※ 自殺未遂に関する描写あり




 その年の三月、早咲きの桜はすでに花と蕾を半々にみのらせて、俺たちの巣立ってゆく高校を淡い色に染めあげていた。風は冷たく、陽は温かな門出の日。俺はそのなごやかな華やぎにすっかり中てられて、ひとなみの勉学も、人生の機微も、なにもまともに修めていないくせして、清々しくひとつの節目を迎えたような気持ちに浸っていた。この場所を出てしまえばそうそう会わなくなるだろう、薄い関係の友人たちや、後輩たちに引きとめられて、惜しまれて、好い気になって浮かれてた。彼女のことを忘れていたわけじゃない。むしろ、彼女を待たせているということこそが、俺をひどく浮足立たせていた。そばにいた女子のひとりが、俺の学ランの、第二ボタンを指先ではじく。ふと周囲のざわめきがひずんで、俺はなにげなく顔を上げた。そのとき、みるみるうちに硬化した胸の痛みを、一体何に喩えたらいいのだろう。
 どうすることもできなかった。あの耐えがたい生身の無力と後悔だけが、今も記憶をつらぬいている。地上の俺のことなど目もくれず、彼女はたったひとり、この世界から脱落した。



 晩秋の冷たい風を感じて目が覚めた。彼女のベッドの、クリーム色のシーツに片頬を押しつけた寝相で、俺はブランケットに脚をからめていた。昨日どうやってこうして眠りについたとか、ぼんやり思い起こしているうちに、「居ない」という悲劇的な感覚がたちまちに俺を襲う。居ない。彼女がとなりに居ない。飛び起きると、首もとを抜けた冷たい風が、ベランダの窓から吹きこんでいたということに気づかされた。ひらいた窓から、床に伸びている人影の上、ひらひらと風の呼吸に合わせてカーテンが揺れる。俺はくたびれたTシャツにボクサーパンツという間抜けな格好のまま、窓に駆け寄った。祈りにも似た、焦りをかかえて。

 その名前を呼ぶと同時に、俺ははだしのままベランダに出て、彼女の細い肩を背中から抱いた。いや、抱く、なんていう生易しいものじゃない。それは瞬時の拘束だった。彼女がこの手狭な、なんの変哲もない朝のベランダから、ふっと脱落してゆかないように。フラッシュバックする。俺はまだこわいのか。たぶん一生こわいのだ。頭で考えるより先に動いてから、かえりみる。腕のなかでびくりとの肩が跳ねて、彼女が首を動かすと髪の甘い匂いがした。

「わあ、びっくりした。おどかさないでよ」

 気の抜けたふやけた声でがこたえる。背後から触れあわせたの頰はうっすらと冷たく、その皮膚の温度は、彼女がしばらくのあいだひとりでベランダに出ていたということを俺に伝えた。

「……そりゃこっちの台詞だっつうの」
「目が覚めちゃったから……ね、きれいだよ朝焼け」

 の住むアパートは川沿いの土手にあって、夜が明けると対岸にひしめく団地のすきまから、川面に反射した陽のひかりが洪水のように差しこむ。澄んだまばゆさが一日の始まりを告げる。今日という日に彼女が居るということ。彼女が今日という日を当たり前に迎えようとしていること。かたちにも言葉にもならないその実感が朝焼けのグラデーションなんかより俺にはよほど感動的で、得難く、腕にだんだんと移りゆく自分のものではない温もりに大げさなぐらいほっとしている。俺たちはしばらくからだを寄せ合ったまま、三階のベランダから輝く川面を見下ろしていた。
 部屋のなかに戻るとはてきぱきと朝食の用意をした。コーンフレークが水玉模様のボウルのなかにからからと落ちてく。彼女はいつも冷たい牛乳を注いでそれを食べる。もうまもなく、この定番の朝食も寒々しくなる季節が訪れるだろう。俺のぶんまでボウルを用意してくれる彼女の手際を眺めながら、俺の頭の片隅に悶々としていたのは十日後に控えたXデーのことだった。それ自体は、そう、この仕事をしている以上は本懐だと思う。けれど二週間ものあいだの生活と切り離されて過ごすのは、嫌な喩えかもしれないが、今の俺にとっては「賭け」みたいなものだった。そんな不安をとうてい、まっすぐには告げられないけれど。

