" You are perfectly right. "




 エマージェンシー。自由落下。あの日、わたしの右手は何かとても非常なものをつかんでいた気がする。
 だけどそれが何だったのか思いだせない。そのかたちも、その温度も、その触り心地も。夢のように、目をつむるたび少しずつ、あの日の色素が薄くなっていく。あの日の世界がばらばらと四肢をもがれ解体されていく。思いだそうとすればするほど、すっかり脱色された記号たちが蠅のように脳裏をうるさく飛びまわるので、いつしかわたしはあの一日が在ったということを根っこから忘れたいとすら願うようになった。だけど、けっきょくは同じこと。思いだそうとすることと忘れようとすることはまったく同等の苦しみであると知った。抜け殻のような瞬間の記憶は今も、しぶとくわたしにまとわりついている。この右手のように、未練がましく。
 よみがえるのは、耳の底にこびりついた一発の銃声。



 衣を裂いたような子どもたちの叫び声と、不規則に飛び交う破裂音がどこからか聞こえてきて、混みあった参道のはしくれでわたしは足を止めた。わたしが足を止めると、半歩先で勇もまた立ち止まる。何しろ指先を恋人のように絡めあっているものだから。赤い浴衣の袖を揺らして、石畳の参道を逸れて歩いていく。すると、少し奥まった木陰に、オレンジのぼんぼりが三つ並んだあかるい店構えの露店があった。色とりどりの玩具がずらりと棚に並べてある。それは何の変哲もない、射的遊びの屋台であった。

「そこのかわいいお嬢ちゃんもやるかい。三発五百円だよ」

 折りたたみのイスに座っていためざとい店主に声をかけられ、わたしは戸惑って、勇を見上げた。その視線を受け継ぎ、勇が眉を動かす。彼はちょうど片手に持っていたチョコバナナを食べ終わったところで、景品を飾ってあるひな壇を一本の割り箸でさし示しながらわたしのかわりにわたしの望む返事をしてくれた。

「おっちゃん、ふたりで一緒に撃ってい? こいつ今、利き腕ちょい怪我してんだわ」

 気のいい店主がいいよいいよと言ったので、勇はジーンズのポケットから五百円玉を一枚取りだして渡した。はしゃぐ小学生たちにまじってカウンターに並ぶと、屋台の高さは勇の身長とちょうど同じぐらいしかなかったけれど、屋台の奥行きは思ったよりもあって、近づくほどに目当ての景品棚は遠く遠くに感じられた。

「どれにする?」
「じゃあ……あれがいい」

 勇の手を離し、直感で人差し指をさし向けたのは、いちばん奥まった回転台の、いちばん上の台座にぽつねんと座っていたうさぎのぬいぐるみだった。薄桃色の耳にははりがなく、前方に垂れかかっている。ちょうちんの真下にあって、なんだかとても陰気な子だ。わたしの指の先にあるその情けない人形を見て、勇はハッと息を吐いて笑った。彼はよくこういう乾いた魅力ある表情をする。そのたびわたしは、干上がった地面のひびに染みこむ雨のような心地で彼を好ましく思った。彼のひびに入ってゆけるの女の子がわたしだけだといい。そんな、誰に向けるともないわがままな気持ちになった。

「あんなんでいいのかよ。的でけーな」
「大きいほうが重くて落としにくいんだよ」
「へえ」

 興味のなさそうな返事をしながらもずいぶん手慣れた様子で、勇は近くにすて置かれていた空気銃に適当なコルク弾を選んで詰めた。わたしの背後にまわり、わたしに合わせて腰をかがめ、わたしの背中を覆うようにしてふたりで銃を構える。あつい。てあつい。身長差のせいでいつもはそうそう近くにない勇の整った顔が、わたしの耳もとにひたりと頰を寄せながら呼吸していて、なんだかこうしていると、わたしはまったく違うかたちをしたひと回りもふた回りも大きな生物に飲み込まれてしまったような塩梅だった。
 ――いくぞ。さーん。にー。いーち。

「どーん」

 気ゆるい掛け声とともに、勇の指がわたしの指ごと引き金を引く。彼の意思を移したみたいに指先がかすかに痺れる。タイミングも、弾の威力も飛距離も申し分ないように思えたけれど、なぜか弾はぬいぐるみに当たらず、奥の紅白の幕をむなしく揺らしただけだった。わたしのすぐとなりで、勇が目をまんまるくしているのが分かる。どうやら、かなり、意外な結果であったらしい。

