八月三十日の夜は、雨上がりの耐え難い湿気を溜めこんだ、蒸し暑い晩夏の宵だった。
 米屋はその日、大詰めだったB級上位ランク戦の解説を出水とともに任されていた。その仕事のあと、他人の戦闘を見てしまってはからだを動かさずには居られなくなり、太刀川隊の作戦室に用事のあった出水といったん別れて、模擬戦のブースに数時間ほど入り浸った。なんといっても槍を振り回すこと以上に楽しい遊びが、この夏にはなかったのだから。最後の一戦は合流した出水とのサシの十本勝負になった。二人とも、互いに手のうちを知り尽くし、裏をかく難しさは尋常ではない。だがそれが何より心地いい。読んでようと対応しきれない速さで、相手の首をとったとき。読んでようと防ぎきれない威力で、相手に頭を吹っ飛ばされたとき。生きているという心地がする。おかしなはなしだ。この冷凍睡眠しているかのような、燃費のよすぎる仮想体で。

「河合たちがいま梅見屋橋のボックスでカラオケしてるらしい。仕事片づいたら来てーってさ。お前どうする?」

 模擬戦ブースを引き上げて、ボーダー本部の食堂で、二人は遅い夕食をとった。食事中にもテーブルにスマートフォンを出していた出水が、クラスメイトからの誘いに気がついて箸を置く。おそらく、よくつるむ男女十人ほどでつくっているグループチャットに新着メッセージが届いたのだろう。夏休み中も二三回、その仲間たちと会って遊んだ。楽しくないわけではないが、夏の終わりのだるい生身を引きずって梅見屋橋まで行くのは気乗りしなかった。それにもう、時刻は二十二時をとっくに回っている。

「マジか、今から? てことはオールか~ちょいきつくね」
「……お、もいんじゃん。めずらし」
「は」

 出水がぼそりとその名前を言うがはやいか、米屋は向かいの席から彼のスマートフォンをひったくるように奪っていた。出水がひらいていたのはやはり、グループチャットの画面で、そこにはメッセージと一緒に一枚の写真が送られていた。目を凝らす。カラオケの薄暗がりの部屋に、確かに、五六人のクラスメイトとともにが居た。球技大会での、あの二人きりの会話が脳裏によみがえる。あれからもう、ひとつの季節が終わるだけの時間が経ったのか。何か、むなしい。けれど、あの日ぶりに彼女のほほ笑みが自分に向けられて、胸が疼かないはずがなかった。もちろんその笑顔は、カメラレンズに照準を合わせただけのものに過ぎなかったのだが。
 しばらく呆けたように集合写真と睨めっこしていると、痺れをきらした出水が「自分の見ろや」と言って、スマートフォンを奪い返した。だいぶ物欲しげな本性が顔に表れてしまっていたのだろう。出水は、そんな米屋の表情を見て小憎たらしい笑みをふっとこぼした。

「しょうがねえなー、哀れな槍バカのために付き添ってやるか」

 友情なんだか、ただの興味本位なのだか、今日は十本勝負で勝ち逃げした男の余裕だろうか。そのすべてが入り混じっているから、彼は悪友と呼ぶに値する存在なのだろう。
 食事を済ませると二人は終電がなくなる前にボーダー本部を出た。夜風が湿っぽく、肌に纏わりつく。夏が終わるような気配は、じりじりとうるさい虫の声ぐらいで、小走りに夜道を急ぐとリュックをしょいこんだ背中はすぐに汗ばんだ。
 二十三時を少し過ぎて、ようやく梅見屋橋のカラオケボックスに到着すると、もうだいぶ出来上がった場の空気が騒々しく彼らを迎え入れた。しゃらしゃらと流行りの曲の伴奏が大音量で鳴り響いている。夏休み最後の、羽目をはずしたどんちゃん騒ぎだった。

「おー、ボーダー組おっそいぞー」
「元気だったかーい」
「バカ峰は補習で会ったばっかだろ」

 テンションたけーなおい、と出水がいつものいたずらっぽい軽口でからんでくるクラスメイトをいなしている横で、米屋も似たような挨拶を振りまきつつ、ソファの端っこに座っていたとだけまともに目を合わせた。
 目が合ったちょうどのタイミングで、とん、と出水にさりげなく、されど突き倒すように背中を押される。米屋はの座っている側のソファの前によろめいた。が米屋を見上げて、慌ててひとりぶん、彼のために右側に席をつめる。それだけでも、たいしたご褒美だと思った。なんのだろう。しいて言えば、三門から一歩も出ることなく、一途に過ごした味気のない夏の報い。最後ぐらい、そういう美味しい一日があってもいい。