、年が明けたら一緒に暮らさないか」

 なみなみ注がれた牛乳にスプーンを挿して、がボウルを寄こしたタイミングで、俺は隠しもっていたその言葉をついに彼女に差し向けた。近ごろはこの部屋に向かうたび、いつ切りだそうかと計っていたこと。たった一瞬であっても、彼女の不在という今朝の最悪の目覚めが、ようやく俺のうしろめたさを後押しした。

「暮らすって……」
「ここ引き払って、俺のところで。二人で新しい部屋を探してもいい。費用はぜんぶ俺が出すから」
「どうしたの突然」
「ずっと考えてたんだよ。おまえ、最近よく体調崩すだろ。飲んでる薬も増えた。心配なんだ、離れてると」

 表面には、はけろっとして、穏やかな日常を送っているように見える。だけどじっさいには、彼女は今もつねにピルケースを持ち歩き、キッチンカウンターに置いた籠のなかには、いくつもの薬袋が常備されている。昨晩、がシャワーを浴びているすきに、俺はその袋をひとつひとつ盗み見た。彼女はいつの間にか睡眠薬を処方されていた。それがどういうことか、学の無い俺にだってなんとなく分かってしまうことだ。
 それなのには、相変わらず呑気な様子で首をかしげて、コーンフレークを口に運んでいる。俺がまじめに打ち明けているというのに、ひとの気も知らないで、くだらない情報番組を垂れ流すテレビに目を遣っている。

「変なの。慶くんって、そんな心配性だったっけ」
「茶化すな」

 低くうなると、はテレビから視線をはずして、目をしばたたかせて俺を見た。気まずい沈黙が流れて、二人がスプーンを扱う音と、テレビのささやかな雑音だけがしばらく重なりあう。俺はまったく食欲がなかったが、はもくもくとコーンフレークをたいらげて、食卓のかわりにしているローテーブルから立ち上がった。食器をシンクに片して、コップ一杯の水をつぐ。きっとあの幾種類もの錠剤を喉に流しこむために。

「ごめんね、心配かけて。でも、ほんとうに大丈夫だから。これ以上、慶くんに甘えたくないの」

 突き放されているような気がした。一緒に暮らしたところで、俺はのことを四六時中監視できるわけじゃない。離れている時間は必ずある。大学と仕事で、俺の時間なんかだいたい消えてしまうのだから、こんなのは現実的な解決にはならないのかもしれない。解決、つまり、この胸のどうしようもない不安をもみ消すということ。見晴らしがよくて気に入ったから、という理由でがこの部屋を選んだとき、もっと反対しておくべきだった。でも、一体なんと言って反対したらいい。俺はほんとうの不安を口にすることができない。あんなおぞましいことを蒸し返せない。まして、本人は忘れていることなのだから。
 食べかけのコーンフレークを放りだして、俺はキッチンカウンターで薬の錠剤をパッケージからひとつずつ取りだしているの腰に腕をまわした。彼女の手の動きがとまる。それをいいことに、俺は好き勝手をはじめた。甘えたくない、というの言葉が、俺には、俺から距離をとりたいという願望のように聞こえていた。この居た堪れない気持ちは、怒りだ。の首筋から、顎の輪郭に舌を沿わせ、着ていた服のなかに手をもぐらせると、彼女は慌てて俺の手首をつかんだ。だけど、節度などはなから持ち合わせていない。しばらく攻防していると、やがての腕力は俺に屈した。彼女は目の前のカウンターのふちを、震える両手の指でつかんだ。