「ありゃ、まじか」
「惜しいね」
「いや。ちょい貸して、

 もとよりほとんど彼の手のうちに握られていた空気銃だったけれど、彼は律儀にそう言い、引き金に絡んだままのわたしの指をひらいて引き剥がした。手のひらを宛がうようにあちこち銃の部位をさわったり、片目をつむって銃口をのぞきこんだり、そうこうしているうちに彼は何かに納得したようだ。わたしは銃ではなく、銃をいじる勇の長い指と冷めた横顔を見ていた。よそよそしいような、それでいて深くものを心得ているような、その手つきと顔つきを。

「はあ、なるほどね」

 独り言のようなつぶやきだった。二発目のコルク弾を詰めなおし、次はひとりで撃ってもいいか、と勇はわたしに尋ねた。少しびっくりしたけどもちろんとうなずく。お金を払ったのは彼だ。勇は、意外なことに一歩下がって、背筋を伸ばした姿勢で銃を構えた。カウンターに腹ばいになっている子どもたちさえいるのに、余裕をもってまっすぐ腕を伸ばし、右腕だけのちからで、彼は迷わず二度目の引き金を引いた。果たしてそれは、狙われたうさぎのぬいぐるみがかわいそうになるぐらい、的確な威力の、精密なヘッドショットだった。
 頼りないうさぎが後ろへよろめき、ふちから落ちていく。
 息を呑んだ。だけどそれは、まわりの子どもたちやその親たちのどよめきに掻き消されてしまった。ふたりの遊びだと思っていたのに、まさかこんなにギャラリーがいたなんて。おみごとおみごと、と呑気に言いながら店主が回転台から脱落したぬいぐるみを拾い上げる。今やその子の耳は完全にだらりと顔を覆っていた。どうも、はじめから長い耳にはじゅうぶんな綿が入っていないみたいだ。

「ずっりぃ商売だな。おっちゃんこれ、微妙に銃身曲げてあんだろ」
「うははは。こりゃまいった」
「笑ってごまかすんじゃねー」

 いかさまのコルク銃をたった二回の射撃で完璧に手懐けてしまった勇は、残ったもう一発で最新のゲームソフトをちゃっかり落とした。彼の右手指がとても器用に、とても繊細に、おもちゃのライフルを扱うのだということを知った日。
 わたしは久しぶりに、あのまとわりつく蝿の群れのような、煙のようにおぼろげにぼやけた瞬間のことを、夢に見た。



『……今月14日午後4時35分ごろ旧弓手町駅付近に発生した小規模ゲートについて、ボーダーは本日午後7時より会見を行った。この会見内でボーダーは、今回の警戒区域外におけるゲート発生について、ボーダー本部の座標誘導に大幅な誤差が生じたことに起因するものであるとの見解を示した。当該時間、本部オペレーションシステムに対する、何者かによる通信妨害の記録が確認されている。また、ボーダーは今後、警戒区域範囲を広げる可能性についても示唆した。今回のゲート発生により、今年度ネイバーに連れ去られたとみられる行方不明者は17名にのぼり……』



 あの夏の日に勇が撃ち落としたうさぎのぬいぐるみをくるりと後ろ向かせて、わたしは彼をわたしの部屋へと招きいれた。
 周到に両親の居ない日を選びぬいて、ふたり約束をした、晴れた晩秋の午後のことだった。わたしの母親も父親も勇のことをとても気に入っているし、ともすれば崇めてすらいるのだから、正攻法で彼がわたしの部屋に入ることもきっと容易かったに違いない。だけど、それではだめなのだ。ボーダーの優秀な正隊員として行儀良くふるまい、塞ぎがちな娘を気にかけて外に連れ出してくれる好青年として、わたしの両親に受け入れられている勇のままではだめなのだ。わたしが欲しているのはもっと不条理な彼だ。知りたいことがたくさんあった。たとえば縁日で手に入れたぬいぐるみの目にはとても見せられないような、子ども部屋ではけっして起こりえないようなことをしてのける、そんな、彼の剥きだしの気性について。

