※このお話は『世にも奇妙な物語』「僕は旅をする」のパロディです(近親相姦・死ネタ)




 ばらばらになってしまった物言わぬ白いからだはまるで、アタッカーのトリガーで四肢を切断され、活動限界を迎えたトリオン体のようだった。絶句するおれたちをよそに、警察は冷淡な顔つきを崩さず、検視台をすぐさまブルーシートで覆い隠した。そして、今度はそのすきまから、無機質な腕の一部だけを取りだしてみせた。手首に嵌められた愛用のブレスレットを、おれたちに確認させるために。とうとう取り乱し、泣き叫ぶ母さんたちの声が遠のいていく。ここは仮想空間で、生身のからだで目を覚ませばきっと……。そんな、つよい非現実感が忽然とおれを襲った。
 だって、貨物列車に轢かれたというは、その美しい顔を失っていたのだから。



 いつからにそういう気持ちを抱いていたのか、おれにはよく分からない。おれには二人の姉がいて、上の姉さんはおれが小学生のころには大学に入って、ひとり暮らしを始めたから、甘やかしてもらった記憶はたっぷりあっても、生活をともにしていたという思い出はあまりない。おれの暮らしのとなりに居た姉はいつでも、ふたつ年の離れた、のほうだった。
 漢字の読み書きや、四則演算のように、子どもが机に縛りつけられ、恋について教わることはない。それは、恋が正解のない難問だからだ、と少女漫画のような含みをもたせてもいいのかもしれないが、おれにはそうは思えない。恋を教えないのは、この世界が、恋を自然なことだと思っているからだ。自然なこと。ふつうのこと。教える必要も、ないぐらいに。だけど、そう思っているやつほどきっと、血のつながった姉と恋に落ちてしまう可能性を、まじめには考えない。おれの心をくりぬく恋のかたちを、不自然なものだと言いたいのなら、恋は自然な感情だなどと、ほらを吹くのはやめてほしい。おれは少しも、を思い続けることに、むりをした覚えなんてないのだから。
 おれも、も、まだ中学校にあがる前のことだ。田舎のばあちゃんの家に帰省するといつも、おれたちは近くの河原で水遊びをして、帰ってくると奥の客間で昼寝をした。大人たちが遠くの居間でさえずりあっているのを、子守唄のようにしながら、とろとろと浅い眠りに落ちるそのひとときが、おれは好きだった。
 ある日、夏の涼しい夕暮れどき、おれはよりも先にふと目を覚ました。とおれは向かいあい、何畳もある広い部屋で、たった一畳をわけあうように小さくなって眠っていた。すっかりかわいたの黒髪が、彼女の顔を隠してる。それを、おれは指でそっとすくいあげ、の耳にかけてやった。うすくひらいたのくちびるが、おだやかな寝息を立てて、おれはなにか、熊手のようなもので胸を削られたようなふしぎな心地がした。うすく剥ぎとられた胸の奥から、或る欲望が滲む。それはべつに、知らない、見たこともない欲望ではなかった。おれはとっくに、のことが好きだったから。ただ、どんなふうにその欲望をつかい、からだをけしかけたらいいか、知らなかっただけで。まだ、夢のなかに居るようだったから、その先のことがうまく思いだせない。はなかなか目を覚まさなかった。だけど、或る一点におれの指が触れたとき、彼女がまるで感電したみたいに震えたので、おれは背すじがぞっとして、少しこわくなったのを覚えてる。自分の、してしまったことに。