「け……くん、授業は……」
が俺と暮らすって言うまで離さない」
「そんなの、」

 は困惑した表情で俺を見つめて、何かを言いたげにうつむき、押し黙る。なんだよ、ただ首を縦にひとつ振ればいいだけだろう。そのかたくなな態度が、ますます俺を後に退けなくさせるというのに、それを分かってやっているのだろうか。分かってないなら、いいかげん分かってくれと思う。俺がそういう人間だということ。身勝手な苛立ちをぶつけるように、俺はキッチンで立ったまま彼女を抱いた。はっきり言って、ぶつけたところで苛立ちは消えない。むしろ際限なくつのった。けっきょくは最後まで首を縦に振らなかったし、俺は午前中の授業をすべてすっぽかした。
 ああ、どうにもしくじってばかりだ。



 数年前まで、はボーダーの優秀な戦闘員だった。選りすぐりの部隊を招集する、近界遠征の参加者として名を連ねるぐらいには。俺と、別部隊だったが同じアタッカーとして、二人揃って第一回近界遠征のメンバーに選ばれたのが高三の秋。彼女はその十四日間の旅のあいだ、ゆるやかに少しずつ壊れていった。それはあまりにも微細な変化だったから、俺たちは誰も彼女の異変に気づいてやることができなかった。違う、俺たち、なんて言い草は責任逃れだ。ばかで、おろかで、散漫で、のいちばん近くにいるのは自分だと勘違いして、その実、少しも寄り添ってやれなかったのは、ほかならぬ俺なのだ。
 今になって思い返せば、その前から予兆のようなものはあった。初遠征のひと月前、遠征の参加者が発表されてから、の動きがにわかに鈍ったことがあったのだ。手合わせをしていても、彼女の繰り出す斬撃に今までのキレがない。急所を突かずに、こちらの動きを制限するようなもどかしい手をつかってくる。もちろんそういう攻撃を得意とする奴も居るし、効果も一概に否定はしないが、の話となれば別だ。それは彼女のやり方ではない。だから修練のあと、訓練室の通信機をつかって、俺はに言ってやった。――躊躇するなよ、と。

「ラスト、俺の首狙えたよな。一発で殺る気ねえだろ」
『四肢の自由を奪うだけでも、ろくに反撃できないじゃない』
「なにびびってんだ?」

 やや語気を強めると、しばらくからの返答はなかったが、やがて画面の向こうで彼女はぽつりとこんな疑問を洩らした。

『どうしてボーダーはわたしたちに人を斬る練習をさせるのかな』

 それは思い悩んでいるふうではなく、素朴な、の平熱の口ぶりだった。どうしてと言われて初めて、そこに疑問が立ち上がる余地があるのだということを知る。俺は当たり前のように受け入れていたが、言われてみれば忍田さんも、迅も、小南も、そういう昔話を具体的にはしなかった(あいつらそのつもりはないのかもしれないが、こちらからすれば隠しごとばかりだ)。俺たちに「敵」は存在するのか、存在するとしたらそれはどういう姿かたちをしているのか。誰も何も言わないから、俺たちは俺たちの理屈をこねて、察するしかなかった。

『だってそうでしょう。向こう側から来る連中は、妙なバケモノばかりなのに、人間を殺す技を磨いて何になるの。かたちも違う、動きも違う』
「そんなの、人型のバケモノが向こうに居るからだろ」

 遠征が近づいている。知りたいことも、知りたくないことも、俺たちは間もなく知ってしまうことになるだろう。人型のバケモノなんて俺も見たことはないし、というよりほんとうに人型だったとしたら目にしていたところで気づかないのかもしれないが、いずれにせよ三門に害虫を送りこんでくる「黒幕」というのは居るはずなのだ。そして心のどこかで俺は、そいつらと顔を合わせることを楽しみにしている節もあった。正直、ナメていたのかもしれない。俺の身もふたもない返事を聞いて、はさらに言葉を続けた。たどたどしく、今度は少し、水っぽい熱を含んだ声だった。