「今日の勇は、なんだか勇じゃないみたい」

 わたしのベッドは彼とふたりでつかうには小さすぎる。だけどそのぶん、初心者どうしが身を寄せあうにはうってつけの手狭さでもあった。勇はベッドのまんなかに腰をかけて、着古したラグランシャツの襟口に指を引っかけ、何度かあおいだ。熱を逃がしているわけではない。それはベッドに横たわる前の、ひとつの性的な仕草だった。からかうようなわたしの言葉に、一拍、彫りの深い目を伏せ、勇が十八歳とは思えぬけだるい笑みをこぼす。

「お前がいつも通りすぎる」
「だって自然なことだから」

 何もこわいことはなかった。むしろ奮い立つような気分であった。せっかくつながった視線を絶やさないまま、左手でひとつずつブラウスのボタンをはずしていく。片腕のわたしの脱衣を手伝うように、彼の大きな手が鎖骨から肌を這いながらすすみ、肩をつつんでするりと滑りのいい絹のブラウスを落とした。薄いキャミソール一枚でも、何も寒くはない。暑くもなくただ、触れあう体温をはかることだけに全身の細胞が研ぎ澄まされていた。彼のまなざしが揺れてしまう前に、自分から、右腕を統べるように彼の前にかざす。

「はずして」

 勇は答えず、うなずきもせず、ただわたしの言う通りにした。わたしを円滑な日常のなかに押しこめる装具を丁寧にとりはずして、彼は軽くなったわたしの腕をとりあげたまま、右手首の行き止まりに唇を押しつけた。いきなりのことで、目を見張る。わたしを挑発するみたいに見上げ、勇は口の端を持ち上げた。「自然なことだろ」と。
 自分の不具をつかってとてもいい思いをしている。そう感じてしまうわたしは不謹慎な人間なのかもしれない。
 濾過の実験のようなもどかしい速度で、わたしの内側にわたしではないものが落ち溜まっていく。その感覚をまとわりつく蠅のようにうっとうしいと思っていた。今日まで。だけどこれは違う。彼の薄いシャツにかたぶくように頬をくっつける。この服も、キャミソールも、きっと皮膚さえも邪魔になる。この場限り、すべてを脱ぎ捨ててしまいたい。一生。純粋な一滴一滴ではなく、不純物ばかりの洪水に飲まれ、そのまま溺れてしまいたい。

「お願い。はやく、勇の手でわたしをつくりかえて」

 勇はとても器用だった。器用で、精確で、わたしのもどかしさをよく解っているような手つきで、わたしを焦らしたり、逆に急かしたりして、この行為の奥へといざない続けた。息するつもりが声ばかり溢れる。肺の裏側まで敏感になっているような、やり場のない気持ちよさがけっして退いてはくれない。彼の手に撫でられながら、あの夏祭りの屋台の、彼の右手にあっという間にしっくりと馴染んだ小銃のことを思いだしている自分が可笑しいような、正しいような気がした。自分はあの錆びついた銀色の銃身と似たようなものだ。誰もうまく扱えない、わたしさえうまく付き合えない複雑なこの身を、彼だけがほどいてくれる。彼だけがわたしを、諦めないでいてくれる。

『……現在……東三門一丁目付近……ゲート発生中…………誤差……近隣のみなさま……ご注意ください……』

 どこからか、遠くのスピーカーをつうじてボーダーの放送する緊急警報が流れてきた。この街に生きている限り、どこに住んでいたとしても、この警報音はまったくめずらしいものではないだろう。もう、溶けてしまっている。すぐに忘れてしまう。そんなことよりもちろん、ここでこうして勇と肌を重ねていることのほうが、よほど途方もない有事であるに違いない。エマージェンシー。自由落下。わたしの右手は今こそ、何かとても非常なものをつかんでしまっている。
 勇のほうが動揺するかと思っていた。彼のからだの下で目くばせをすると、勇は少し尖ったまなざしを返して、わたしを自分の骨のなかへうずめた。きつく、きつく。