「ん、すみはる、くすぐったいことしないで……」

 目をつむったまま、むずがゆそうにが脚をすりあわせ、おれの手首をやわく押し返したとき、胸のざわつきが全身に感染して、おれは思わず身を捩った。の顔をまともに見ることができず、心臓が鳴って、おれは彼女に背を向けて、目を覚ます前よりも小さく縮こまり、からだの異常が過ぎ去るのを祈るように待った。起きるな、起きるな、と背後で寝こけるに、そして自分自身に、念をおくりながら。
 それは、おれが初めて、胸にひそんでいる怪物を逃がしてしまった日の記憶だ。おれはその怪物を、檻のなかで飼いならすことはとうとうできなかった。怪物は貪欲で、いつでもを食べたがる。そして、おれ自身のことも。その怪物の腹のなかで、とひとつになれたら。いつしかそんなまじないめいた夢に、おれは支配されるようになっていた。そして幸福な月日は経ち、とうとうその夢がかなう日が、やってきたのだ。
 が二十歳になった日の夜、おれはボーダーの防衛任務があって、家族だんらんの夕食の席につくことができなかった。いや、仕事終わりに急いて駆けつければ、最後のケーキをともに食べるぐらいはできたかもしれない。おれは敢えてその場を避けたのだ。家族の一員として彼女の生を祝福する。そういうひとときからはずれた場所で、ふたりきり、二十歳になった彼女と出会いたかったのだ。

「誕生日おめでとう、

 その言葉をたずさえて、の部屋のドアをノックしたのは、もう一年に一度の特別な日づけが変わろうとするころだった。風呂上がりのが、髪を梳く手をとめておれを迎えてくれる。おれは小さくひと呼吸して、彼女の部屋の鍵をしめた。

「澄晴からはお祝いしてもらえないのかと思ったよ」

 のその言葉は、おれには「待ってたよ」というふうに聴こえた。ベッドにふたり並んで座り、おれは彼女に、この日のために用意していたブレスレットを贈った。繊細なゴールドのチェーンに、の好きなマーガレットの花のチャームが、さりげなくひとつぶあしらわれている。彼女は指先にブレスレットを引っかけて、揺れるチャームを瞳を輝かせて見つめた。

「すてき」
「おれにつけさせて」

 そう言って身を乗りだし、の白い手首に、てずから選びぬいたブレスレットをくぐらせる。まるではなから彼女のためにだけしつらえたもののように、のほそっこい腕に、その控えめな装飾はぴったりと似合っていた。幸福そうに細められる、の眼。胸の奥が頼りない紙きれのように、くしゃりとつぶれてしまう。

「ありがとう、澄晴。大切にするね」

 おれは、どこまでも優しいほほ笑みをたたえたに、同じような表情をし返して口づけた。とても自然に、そういう手はずであったかのように。はおどろかなかったし、拒みもしなかった。何しろふたり、キスをするのはそれが初めてではなかったから。度が過ぎたじゃれあいをしているうち、おれたちもうとっくに、この道の上に居たのだ。
 ――いつからにそういう気持ちを抱いていたのか、おれにはよく分からない。

。今日はこっちで一緒に寝てもいい? 久しぶりにさ」

 の震える指を指ですくいあげ、かよわいちからで小指を触れあわせる。これだけのことですみずみに熱いものがめぐっていく。ほかの女の子とだったら、こうはならない。は長いまつげをしばたたかせ、おれを見つめかえした。おれによく似た、とらえどころのない、脱力した甘い目をして。

「久しぶりって……子どもじゃないんだから」
「わかってるよ、そんなこと」

 子どもじゃないんだからこそ、こうする価値がある。それ以上、人間じみた言葉のやりとりは要らなかった。毛づくろいするつがいの獣のように絡まりあう、おれたちの赤い糸。この糸はけっして千切れず、ほどけず、どこまでもふくざつにダマになってゆくだけだけど、あの飢えた怪物の鎖は、とっくに引きちぎられていた。そして、どこまでも自由に、どこまでも深くの細いからだのトンネルを潜って、こころゆくまで彼女を喰らった。
 からだの下で、がふしぎそうにおれを見つめている。手首のブレスレットを残し、彼女からすべてをひん剥いてしまうと、おれには彼女が自分の姉だとはとうてい思えず、むしろ自分よりずっと年下の少女のようにすら思えた。こんなにも熟した、この行為を果たす機能的な、みずみずしいからだを目の当たりにしているのに? 十何年も一緒に居たのに、知らないことはたくさんあるんだ。――なあに、どうしたの。あやすように掠れた声で問いかけると、はこっくりと首をかしいで、ブレスレットを嵌めた手を伸ばし、おれのまなじりに指を添えた。ああ、何よりも正しい、親指のつかい方。
 あの日、ようやくおれたちは、怪物の腹のなかで溶けあって、ひとつのかたまりになれたのだ。