『時々、こわくなる。間違ってもし、誰かを傷つけてしまったら。……ううん、違う。間違いじゃなくて、もしそれが、わたしの任務だったら……』

 傷つける、というのはずいぶん言葉を選んだ言い方だ。もしも生身にふだん通りの斬撃が貫通するならば、おそらくそいつは即死だろう。三門の町が、三門の人々が、ネイバーによって一瞬にして壊され、亡きものにされたように、俺たちはあのときのおぞましい力を今や自分たちの手に宿している。の不安は、そのとき、俺にはよく分かるような気がした。だけどそれは彼女自身のことをよく理解している、ということではなかった。むしろ真逆だったのだ。

にそんなつらいこと、俺がさせないよ。俺がやる」

 だからこんなキザな言葉がぽろっとこぼれる。格好つけたわけでなく、俺は本心からそういう想いで居た。彼女のことが好きだったし、当たり前のように、彼女の支えになりたいと願っていた。恋人に対する男子高校生の心理なんて、重かれ軽かれ、そういう単純なものだ。良かれと思って言っている。「えこひいき」をしたいし、していることに気づいてほしい。回線の向こうで、の表情がほころんだ気がして、俺はそれだけでも嬉しかった。
 それが、ひとりのアタッカーとしての彼女に対する、冒涜であるとも気づかずに。

『もう、そうやってすぐ甘やかす』
「甘えてんのはどっちだ」

 くすくすと笑いあって、俺たちは通信をそこで切った。切って、そして訓練室を出て、生身に戻り、手をつないで帰路につくために。付き合いはじめてひと月ばかり。そのころ、俺には毎日が幸福そのものだった。
 彼女の苦しげな吐露を、いつものじゃれあいに回収して、巻いて、俺は得意になっていたのだと思う。
 実際のところ、初めてじかに目の当たりにする異国の紛争と軍隊というものは、伝え聞いていたよりも、そして俺が想像していたよりもずっと複雑で込み入ったものだった。俺たちの目的は侵略ではなかったが、そのとき降り立った国はまさに戦火の渦中にあり、そんな言い訳は通らないような緊迫した戦線に割って入らなければならなかった。たとえば俺たちの暗躍が水面下で戦況に影響をおよぼし、そのせいで多くのネイバーたちが死んだかもしれない。国が違えば技術も違うのだから、トリオン体への斬撃が生身を傷つけていない保証はどこにもなく、換装が解けた時点で死に瀕しているようなやつらも何度か目にした。そして俺たちは弱った相手から情報とトリガーだけを抜き取り、彼・彼女らを置き去りにして安全にベイルアウトする。そこで見た光景、そこで為したこと、の心にどんな変化をもたらしたかは計り知れない。あんなことを言っておいて、俺は俺で、俺自身を納得させるだけで手いっぱいだった。要はひとりびとりの、個人的な通過儀礼だ。俺たちが戦場でよどみなく動く、有益な機械になるために。
 そして傍目には、もその通過儀礼を突破したかに見えた。あの卒業式の日まで、俺はそれを信じて疑っていなかった。
 あの日、俺たちは卒業式のあとに一緒にボーダー本部へ向かう予定でいた。忍田さんが卒業祝いに飯をおごってくれるはずだった。式が終わったらいつものところで待っててくれ、と俺はに伝えていて、彼女はそれにうなずいた。それが朝のこと。三階の角の空き教室。俺はそこで、に学ランの第二ボタンを渡すつもりでいた。約束してたわけじゃないけど、それがこの学校の、「恋人どうし」の定番だったから。
 あと少し、俺が早くその場にを迎えにいっていれば。彼女をひとりにさせなければ。そんな、詮無い、の痛みに比べればどうしようもなく気楽な後悔に苛まれて、俺はずっと病室で彼女の手を握りしめていた。下の花壇と桜の木々のおかげで、の怪我は骨折と軽い脳挫傷にとどまり、奇跡的に命に別条はなかった。個室の病室に、入れ代わり立ち代わりボーダーの大人たちと医者がやって来て、俺は彼らのひそひそ話を盗み聞きしていて初めて、彼女が遠征から帰ってきてずっと、数ヵ月、精神科で薬を貰っていたことを知った。呆然とした。彼女という存在について、こんなにも無知であった自分自身に。