「集中しろ、俺に。俺とこうしてるってことに」

 そうだった。彼はいま、この街を守る、優秀な戦士のひとりではないのだった。わたしはうなずくかわりに、脚を投げだして、聞き分けよく二時の角度に膝がしらをひらいた。左の足先で何かやわらかいものを蹴とばしてしまった気がする。きっとあの据わりの悪いうさぎだ。やっぱりこのベッドはふたりでつかうには小さすぎる。ごめんね。でも、わたしたちを見ないで。

「して、る」

 今日もまた、どこかで誰かが死ぬかもしれないし、どこかで誰かが攫われてしまうかもしれない。かすかに滲みそうになった不安のような、後ろ暗い夢想のようなものを絶ち切って、勇の手ほどきにだけ没頭してゆく。この両腕のすべてでもって愛するひとの背骨を軋ませることができたら。十本の確かな指で、その大きな背中に爪痕のしるしをつけることができたら。そういう美しい妄想には、行為そのものとはまったく違う、同等の重みと価値があった。目をつむると今でもかすかに、行方知れずのはずの指先がよみがえってくるような感覚がある。彼の喉仏がゆるやかに動いているところを、彼の前髪が降りて汗の浮いたひたいを覆っているところを、その眉毛のかたちづくる感情を、ずっと見ていたかった。だけど今は、惜しんで目を閉じる。頭のてっぺんから足先、指の爪のすみずみまでつかって、勇のからだを経験するために。

「いま、世界が滅亡しても、わたしたちきっと気づかない」

 一発の銃声。一閃の光。
 目をつむったはずなのに、まばたくと、目の前に顔のない男の子がひとり立っていた。ぞっとするほどゆったりと、彼がバランスを崩して後ろへかたむいていく。その先には何かおぞましい、黒い穴が口を開けていた。行かないで。行ってしまうのなら、いっそ。わたしはとっさに右手を伸ばした。無重力のように、からだが一瞬だけ軽くなる。
 そして、どこまでも落ちていった。



 白いまばゆさを感じて目をひらく。それは長い長い、旅の終わりのような目覚めだった。見慣れない白い天井を遮るように、誰かがわたしを見下ろしている。その男の子はさまようわたしの視線をとらえると、目をまるくして「お」と声を洩らした。思わず、夢のなかで階段を踏みはずしたときのように瞬時にぎょっとしてしまう。起きたら、知らない場所にいて、見ず知らずの男の子が自分をのぞきこんでいるのだ。わたしに自由がきくような体力があれば、悲鳴をあげていたかもしれない。

「ねつきさーん、おかあさーん、起きましたよ」

 彼が呼ぶと、視界のはしから憔悴しきった様子の母親と、背広を着た男のひとが慌ただしく現れた。どうやらここは病室のような場所であるらしい。何せ、具合がわるい。意識があるのに頭のどこかしらがぼんやりしているし、からだに至ってはまともに動かせない。
 お母さんはわたしの肩を一度きつく抱きしめると、一歩下がり、ハンカチで目頭を押さえて泣いた。ずい、と今度は背広の男のひとが前に出てくる。神妙な表情をしていたが、目つきは冷たかった。しごく冷静である、という意味で。

「当真」
「はいはい」

 その男のひとに呼ばれ、ふたたび、目覚めたわたしを迎えてくれた男の子が窓際から顔を出した。彼はわたしと同じ年か、少し上ぐらいに見える。ハイネックの、黒と赤のバイカラーのジャージを着ていて、見慣れないデザインではあったけれど、そういう服装をした人間がこの街でなんと呼ばれているかは知っていた。常識だった。

「おはよーさん。俺が誰だかわかるか」

 少し顔を近づけて、彼は朗らかにわたしに尋ねた。目の奥のほうで見つめあう数秒。わたしが考えていたのは彼の問いの答えではなくて、彼がわたしにそう問いかけた意味についてだった。

「……ボーダーのひと」
「うん。あれ、覚えてねーの?」
「……え?」
「俺のこと。俺ら昨日、会っただろ」

 なんとも言えず押し黙るしかない。彼のことどころかわたしは、昨日のことを何ひとつ思いだせないような気がしたのだ。困ってしまって、しばらくしてから、動かない頭をかすかに横に揺らして答える。すると彼はベッドを挟んで廊下側に立っていた背広の男のひとに向かって、目でなんらかの合図を送った。
 目くばせを受けた背広の男はうなずき、うなだれるわたしの母親を連れて、ベッドから少し離れていった。離れたといっても狭い個室で、ふたりの会話は筒抜けであったけれど、わたしにはそのすべてを聞き洩らさないでいられるほどの元気はなかった。

