった。

 ――みなさん、おはようございます。夏休みが明けて、今日は二学期の始業式です。予鈴が鳴ったので、すみやかに体育館に移動してください。繰り返します。今日は……

 呼びかけだけの短い放送を終えて、再び校内放送のスイッチを切る。防音扉を開けると、謙也はパイプ椅子に腰を掛け、わたしのかばんにくっついているキーホルダーを弄っていた。修学旅行のとき友達とおそろいで買ったご当地キーホルダーとか、誕生日にもらった編みぐるみとか。そのなかには、謙也がくれたチャームもひとつ混ざっている。くれたといってもペットボトルのお茶のオマケみたいなのだ。そのときはかわいくて集めていたけれどすぐに飽きてしまって、だけど彼がくれたものだけ今もかばんに揺れている。彼は覚えているだろうか。そうやっていつも、他愛無くわたしの心に引っかき傷をつくるけど。

「ひとの持ち物、勝手にじろじろ見ないでよ」

 立ったままかばんを引き寄せて、彼の不埒な手のひらからキーホルダーを遠ざける。携帯だけポケットに突っこんで体育館に向かおうと、ポーチやら財布やらをかきわけてかばんを漁っていると、謙也が椅子から立ち上がる気配がして、おもむろに伸びてきた手はわたしの髪を指に絡めるようにして撫でた。不自然に肩が跳ねる。遠慮なくこうして触れてくる彼の好意の作法に、慣れてないからじゃない。久しぶりだったからでもない。いつだって無頓着だった彼の眼が、周到に網をかけてわたしを捉えようとしているように見えたからだ。

「な、に」
、ちょっと見いひんうちに髪伸びたなあ」
「そっ……謙也だって、」
「俺? 俺はそない変わってへんやろ」

 変わったよ。口に出して数えられるような変化はないけれど、すごく、すごく、すごく、変わった。反論の声はむずがゆく喉に停滞したまま、彼の指がくるくると楽しそうにわたしの毛先を滑っていくのを黙って見ているしかない。一体彼の中にうずまくどんな感情がわたしに向かっているのだろう。分かっているつもりで確かめないでいたことが、いつの間にか難題にすりかわっている。答えあわせをしないまま、今もこの胸にある答えは正解を導きだせているのだろうか。

「……どうして謙也はこういうことするの」

 謙也の指の動きがぴたりと止まる。だけどそれはわたしが思い描いていた反応とは違っていた。こうやってはっきりと言葉を返せば彼は怯むだろうと思っていた。少なくともわたしの記憶の内に生きる彼であったら、頬を染めて俯くか、ぶっきらぼうに目を逸らすかしただろう。あのとき、ポカリスウェットに盛大に咽かえっていたように。記憶はひとつもあてにならない。今ここで、目の前で、こんなふうに試すように瞳をぶつけてくるのは、誰?

がしてほしそうやから」

 止まったままの指が首筋にかすかに触れ、動揺を悟られたくなくてぱっと目を伏せてしまった。それこそ動揺のあらわれだったろうに、ばかな恥じらいだと瞬時に身体じゅうが熱を帯びる。いつの間にか彼との距離は密になっていて、わたしは長机に浅く乗りあげながら、今にもかぶさろうとする彼の重みの予感に耐えなくてはならなかった。

「……何それ。謙也のくせに生意気」
「くせにってなんや。お前のほうが生意気やんけ」

 謙也の声がほんのりと笑っている。それは、こっちを向け、の合図のようだった。わたしが彼を見上げたのか、彼の指がわたしの顎を持ち上げたのか。想像したことなら、いくらでもある。擦りきれるほどにある。もしも彼とキスすることがあったなら、そのときはきっといっぱいいっぱいで、情けないくらいにふたりとも緊張して、ロマンチックなことなんてひとつもないんだろうと。だけど、そんなことなかった。なんの前触れもなく、なんの心の準備もしなくったって、わたしと彼の唇はなめらかに重なりあって、心地良くやさしく吸いつきあった。ようやくわたしたち、少しは「夫婦」の真似事をできたんじゃないだろうか。もうそんな冷やかし文句、どうでも良かったけれど。
 唇をゆるりと離すと、彼の重みがそのまま遠ざかっていってしまうような気がして、自然とその首に両腕が巻きついていた。もう一度、とせがむように上目で彼を見つめれば、半開きの唇はあっという間にまた塞がれてしまう。そんな分かりきった仕草を、わたしたちは何度か反芻した。夢中だった。得体の知れない唇どうしを必死に重ねながら、本鈴のチャイムが意味もなくただ頭上を流れ去っていくのを聞いていた。

「……ねえ、……ねえ、謙也」

 ふたりのわずかな隙間を縫うようにして声がうごめく。あなたのためだけの、声。ついさっき良い子ちゃんのふりをして発した余所行きの声が全校中に響いていたのだと思うと、あまりの落差に眩暈してしまいそうだった。

「わたしの下着、濡れてるかな」

 ここにはわたしと謙也しかいないのに、内緒話のように声を落としてしまうのはなぜだろう。夏服の薄いスカート。その下にひろがっているもの。それは突拍子もない間抜けな言葉だったけれど、謙也はあの日のことを思い出しているのか、それともまた真新しい新鮮な気持ちで耳を傾けていたのか、ちょっと吹きだすようにして頬をゆるませた。

「なんで俺に聞くん」
「だって自分じゃ分からない、から」
「……ほんま問題児やな、お前」

 そう言うあなただってもう、とても優等生とは言えないでしょう。呆れたようにわたしを叱りながら、しっかりとその両手はわたしをこんなぼろの机に押し倒そうとしているのだから。黄色いボールも緑のコートも、武器のように振るうラケットも何もない。あなたはあなたの夏をしっかりと閉じて、わたしを開きにここへやって来た。わたしの寂しさを埋めるためではなく、自分の哀しみと向きあうために。

 スカートの下に隠しているとっておきの宇宙をあなたに見せてあげる。だから、今だけはあなたを変えたひと夏のことはすべて忘れて、ふたりきりのびしょ濡れの季節をやり直そう。









THE END