 あれからはときどき、ふとした瞬間に、この世界から離脱したような顔をするようになった。
 どういう顔かと尋ねられても、そういう顔だとしか答えようがない。おれが家族のなかでいちばん遅く、朝の食卓に降りていくと、とっくに身支度をととのえたがソファに座っていて、テレビを見るでもなく携帯をいじるでもなくぼんやりとしている。おはよう、と声をかけるまでおれが降りてきたことにも気づかない。まるで抜け殻みたいだ。精巧なつくりの皮膚の下には、あの夜、おれを受けとめてくれた温かい肉体はもうないのではないか。そんな妄執に囚われそうになった。だけどそれは、もういちど、を覆うすべてを剥ぎとり、その内側のやわらかさに触れたいという、おれ自身の欲望のあらわれなのかもしれない。だとしたら、この世界から離脱しそうになっているのは、おれのほうだ。

「犬飼先輩、どうしたんですか」

 夕方の防衛任務をこなしながら、外灯などない濃い闇のなかを足早に歩く。この軽い使い捨てのからだ、暑さ寒さという季節のうつろいをまったく解さない、便利で不都合なからだをかろやかに揺らして、壊れかけた家々の塀や、屋根の上を風のように奔っていく。オペレーターから指示された、不穏なゲートの揺らぎはどうやら未遂に終わったらしい。念のためその場にしばらく待機していたとき、となりの後輩が視線を渦巻くゲートから離さずに、おれに声をかけた。

「え? 何が」
「鼻歌」
「あれ、おれ歌ってた?」
「はい、かなりわざとらしく」
「あそ。いや、デートなんだよね、今日これから」

 はあ、そうですか……とまったくもって無関心な相づちが返ってくる。だったら訊くなよ。いや、おれがそういう態度をとっていたのか。口ずさんでいた歌がなんだったのかも分からないぐらい、無意識のことではあったけれど、じっさい浮かれていたのは確かかもしれない。昨晩、が映画のチケットを二枚もって、おれの部屋のドアをノックした。そして、おれの予定を聞きだして、待ち合わせの時間と場所を決め、恋人たちのようにデートの約束を結んだのだ。気持ちがたかぶる。そして少し、ほっとした。愚かなことだ。けっきょく、心の隅で、万人が認めるような「ふつう」に安堵しているなんて。

「辻ちゃんはさ、好きな子とデートとかしたことあるの。いいもんだよ」

 はなから詮索する気などなかったけれど、そう声をかけただけで辻ちゃんは耳を異様に赤く染めあげたので、おれはそれ以上、無駄口を続けるのはやめにした。異常なし、と口早にオペレーターに報告し、通信を切る。さっさとこのからだを脱ぎ捨てて、生身のからだで、彼女に会いにゆきたかった。はだしで駆けだすような、無様な情熱をたずさえて。
 風のざわめく冬の夜に、はお気に入りの真っ赤なコートを着て、駅前で待つおれの前に現れた。彼女の手にみちびかれ、古びたビルの地下に沈む映画館へと降りていく。彼女がおれを誘いだしたのは、古い香港映画のリバイバル上映だった。小さな館内はひともまばらで、おれたちは後方の席に余裕をもって腰をおろした。