、……えーと、こっち帰ってたんだな。久しぶりじゃん」

 対面のソファに腰を下ろそうとしていた出水が、米屋にだけ分かる目くばせをしてにやりと笑った。なに言葉に詰まってんだよ、というからかいだろう。は、髪の毛をゆるくひとつにまとめ、ゆったりとしたTシャツのワンピースと履き潰したスニーカーという、ラフな格好をしていた。スリッパのようなスニーカーを置き去りにして、がソファの上に体育座りのように脚を引き上げる。そして、自分の膝にぺたりと頬をくっつけて米屋を見上げた。眠いのか目がかすかに潤んでいる。

「うん、昨日。米屋くん、すこし大人っぽくなったみたい」
「え、マジ?」
「マジ。お仕事お疲れさま」

 席について早々、疲れもだるさもふっとぶような一言だった。何も、それ以上の意味なんてなくとも、それだけの意味でじゅうぶんに胸を掌握される。何か気のきいた返しをしなくてはと思っても、彼女をそやす言葉のひとつも思い浮かばないくらいには。
 人工的な仄暗い照明の下で、彼女はやわらかな月の光のように白かった。まるで灼熱の季節など彼女の肌を通過しなかったかのように。彼女だけずっと長いこと、夜の中にいたかのように。

「ばーちゃんち、どうだった?」

 ぶあついドリンクメニューを譲り受けながら、なにげない世間話を装って尋ねた。スニーカーソックスの薄くなったところを指先でいじめながら、もまた、なにげなくその問いに答えてくれる。

「退屈だった。みんなに会いたかったな。だから今日、米屋くんが来てくれてすごくうれしい」

 そう言って、はふやけたフライドポテトの先をケチャップにつけながら、照れくさそうに笑った。そんなことを言われたらこっちがうれしくて死にそうだと思ったが、結局また、彼女は自分のことについては何も話しはしなかった。
 それから数時間、市電の始発が動きだす明け方までカラオケ大会は夜通し続いた。ソフトドリンクとジャンクフードだけで、彼らはどこまでも淀みなくよく歌い、よく笑う。米屋は久しぶりに生身のからだでくたくたになるまで遊んだ気がした。喉も枯れて、目も渇いて、寝不足の重たい頭を抱えこみ、四肢の関節も痛い。だけどそれが心地よかった。仮想戦闘とはまた違う、生きている実感が湧いた。
 八月三十一日の朝陽がのぼり、ハリネズミの針のように四方にするどく眩さが拡散している閑散とした道を謳歌しながら、それぞれの帰路につく。歩いて帰る者、自転車置き場に向かう者、始発を待つ者、コンビニに寄る者。みなふわふわとした足どりで、バイバイ、また新学期、と言いながら少しずつ散ってゆく。米屋が缶コーヒーを買ってコンビニから出ると、が駐車スペースの車止めにしゃがみこんでぼうっとしていた。眠気を隠せないでいる彼女はいつもより幼く見える。かわいいけれど、少し危なっかしくもあった。

って、麓台町のほうだよな? バスまだ少ねえし、電車で帰ったほうがいいんじゃね」

 後ろから声をかける。彼女の白いワンピースの皺に、いくえにも朝の光が織り込まれている。ちょうどコンビニの奥の鉄橋を、五両編成の電車がゆるりと通り過ぎていった。ねぼすけの彼女を最寄り駅まで送るにしても、あれには間に合わないな。そう思いながら、米屋はブラックコーヒーをひと口飲んだ。

「米屋くん」
「ん?」
「……もう、帰っちゃう?」

 八月、最後の日。まだ街が眠っている午前五時。
 スカートの裾をはたいて、は立ち上がる。柄にもなく遠慮げで、自信なさそうに俯いた、のほつれた髪の毛を風がさらっていく。それはきっと、立ち入り禁止区域の鉄線の向こうから、彼女が初めてこちらに向かって手を差しだした瞬間だった。
 ――ほんの少しでもいい、オレを呼んでくれれば、手を招いてくれれば、こんな鉄線など引きちぎってでもそこまで飛んでゆくのに。
 夏は今日で終わってしまう。だけどまだもう少し、のろまな二人のことを待ってくれるようだった。