「いっそ入隊以降の記憶をすべて封印するのはどうでしょう……」

 病室の外の廊下で、根付さんと忍田さんが低く声を落として言い争いをしている。俺は、もう何時間もずっと目を覚まさないの手を握ったまま、浅い眠りと覚醒のはざまをさまよっていた。二人の声がその疲憊した意識のなかにもぐりこんでくる。彼らはどうやら、がこうなるに至ってしまった原因を封じこむか否かについて、口論しているようだった。

「それは明らかにやりすぎです。彼女の人格にかかわります」
「ですが、命には代えられない。危うく取り返しのつかないことが起きるところだったんですよ」
「根付さんはボーダーの責任問題を回避したいというお考えでしょうが、」
「私が回避したいのは機密事項の漏洩です」

 俺は目を開けて、ベッドに横たわるの寝顔を見下ろした。安らかにやわらかく閉じられたまぶた。静かな寝息。眠りの世界には、どうやら彼女を苦しめるものは何もないらしい。だけどひとたび目を覚ましてしまったら? そこには過酷で、取り返しのつかない現実が、石の如くかたくなに彼女を待ち受けている。
 俺があのとき耐えられなかったのは、彼女が目覚めたあとの、彼女の苦しみだったのか。それともその苦しみをどうすることもできない、自分自身の不甲斐なさだったのか。とにかく切羽詰まった気持ちで、俺は、暗い廊下に出た。病室のドアを開けると、二人の大人はしまった、という顔をして同時に口をつぐんだ。もう、遅い。

「忍田さん、俺からもお願いします」

 剣の師匠に向かって俺は深く頭を下げた。疲れと混乱のせいで、いちど頭を下げるともう二度と頭を上げる気力もなく、全身が震えて、そのまま脚から崩れてしまいそうだった。忍田さんの腕が俺の背中を支えている。なだめるように背中を撫でられると、色んなものがこみあげてきて、自然と頬が濡れた。とまらない。ほんとうに久しぶりに、俺はぼろぼろと泣いていた。

「……慶、記憶を消せばはおまえのことも、」
「俺のことなんかぜんぶ忘れてもいい。が生きてさえいればそれでいい」

 涙まじりに言い切ったその論理もくそもない感情に任せた言葉が、どうやらその場に居た大人たちを困惑させ、黙らせるには充分なものだったらしい。俺は自分が子どもなのだということを実感した。わがままを、まったくの私情でしかないわがままを喚いて、嗚咽している。子どもの癇癪で大人を困らせている。忍田さんの腕のなかで、俺は情けなく何度もしゃくりあげながら泣いた。
 けっきょく、忍田さんが折れたのは「遠征にかんする記憶」までだったらしく、が俺のことをさっぱり忘れてしまうということはなかった。それが良いことだったのか悪いことだったのか、今になっても俺には分からない。だけどひそかに、ほっとしているどうしようもない自分がいて、の屈託のない笑顔を向けられるたびに、俺にその資格はないのではないかとこわくなる。それでもまだ、俺はを手放せない。手放す気もない、わがままな子どものままだ。



 十一月の寒空の下、今夜もまた、川沿いの土手道を大股で歩く。駅から彼女のアパートまで十分もかからない。ジャケットのポケットに両手をつっこみ、右手の指には、まるい銀細工のざらついた感触がある。あの日、あの門出の春、彼女に渡しそびれてしまったひと粒のボタン。爪先に触れるたび、無二の厄災が胸を襲う。
 封印された記憶はあくまで消されたわけではないのだから、いつ、どんなきっかけで、蓋がひらいてしまうか分からないのだという。はいま、ボーダーとはまったく関係のない生活を送っているのだし、ほんとうは、俺なんかがそばにいないほうがよほど彼女のためなんだろう。だけどあのとき、の一部を奪われてしまったとき、俺もまた、何かが自分のなかからすっかり奪われてしまったような虚無を味わい、そしてその虚しさは、俺にとっては彼女の存在でしか埋められないものだった。彼女が、彼女をむしばんだ「ひとごろし」のシステムから脱落したあと、俺はますますそのなかで、非情な兵器として研ぎ澄まされていった。まるでのなかに、おのれの弱さも傷つきやすさも感傷も、人間らしさのすべて仮託して、押しこんでいるかのように。俺はの脆さにどこかで救われているのか。ボーダーは、俺を必要としている。必要とされることにやりがいと責任を感じる。断ち切れない仲間もいる。仲間たちと過ごすのは楽しい。何より楽しいと感じる。もう一度、彼女とこの場所で……。ありえない夢想をする。そんな自分と出くわすたび、俺は俺を嫌悪した。