「初めて男の子とふたりで出かけたとき、ここで彼と映画を観たの」

 コートを肩から脱ぎながら、となりに座るおれに、はさもなつかしそうに思い出を吹きこんだ。ふたりきりの外出に浮かれていたおれの頭に、いきなりがつんと、苦い記憶が立ち上がる。あのころ、おれはまだ小学生だった。放課後、校庭でさんざん遊びまわってから家に帰ってくると、大好きな姉が見知らぬ男と仲睦まじく勉強会をしていたのだ。

「中学の、一緒に図書委員やってたやつ」
「よく覚えてるね」

 忘れるはずもないだろう。生まれて初めて、嫉妬という感情をまざまざと植えつけられた日のことを。勘違いだろうと、好奇心だろうと、そのあいだ、その短くはかない季節の一端、恋は互いを独占しあうものだ。そう思うと、からだじゅうを鞭打たれたような痛々しい衝撃が全身に走った。
 照明が落ち、映画は主人公とおぼしき男の静かな独白から始まる。おれはスクリーンを見つめるの横顔を盗み見た。二度と戻らないときをほのかにいつくしむ、恨めしいその横顔。売店で買ったホットココアをひとくち飲んで、があたたかく甘い息をつく。

「映画の内容なんて、ほとんど頭に入ってこなかったな」
「緊張してたんだ」
「ううん」

 するりと、膝の上の手をさらわれる。くぐもったひそひそ声が急に耳たぶに染んで、今度はおれが甘い息をつくばんだった。

「ずっと、ふたりでこういうことしてたから」

 ませガキでしょう、と言って、はおれを挑発するように淡く笑った。なるほど、こんなの確かに、どんな刺戟的な映画よりも悩ましく、スリリングな遊びだろう。たったこれだけの、産毛をふるわせるささやきが、闇のなかでどれほど男を惑わせるのか。はそれを知っているのだ。おれは、彼女の指に指を絡めかえしながら、スクリーンに視線をうつした。映画が気になるからじゃない。のことが気になって、こんな場所で、気がふれそうになったからだ。

「図書委員のくせに、まじめさのかけらもない」
「あ。本好きがまじめだなんて、偏見よ。本を読む男はいろんなことを知ってるの」

 ふまじめなことも、いっぱい。くちびるが耳に触れたわけではないのに、潜めた声をそうやって注がれると、まるで触れたかのような熱をもつ。あったことも、なかったことも、ふたりが近づけば近づくほど、そのさかいめはあやふやになっていくんだろう。本を読まない男でも、それぐらいのことは分かる。それに、ふまじめなことならば、おれだってたくさん知っている。彼女に分け与えられるぐらいには。

「ねえ、あとで、澄晴の初恋のはなしも聞かせて」

 だけど、それだけは――。どんなにさかのぼっても、どんなに引き返したとしても。おれはではない女の子とたくさんふまじめなことはしてきたけれど、以外の女の子のことをまじめに考えたことはない。だから、彼女もそうであってほしい。おれ以外の男とふまじめなことをしたとしても、そいつらのことをまじめに、真剣に想ったことなど、いちどもなければ、それでいい。
 となら、まじめにも、ふまじめにもなれる。
 まったく内容をなぞれない二時間の映画のあと、家族でよく行く洋食屋に、今夜はおれたちふたりで立ち寄った。きょうだいなかよしだねえ、と言われ、おれたちはほくそえんで顔を見合わせる。なかよしだ、もちろん。でもそれは、洋食屋の主人が想像しているような意味ではけっして、ない。
 彼女をこの手ではだかにするのは、あの日以来、たった二度目のことだった。あれは一度のあやまちでもなければ、たわむれでもない。そう、分かりきった覚悟をそれでも言い聞かせるように、おれはのなかに自分をなすりつけた。おれを感じて。おれを憶えて。寝静まった家の、月明かりも届かないシングルベッドの上で、のからだが跳ねる。幼い夏の日、彼女の脚のあいだに手を差しこんだときのように。あのときからまるでかわり映えのないおれの感情。おれの初恋のはなしなんかしなくても、おれの初恋ならまだここに脈を打っている。
 愛おしさと憎らしさがないまぜになったような欲望をぶつけすぎて、おれは不用意にも彼女のベッドでくたくたになって力尽きた。夜が明ける前に自分の部屋に戻ろうと思っていたのに、はだかのまま、白みはじめた朝のまぶしさを感じて目を覚ましたとき、はすでにベッドに座って身支度をととのえているところだった。肌をさらしてシーツにくるまる男と、下着姿の女。ふたり、世界から身を離すことができるのはたった一夜のことで、朝が来ればもう、こんなにも生々しい情事のなごりにうずもれている。