「着くまで時間あるし、少し寝ろよ。オレ、起きてるから」

 三門には海がない。海を見たければ、市電の三門駅からJRに乗り換えて県境を跨がなくてはならない。遠くもないが近くもないという距離に、それは静かに揺れている。ボーダーに入隊してから、三門市を出るときはいつもそれなりの注意を払っていた米屋にとって、「海に連れてって」というのおねだりは意表を突いた難題で、ためらう気持ちがないわけでもなかった。だけど今は、すすんでわがままを引き受けよう。せっかく彼女のほうから、自分を呼んでくれたのだから。
 海へと向かうクロスシートの車両には、二人以外の乗客は見渡すかぎり乗っていなかった。適当なところにとなりあって腰をおろし、に声をかけると、彼女は申し訳なさそうな顔をして米屋を見上げた。青い眼が寝不足で充血している。なんだか、痛々しい。

「でも、……」
「大丈夫だって、オールで逆に目ぇ覚めてっし。、最後のほううとうとしてたろ?」

 彼女のとなりに座って、あれから何度か自然なかたちで席を移動することになったが、どこに座っていても米屋は彼女のことを目で追ってしまっていた。明け方に、ソファの背をまくら代わりに目を閉じたり、ひらいたりしていた彼女のすがたが思いだされる。動きだした列車の窓、見慣れた景色が後ろに逃げていく。はしばらくそれを眺めてから、通路側に座っていた米屋に視線をもどした。

「米屋くん優しいね」

 ――なんでそういうこと言うかな。
 それだけ言うと、はかたかたと小刻みに震える窓ガラスに頭を預けて、目を閉じた。恋愛ドラマのワンシーンのように、その小さな頭を肩に預けて欲しいけれど、そんなことを自分から言うわけにもいかないし、まして我がもののようにその肩にさわるわけにもいかない。こんなに近くに居るのに、そういえば、米屋は今まで指一本もに触れたことはなかった。さりげなく腕を支えたことも、たわむれに手をつかんだことも、頭を撫でたこともない。ほかの女友達には平気でしていることを、彼女にはできない。なぜならはいつもまっすぐ、何も欲せず、何にも依りかからず立っていたから。だから米屋は、彼女がどんな心地のする生きものなのかまるで知らない。に誘われ、海への数十分をともにしている今も、触れるという一線は彼にとって、遠く揺れるまぼろしの水平線のようだった。

 潮の匂いのただよう駅に着くと、小さな改札を出てすぐ、坂の下に海の青が見えた。少し歩こう、と言ったにしたがって歩いていく。海風がたえず吹いていて、半袖のワンピースでは肌寒かったのか、慈雨は手さげのなかから薄手のストールをとりだして羽織るようにからだに巻きつけた。透け感のある白いコットンのストールが風を受け、波のように、羽根のようにひろがる。それを面白がりながら、は防波堤の上をたどたどしく歩いた。

「そうだ。前にね、夏休み前の古文の授業で……そう、米屋くんが、かぐや姫のはなしをしてくれたとき。あの日、米屋くんに言ったことなんだけど」

 の後ろを少し離れ、彼女のおぼつかない足どりを見守るように彼女と同じ速度で米屋は歩いた。おだやかな波の音にの声が心地よく覆いかぶさる。防波堤から誰もいない砂浜を見下ろしながら、米屋は彼女のはなしを聞いていた。

「バカは街壊すのと一緒だ、ってやつか?」
「……そんなふうには言ってないと思う」
「覚えてるよ。わりと衝撃だったからな、あれは」

 大げさだなあ、と海を眺めるの横顔がくすくすと笑う。まったく大げさではない。舐めるな。心のなかでだけ、呑気な彼女にそんな反論の言葉をかえしてみる。やがて、数メートル先で立ち止まり、はおどけたようにぱっと細い腕をひろげた。やわらかにはためくストールが、今は彼女の翼になる。

「でも、何十億年も経ったらぜーんぶ、なくなっちゃうんだよ。忘れないようにしてても、壊さないようにしてても」

 は振り向いて、朝の海を見つめていたふたつの瞳を、すっと米屋に差し向けた。今日の彼女の青は、海の青だ。同じ色を反射して、遠く大らかにたゆたう水がその入り江に満ちている。
 何十億年先の世界には、いや、何十億年先にはきっと世界すらない。だから当然、『竹取物語』を品詞分解したことも、ネイバーから街を守ったことも、すべてが消えてしまう。なかったことになってしまう。SFじみたはなしで米屋にはいまいちぴんとこなかったが、が何か熱っぽいものを湛えて自分を見つめていることが分かったので、茶々はいれずに黙って聞いていた。彼女のうそぶく何十億年先の未来について、今、このときの二人を手に入れるために。