「慶くん……わ、っあ」

 玄関で出迎えてくれたを、ドアを閉めるやいなや俺は胸に閉じこめた。ちょうど風呂上がりのタイミングだったのか、の髪はドライヤーをかけたあとのしっとりとした温もりを秘めていた。外気にさらされた冷たいからだに、彼女の体温がしみる。しばらくそうしたあと、俺は腕を少し伸ばして、胸に寄り添うと目を合わせた。きょとんとした顔で俺を見上げる、の頬をいちど撫でる。

、手だして」
「……手?」

 窮屈そうに、は俺のジャケットをつかんでいた手をひらいて、俺に差し伸べた。彼女の小さな手のひらに、ポケットから、くだんの銀ボタンをしのばせる。こんなちっぽけな思い出を渡すのに、どれだけの時間がかかってしまったのか。不完全な記憶を彼女が取り戻してしまうのがこわかった。だけど、もともとそれは、俺が、俺たちが、不当に彼女から奪ったものじゃないのか。ボタンと同じように目をまんまるくするを窺うように見つめる。大事なのはその先の覚悟のはなしだ。

「……これ、高校のときの」
「甘えてるのは俺なんだよ、

 くたくたの部屋着のトレーナーを着たの、しんなりした背中の生地を指先でつよくつかみながら、俺は唐突にそんな白状をした。もっとはやく素直になれていたら、気まずい朝もなく、言葉を抑えつけるようにからだを重ねることもなかった。と付き合っていて、すでに色んなことが後の祭りだけれど、せめてもう、不毛な虚勢を張るのはやめにしたい。どんなでも、どんな自分でも、どんな二人であっても、何かに当て嵌めて「違う」と思ってしまわぬように。

のためなんかじゃない。俺が、おまえと居ないとだめなんだ。俺のエゴなんだ。あの日、おまえが欲しがらなくても、俺はこれをおまえに貰ってほしかった」

 いまさら、なんて間抜けな告白だろう。十八歳のあのころから、あれだけの出来事が過ぎ去ったというのに、俺の本質はたいして変わっていないのかもしれない。に対する執着のすべてが、汚らしい自己愛から切り離せないままでいる。彼女を心配している自分も、彼女と暮らしたいと願う自分も、必死で彼女を支えようとしているその裏で、すでに彼女に支えられてしまっているのだから。

「みっともなくてごめん」

 もういちどを引き寄せると、今度は彼女の腕がゆっくりと俺の背中にまわった。おそるおそる、の腕にもちからがこもる。冷やりとした空気に沈んだ玄関で、俺たちはまるで付き合ってひと月足らずの初々しい恋人たちのように、ぎこちない引力で互いを抱きしめた。

「よくわかんないけど……わたし、慶くんのみっともないところ好きよ」

 目を閉じる。もう二度と戻らないかもしれない、失われたものの深さが俺のまぶたの裏に刻まれている。不可逆の悲劇。だけどそれは俺たちが確かに、人間として、何かを分かちあって生きているあかしなのかもしれない。どんなに訓練されて、条件づけられ、あらゆる技術を叩きこまれたとしても、彼女が機械にはなれなかったように。兵器としての彼女は壊れてしまったが、彼女の生はまだここにあつく燃えている。の腕のなかで、かたくなった冷たいからだを匿われるとき、俺は何度でも自分のあやまちを思いだし、俺は人間だと思い知るのだ。









THE END

2019.8
♪ サッドマシーン - ART-SCHOOL