……もう、起きるんだ」

 彼女の背中に、起き抜けのしゃがれた声をかける。カーテンの向こうはまだ完全には明けきっていないようで、電気の点いていない部屋のなかは、墨を溶かした水のような薄闇に沈んでいた。がふとおれを振り返る。そして、すぐに視線をうつして、白いブラウスに袖を通した。

「澄晴。……わたしね、三日ぐらい、旅にでようと思ってるの」

 の言葉はあまりに唐突で、あまりに予想外の言葉というのはどうやら、うまく聞きとることができないものらしい。彼女の言葉はぼやけて、かすんで、耳に届くときにはもう、目覚めの夢のようにあいまいな心地のものになっていた。

「いまから家を出て……月曜日の夕方には帰るから……そしたら……」

 あんず色の朝陽に照らされたのうなじは、白く発光し、つややかな石膏のようだった。ベッドに横たわった体勢を少しだけくずして、身支度する彼女を見つめる。ブラウスのボタンを括る細い指が、胸もとの下着の刺繍を隠してしまうさまを。夜が明けるまえ、おれはさんざん、その肉体の温もりを味わった。放てばすぐ消えていく彼女のか細い言葉よりも、目の前にうっすらと望む、その桃源郷に手を伸ばしたい。また、すぐにでも。身も蓋もない欲望を飲み下して、おれはおざなりに目をこすった。

「ん……なに? もっかい言って」
「……ううん、なんでもないよ。じゃあ、行ってくるね」

 は何か言いたげだったけれど、けっきょくそれ以上何も言うことはなかった。おれの肩のまるみに、別れを惜しむような軽い口づけがひとつ落ちる。そして、真っ赤なコートに身をつつみ、いつの間に用意したのか、足もとのボストンバッグをひとつ手にとって、彼女は部屋を出ていった。
 それがおれにとって最後の、との記憶。温もりのあとの、ほんの少しのけだるさのなかで、おれは彼女の背中を見送った。
 どうしてもっと、の言葉に、彼女のたたえる感情に、敬意を払わなかったのか。目に見える、触れればきっとまた優しい体温を与えてくれる、彼女の影ばかりを追っていた。追いつめていた。あのときは気にも留めなかった、さみしげな姉の横顔が脳裏によぎる。
 列車に轢かれてしまったひとの最期は、一体どんな顔をしているだろう。



 おれたちが住むこの町には、ときおり、異次元へとつながる大きな裂け目がぱっくりとひらく。その裂け目からは、おれたちのとうてい思い及ばない世界に生きる、おれたちとそっくり同じ皮をかぶった、異界の住人たちがちらほらと降ってくる。おれたちの目に見えるのは、他人の皮だけで、この町に生きているとときどき、他人の内面というものがひどくおそろしく、不可解なものに感じられた。見えないことが、当たり前なのに、見えないことが、不安でたまらなくなるのだ。隣人が見えない。そしてしだいに、自分自身までも。
 おれたち家族をここに集めた警察の連中はそのうち、がなんの目的で、どこに向かおうとしていたのかをおれたちから聞きだそうとするだろう。だけど果たして、この愛すべき異常な町をひとときでも離れることに、たいそうな理由なんて必要だろうか。むしろおれたちが絶えず探しているのは、この町にとどまるべき理由のほうだろう。この世界からほんとうに、離脱してしまわぬように。この町に、この家に、血を分けた男女として生まれてきてしまった理由を、おれたちはずっと、考えていた。
 もしも、別の世界なら。