「そう思ったら、今日はもう少し米屋くんと一緒にいたくなっちゃった」

 それはにわかにはよく分からない理屈だった。だけど、そんなことはたいした問題ではなかった。一緒にいたい。オレと一緒にいたいと、彼女は言った。のその言葉だけが米屋にとって、とっておきだった。
 米屋には何十億という時間の幅と永遠の違いが分からなかった。永遠と一生の違いさえ分からなかった。分かろうとしてこなかった。そんなものたちに区別をつける意味も必要もありえなかったから。手に負えない途方もない時間を、何かを諦める理由にするのはいやだ。だったら、その手に負えない時間すら追い風にして、飛び越えてみたい。二人の海を見ている、今この瞬間がそうであるように。

、好きだ」

 その言葉をきっかけに、今すぐその細いからだを抱きしめたいとか、気まぐれなその腕をつかまえて、手を握りたいとか、顔に触れ、肌の温度やくちびるの乾いた感触を確かめてみたいとか、そう思うだけでも心臓がねじ切れそうだとか、色々な欲望がこぼれてきて、それでも、すべてを振り払って、米屋は続けた。

のことを知りたい。忘れたくないし、壊したくない」

 一生。永遠。 何十億年先まで。どれもしっくりこない。ただ、たった今のすべて。控えめで、せいいっぱい大それたこと。潮風のなか、寝不足のかすんだ目には、の纏うストールが彼女の存在をおぼろげに覆い尽くす、かげろうのように映る。帰ってくるよな? そう、に思わず尋ねてしまったときと同じような感慨が胸をつつんで、米屋は一歩、彼女に近づこうとした。だけど今、二人の距離をなくすために必要だったのは地を蹴る一歩ではない。地を離れる一歩。それがどうしても、踏みだせない。

「わたしも米屋くんのこと――」

 哀しげに眉をゆがめて呟かれたの言葉の端を、どうしてか米屋の耳は聞き落とした。彼女のひろげた羽根がはばたいている。いつもひとりで、よるべなく、依りかからず、まっすぐ立っていられる人間なんて、ほんとうに居るだろうか。けっして無暗には引き下ろすことのできなかった彼女の高潔さが、しだいに明るくなってゆく地上の朝にまみれて、昏く静かに翳ってゆく。
 同じ地平にはないものを愛してしまった。それが二人のさかいめだった。



 夏が閉じて、新学期が始まっても、は学校に戻ってこなかった。そしてついに一週間が過ぎたころ、米屋は二年B組の生徒のひとりとして、が転校してしまったことを担任教師から告げられた。家庭の事情で、彼女は遠くの祖母の家に引き取られることになったのだという。一言ぐらいあってもよかったのにね、さみしいな、何があったんだろう、と朝のHRの終わりにクラスメイトたちが口々に不平と疑問を洩らすのを、米屋は自分でも驚くほど自然に受け流すことができた。さよならの代わりならあの一日がすべてで、じゅうぶんだったからだ。

「あんまへこんでなくね? お前」

 昼休みの晴れた屋上で、惣菜パンを頬張る出水にそんなことを問われる。午後二時からは二人とも別動隊での防衛任務が控えていた。今日も今日とて忙しい。そのぶん古典文法はやっぱり忘れてしまうし、廃れた街をやむをえず壊すこともあるかもしれないが、とにかく、それでもこうして生きている。

「何が」
「何がって……のこと。だーいぶとご執心ってやつだったろ」

 耳慣れない言い回しをした出水にふと視線を遣ってから、米屋はパックのコーヒー牛乳をすすった。あいまいな生ぬるさと甘さがみぞおちに落ちていく。いつもそばにあり続ける、ほっとする日常の味がした。

「……まーあ、オレにはもったいなかったな、は」
「はあ、なに殊勝なこと言ってんだ。似合わねー」
「だな」
 
 けらけらとひとの失恋をたやすく笑い飛ばす悪友の軽薄さに救われて、米屋もまたへらりと笑いかえし、彼の言葉に相槌を打った。割り切れない思いを押しやって、なんだか今は笑うしかない。
 空を見上げると、今日はまだうっすらと月の白い影が残っていた。昼の太陽、夜の月。それは正しい。だけど、ものごとはいつもそこまで、はっきりとはしていない。そのことにあと少しだけ早く、少しだけ柔軟に気づくことができたら、あの日の一歩はに届いていただろうか。そんなふうに考えることを今はやめられないでいる。後悔とは違う、ありえたかもしれない永遠のはなしだ。









THE END

2018.6