丸井くんのくちのなかって甘ったるい。
 十四歳の夏、俺なんかのことを好きになってしまった彼女は、そんな一言で初めてのキスをうつくしく仕立ててくれた。夏の朝陽から逃げるように蔦に覆われた裏庭へ身をひそめて、ぼそぼそと渡り廊下のスピーカーから耳に届く教師たちの声を意識のすみに置きながら、ふたり、のぼせた呼吸をかわしあう。さわやかな午前八時に、寒くもないのに鳥肌がとまらない。それはまったく知りえなかったたぐいの興奮で、俺は目の前の彼女のことを、のことを、少し恨みさえした。こんなものを憶えてしまったら、もう後戻りなんてできない。そう思わせられるだけの新しい魔力を、彼女のくちびるは放っていた。

「朝礼、出てなかったね」

 遅刻常習犯の生徒たちに紛れて慌ただしい朝の教室にすべりこむと、ロッカーの前で、教科書をとりだすタイミングにさりげなく、幸村が俺に声をかけた。顔には出さないまでも、きっと内心とんでもなく浮かれていた自分には、その言葉はおそろしかった。それだって、顔にはけっして出すまいと踏みとどまったけれども。

「……ばれてた?」
「朝練いたのに、いなかったから。たぶん担任にはセーフかな」

 それだけ言って、幸村は自分の座席に戻っていった。胸にちくりと棘がさす、そのうしろめたさと、同じだけ感じてしまった、心地良さ。俺の不在に気づいた幸村は、みっつ離れたクラスにぞくしている自分の幼なじみもまた、朝礼の場に居なかったことに気づいただろうか。俺はあのとききっと、どうしようもない罪悪感と優越感とで胸をまだらに焦がしていただろうけど、どちらにしたってそれは、身勝手で、よこしまな想いだったはずだ。あの夏から、今まで、自分の感情のバランスをとるために、のことをちっとも利用しなかったなんて、ほんとうに言えるだろうか? 情けないことを考えては、手放して、ちぎっては、捨てる。あわれな花占いの結果は最初から決まっているものだ。俺はふたりを見るとき、いつも、鏡に映りこんでいるみたいに、自分の背後にもう片方の影を見ていた。肩越しに、ふたりが何かの拍子に見つめ合わないよう、たくさんの抜け駆けを誘いながら。

 少しの遅刻を詰られることなんかへっちゃらで、テスト期間の放課後を、勉強もせずに浪費したり、空き教室にしのびこんでは、そこに秘密を落として帰ったり。まじめなやつだと思っていたけど、は、思いがけず大胆な女だった。夏休みの真夜中に、俺を自室へ迎えるため、部屋の窓の鍵を開けてくれるくらいには。ネバーランドへ誘うおとぎの国の使者でもなんでもない、ただの盛りのついた中学生男子。早く大人にしてほしいとせがむ少女。夢見がちなファンタジーなんて、ふたりははなから願い下げだった。

「いらっしゃい、木登り上手なおサルさん」

 窓をあけて、Tシャツにショートパンツ姿のが、俺の熱い背中を抱きとめる。彼女の首筋に鼻をうずめ、シャンプーのにおいを感じながら、ふと闇に視線を向けた。数メートル先、静まり返った闇の向こうで、何かがうごめいていたような気がしたのだ。

「……幸村に、ばれたかも」
「精市? ……明かり消えてるけど」
「てか、マジでとなりなのな。表札みてびびったし」
「少女漫画みたいでしょ」

 俺の情欲をけしかけるような声色で、がうっすら笑う。少女漫画のヒロインは、幼なじみじゃない男を夜中に招くようなふまじめなやつにはつとまらないだろ。幼なじみでもない男に処女を捧げているようじゃ、ハッピーエンドもお呼びじゃない。サンダルをひさしの上に脱ぎ捨て、窓枠をひょいと跨ぎ、まとわりつく甘い重みを抱え上げる。ばれたかも、なんて言って、いっそばれてしまえば、と思っているのはどこのどいつだ。俺はきっと、すれすれのところで彼女とのことを隠しながら、あいつの口から、俺たちふたりのことを暴露されるのを待っていた。何も、あんなタイミングでその願いが叶うなんて、そんなことは望んでいなかったけれど。



 ――早期発見が幸いしたね。完治すれば、日常生活にはほとんど支障ないよ。

 十四歳の冬、残酷な宣告と、意地の悪い病魔が、ノックもせずに訪れた。俺たちに分かるような前触れなんて何もなく、熟した果物がぼとりと地面に落ちるように、何かの時が満ちたかのように自然に、幸村は倒れた。大人の迷惑なんて考えもせず、十人弱の大所帯で病棟に駆けつけてしまう、まったく子どもな俺たち。そんな子どもたちを安心させるように、愛想のいい医者が言い放ったその言葉は、まったくもって逆効果だった。俺たちが知りたいのは、俺たちが欲しかったのは、そんな一言ではなかったのだから。

「俺が幸村だったら、んなこと言われたら、死にたくなるな」

 医者がロビーの待合室からいなくなって、いちばん最初に声を発したのは俺だった。滅多なことを言うな、とすぐに真田の怒号が飛んでくる。ほんとうに、そのとおりだ。だけど、むきになって青筋を立てている真田も含め、そこにいた全員がきっと、同じように思ったに違いないのだ。日常生活? 俺たちの日常は、コートの上。たったひとつ、そこにしかない。支障がないというのなら、あの場所にあいつがひとり立っていられなくちゃ、意味がないのだ。