「ああ、どうぞお母さまこちらへ……どうやら、お嬢さまは事件の記憶が曖昧なようです。……いえ、まだなんとも言えませんが、新手のネイバーの攻撃というより、精神的なショックに因るものだと思われます。無理もありません、警戒区域外でこのような……うちの当真が駆けつけていなければ今ごろ……ええ、もちろん治療費等については必ず……」

 大人たちが何ごとかを話しこんでいるあいだ、わたしに問いを投げかけた男の子はベッドサイドの椅子に座り、ベッドに頬杖をつきながらわたしを見つめていた。ただ横になっているだけの動きのない、不自由なわたしに、妙に興味深そうな目をとうとうと向けて。

「……あなた、だれですか」
「だあれだろ」

 わたしの不躾な問いかけに、ふ、と彼は薄く笑って、それから立ち上がった。ためらいを含んだ手が、白いふとんの上からわたしの手にさわる。撫でるように、それから、いたわるように。すっと彼の眼から笑みのなごりが消えうせ、まじめな面持ちで、彼はわたしの右手に視線を落とした。

「ごめんな、助けてやれなくて」

 そらから数日経って、わたしはやっと、自分の置かれている状況について理解した。
 わたしは学校の帰り道にネイバーに攫われそうになり、間一髪のところで防衛任務中のボーダー隊員に助けられたのだった。わたしを救った隊員は、当真勇という名の、目覚めたわたしのそばにいた、わたしと同じ年の男の子だった。彼は警戒区域外であったその現場に誰よりもはやく駆けつけ、ネイバーをたったひとりで撃墜したのだという。わたしの両親は組織の不手際を恨みこそすれ、彼のことはむしろ娘の命の恩人だといって感謝してやまなかった。彼自身のひとりの青年としての魅力のせいでもあったかもしれない。――連れ去られたのがもし、あなただったら。それが母親の口癖だった。
 わたしはあの日、あのとき、ひとりではなかった。
 だけど誰と居たのかを思いだせない。まわりはみんな、友だちも、家族も、テレビも、新聞も、ボーダーのひとも、口々に教えてくれる。彼が数ヵ月前わたしの通う高校に転校してきた生徒であり、わたしのとなりの席に座っていた、クラスメイトであったと。いくらそう言われても、名前を伝えられても、どんなひとであったか詳しく聞かされても、何もぴんとこないのだ。意味をもたないでたらめの暗号のように、彼にまつわることのすべてが頭のなかを飛びまわる。まるでうっとうしい、羽虫のように。
 ――あなたは一体、だれですか。



『――現在ボーダーでは連れ去られた人間の奪還計画を進めている。すでに、無人機でのネイバー世界への渡航、往還試験は成功した。…………この奪還計画は今回攫われた32人だけでなく、第一次侵攻で行方不明になった400人以上の市民も対象になる。……』

 会見から三日経っても、世間はこの話題で持ちきりだった。連日連夜、どのテレビ局のニュースでもワイドショーでも、切り取られた会見の映像が垂れ流されている。
 勇がアパートを借りたというので、わたしは母親と一緒に焼いた引っ越し祝いのクッキーをもって、真新しい彼の部屋を訪れた。三月の高校卒業を待たず、勇はすでに自立して一人暮らしを始めていた。彼がふだんどんな仕事をしているのか知れないが、危険の伴う仕事なのだから、きっと普通の高校生がバイトでもらうような額とは比べものにならない手当と給料をもらっているのだろう。彼の借りたこざっぱりした1DKに足を踏み入れ、そんなことを思った。
 そういえばこの部屋は、わたしを連れ去ろうとしたゲートがひらいた旧弓手町の駅に、ほど近い。

「これって、わたしの右手も対象になるのかな」

 40インチの薄型テレビの前にへたりこんだまま、わたしはソファに座っていた勇を振り返った。冗談のつもりが、勇は笑ってくれなかったし、気の利いたことも返してくれなかった。そのかわり、リモコンを手にとってテレビのチャンネルを変えた。ひと昔前の連続ドラマの再放送をやっている、真冬の午後四時半。