「澄晴、あなたどこへ行くの」

 待合室のソファを突如として立ち上がったおれを、母さんは泣きそうな声で呼び止めた。どこからか振り子時計の音がする。ぼーん、ぼーん、と四回鳴って止んだ。冬の午後は短い。いま、ブラインドに遮られた弱い日差しが廊下に翳っていても、あっというまに暮れなずみ、まぼろしのような速さで今日という日が過ぎ去ってしまう。ハンカチでぐしゃぐしゃの顔を押さえている母さんを、おれは静かに振り返った。

「おれは先に戻ってるよ。が、夕方には帰るって言ってたから」

 そう言ったときの、母さんの、家族たちみんなの、絶望に満ちた顔といったら。
 だけどおれにはどうしてもを失ったという実感がない。なんの脈略もなく壊れた人体を見せられたって、あんなもの、誰の死でも、死でなくってもいいだろう。彼女はあれじゃない。あのはりぼての、つくりもののようなからだのもとに、はけっして居ないのだ。居るはずもない。だって、約束をしたのだから。月曜の夕方には帰る、と。そしたら。そしたら……
 警察署を飛びだして、おれはひとり、長い長い自分の影が伸びる国道沿いを走って、走って、家路を急いだ。生身のからだはトリオン体のようになめらかには動かない。冷たい風のなかを全力で走れば、すぐに息が上がり、足はそぞろにもつれ、耳が千切れそうに痛くなる。だけどそれでいい。生きているって、そういうことだろう。しだいに張り裂けそうになる心臓を抱えて、息もたえだえ家に辿りつき、もどかしい思いで玄関のドアを開けたとき、おれは、階段をのぼっていく小さな足音を、確かに聞いた気がした。

「……

 。つぶれたスニーカーをひっくり返し、すぐさま追うように階段を駆け上がり、おれは一直線にの部屋へと飛びこんだ。ドアをあけた瞬間、三日前の朝陽にも似た、あんず色の夕陽がまぶしく脳裏になだれこむ。ひかりを押しだすように、速いまばたきを何度か繰り返し、おれは目をこすった。すると、彼女が出かけに持っていったはずのボストンバッグが、そこにはあったのだ。おれたちが愛しあったベッドの上に。
 ――ああ、ほらね。ぼやけた視界が晴れれば、自分が何を見つけるか、おれはこの部屋に踏みこむ前からきっと分かっていた。

「おかえり、

 ベッドの上に膝を折り、迷いなく、だけど丁寧にそのボストンバッグをひらいて、おれはその一言を彼女に宛てた。まるでずっと、ずっと昔から、こんなときのために、言葉を用意していたみたいに。おかえり。おかえり、。愛すべきこの異常な町に。この家に。血を分けた、たったひとりの弟のもとに。

「きっと、取り返しのつかないことがおきないように、神さまがおれたちを引き離そうとしたんだね」

 だけど、こうして戻ってきてくれた。声も、熱も、肉体も、愛用のブレスレットも、すべてを失ったとしても、紛れもなくおれのもとに、は帰ってきてくれたのだ。検視台の上の、無機質なばらばらの四肢なんかより、おれの手がすくいあげた、この安らかな顔のほうがずっと生々しく、彼女自身に違いない。
 ようやく、つよい現実感が波のように押し寄せてきて、おれはの薄赤いくちびるに、最後の口づけを落とした。ほのかに甘い涙の味が、夢をうつつに塗り替えていく。
 神さまにだって引き裂けない永遠の恋を抱えて、彼女はひとり、旅に出たのだ。









THE END

2018.12