 冬休みに入ったばかりの、世間は浮かれた年末で、数日後の一大イベントのために街は電飾できらめいていた。こんな街の、恋人たちがつどうような公園の噴水の前にを呼びだして、俺からその知らせを彼女に伝えるのはひどく苦しい役目だった。彼女は泣くだろうと思った。だからこそ、メールや電話ではなく、会って話そうと思った。それなのに、彼女は泣かなかった。泣かなかったというより、泣くこともできないというふうだったけれど。その態度は、俺のことも、どういうわけか深く傷つけた。

「お前が死にそうなカオしてんなよ」

 大丈夫だから。絶対、絶対、あいつなら、大丈夫だから。いっそのこと暗示でもなんでもいいから、呪いだとしても構わないから、その言葉がに染みこめばいいと思った。冷たい手のひらを痺れるくらい強く、握りあう。雑踏のなかで、俺たちはとても孤独だった。自分はここで、彼女の手を握っていて、それはほんとうに正しいふたりの姿なのか。そんなどうしようもないことにずっと頭を回していた。

 神さま、罰当たりなのは俺だろう。天罰をくだす、その肝心の手もとが狂ってる。

 年が明けて、一月になっても、二月になっても、季節が変わろうとしていても。幸村にはいっこうに医者の言う「日常生活」とやらを送れる兆しがなかった。テニス部のやつらで当番を決めて、かわるがわる、幸村のもとへ見舞いの品や授業のノートを届けるのが、いつの間にか俺たちにとっての「日常」にはなってしまっていたけれど。ある日、真冬の結露しかけた窓の向こう、病院前のバス停にが並んでいるのが見えた。はっと気まずさにかられて、反射的に目を逸らす。逸らした先で、幸村が俺を待ち構えていた。つかまった、そんなふうに思ってしまった自分がひどく呪わしかった。

「なんでと一緒に来てやらないの?」
「……え?」
「入れ違いで来るぐらいならさ。付き合ってるんでしょ、夏から」

 幸村の口から伝え聞く、俺との、ふたりの関係。きっと幸村は、俺とが初めてキスをした日のことも、初めて夜を越えた日のことも、その正確な日づけすらも、知っているのではないか。それを暴露されることを、どこかで、後ろ暗い気持ちで望んでいたはずなのに、その告白にはなんにも気持ち良いことはなくて。ただ、惨めさだけがつのった。幸村がのことを話すときの声はいつも、優しい。優しくて、かなしくて、そして綿のように、息苦しかった。

「支えになってやってよ。俺が『大丈夫だよ』って何度言っても、言えば言うほど、あいつのこと心配させちゃうだけだから」

 同じ魔法は二度、効かない。同じ命のなかで、ふたつの呪文は生き延びられない。
 俺が先に、彼女に、「大丈夫」の呪いをかけたから。
 そんなロマンチックなのだか、残酷なのだか知れない想いが浮かんで、弾けた。喉もとまでのぼりつめた「ごめん」の一言をどうにかこうにか押しこめる。あれから、今まで、生まれる前に殺してしまった謝罪のかわりに俺は何度、に「大丈夫」の一言を産みつづけてきただろう。
 気が、遠くなりそうだ。



 十五歳の春がめぐってきて、俺とはまだ、同じ恋にしがみついている。もはや恋の只中にいるとは、きっと俺も、も思っていない。過ぎ去ってしまうのも切なくて、行かないで、まだいいでしょ、と帰り際を引き留めるようにして、そのはしっこを握りしめている。いちど手に入れたものを手放すのって、こんなに難しいんだな。引き際が肝心とは、よくいったものだ。さみしくて、愛着があって、簡単にはあきらめきれない。圧倒的なちからで、初めてくちびるを触れあわせたときのような魔力で、誰かがあいつをさらいでもしないかぎりは。

「もうテニス部終わったの?」

 頭のうえでがらっと窓が開いて、花壇の煉瓦に座っていた俺を上からのぞきこむようにがそこから顔を出した。バター、キャラメル、焼きあがる生地の香ばしさ。家庭科室は今日も俺をなぐさめるように幸福のにおいで満ちている。

「明日、練習試合あるからさ」
「そっか。いま片づけてるとこだから、少し待ってて」
「おー、」
「あ、そうだ」

 窓枠をつかんでいたの手のひらがふっと離れて、すぐにまた戻ってくる。どうせこれからふたりで同じ目的地に向かうのに、彼女は俺の機嫌がよくなると思って、すぐに餌付けをしたがるのだ。

「はい、これ。ブン太のぶん。焼きたてだから」

 家庭科室のなかがそのとき、いちだんと明るく華やいだのが分かる。はこの部のなかではささやかな憧れのまとなのだ。正門で待ちあわせよ、と言い残して、は窓を閉めてしまった。さよなら、幸福のにおい。手もとに残されたのは、何度食べたかわからない、これまた幸福を煮詰めたような味。美味しいのは分かっている。それでもこれはいつしか俺にとって、押しつけがましい、幸せのおすそわけになっていた。

「……よく俺と幸村に同じもん渡せるよな」

 幸村と同じものなんて要らないし、幸村だってきっと、俺と同じものなんて要らない。
 理不尽な苛立ちの制御が、だんだんと効かなくなっているということ。
 金の針金のねじりをほどいて、慣れ親しんだ味のマフィンをひとくち、かじる。ぼろっとそのひとかけが足もとに落ちて、さまよっていた蟻たちがしだいに黒く群がっていった。
 なぜだろう、それだってひとつの生き様なのに、今の俺にはとてもあさましく映って。
 打ち寄せる波のような衝動にかられて、半透明のラッピングを片手で握りつぶした。やわらかなものが、手のなかでぐしゃりと崩れて、かすかな温もりが薄い膜ごしにまとわりつく。

 まるで、きみのよう









THE END