「お前の右手は俺が必ず探しだす」

 そう言って、勇は身を乗りだし、ローテーブルの上のタッパーからシナモンのクッキーを一枚つまみあげた。この部屋の家具といえばソファとテーブルとテレビだけ。たぶん、となりの部屋に大きなベッドがひとつある。そしてこれもたぶんだけれど、わたしは今日、そのベッドで勇と寝る。もう実家のベッドで窮屈な思いをすることはない。うさぎのぬいぐるみも目隠しされずに済むだろう。恋人のベッドで、誰に気兼ねすることもなく、好きなときに眠りにつけること。大人になるということはそういうことだと思った。
 誓いを立てるように大仰に言われても、冗談なのか、本気なのか、それこそ分からない。一年前の真冬、わたしから離れていった聞かぬ気の右の手。ときどき、かすかに感覚を取り戻すことのできる見えない手。わたしの主治医は、そういうものだと言うけど、わたしは、そういうものではないと思っている。なんの根拠もないことだけれど。
 
「どうして全部、忘れちゃったんだろう」

 わたしたち、一体どんなふうに出会ったのか。勇は時々、本部に詰めるだとか、県外任務に赴くだとか言って、ふっと何週間も姿を消し、連絡さえつかなくなることがある。そんなとき、彼はどこに居るのか、どこで何をしているのか、わたしは三日前の会見を聞いて、はっきりと悟ってしまった。彼がときおり、この世界から居なくなるのだということを。
 毛の長いカーペットの心地よさから離れ、勇のとなりに腰かける。テレビのなかでちょうど見ず知らずの恋人たちが寄り添い歩いていたので、わたしもなんとなく、彼の肩に頭をあずけた。

「勇はあの日、わたしと一緒にいた男の子の顔を、覚えてる?」

 これを彼に尋ねるのはずいぶんと久しぶりのことだった。一年前、わたしが目を覚ました病室で、彼は「ごめんな」とつぶやいた。ひとりの勇敢な戦士としての、やるせない負い目のようなものを彼から感じたのは、あのとき、あれが最初で最後だった。生きていると割り切れないことはたくさんあるのだけど、勇はあまりそういう、中途半端なそぶりを見せたがらない。勇はきっと、生きることは無償ではないと、心から知っているのだ。向こうの世界に、行ったことのあるひとだから。

「……何度も言ってんだろ。俺が着いたときにはもう、そいつはネイバーに飲まれてたって」

 そして、この答えもまた久しぶりのことだ。彼の報告はつねにそれに尽きている。わたしは勇と向き合うように、彼の膝に乗り上げた。勇がわたしを見下ろしている。その鋭いまなざしは、とてもじゃれつく恋人を見るような目ではなかった。

「じゃあ……勇は、あの子のことも探してくれる? 遠征のメンバーに選ばれて、それで……」
「顔のないやつをどうやって探せってんだよ」

 勇がめずらしく少し声を荒げる。顔がない、という表現のなかにも、いかにも勇の苛立ちがこめられているように感じられた。そうだ、勇は、けっしてなんでもできる、なんでもしてくれるスーパーマンではないのだ。彼が生きていることにも、戦いに出ることにも、必要経費があり、無償ではなく、そのリスクもリターンも彼自身が納得して選びとる権利がある。たったそれだけのことだ。分かっているけど、分かっているのに、割り切れない。わたしと勇はあべこべだ。あの日、失われたものたちについて、正しい犠牲であったと考えているものが、まるで違うのだ。

「それなら、わたしの右手だって顔がない」

 うなだれながら小さくつぶやくと、何言ってんだよ、と勇はわたしの頭をぽんと撫で、胸にわたしを押しつけるようにして閉じこめた。違う。勇こそ、何言ってるの。わたしは、右手を失くしたわけじゃない。あの日、右手がわたしを捨てて行ったのだ。さよならも言わずに駆けていった。さみしいことだけど、悲しいことではない。それだけ価値のある何かをつかんでいたということだ。
 わたしの右手は、向こうの世界できっとうまくやっている。勇が見捨てた、顔のない男の子と一緒に。









THE END

2018.6
(原作10巻から記者会見のセリフを引用しました)