1 : my fair boy

caution

ジャンと内地に住む女の子のお話をまとめた連作短編集です. p.s.は前日譚のようなものです. 一部、未来捏造の要素があり、執筆時期の関係で現在の原作の展開と齟齬があります.




 ――大切な一人娘が調査兵団の新兵に熱を上げている、なんて知ったらお父様は卒倒してしまうでしょうか。

 がち、と自室の鍵が静かにとかれる音がして、窓の向こうにひろがる暮れなずむ黄色い空から視線を外した。約束通りの時間、短い廊下を三歩で通り抜け、ベッドルームの扉に控えめなノックを二回。ジャン・キルシュタイン到着しました、と彼が名乗る癖の強い尖った声すらとても恋しくて、私は今すぐ走り寄ってしまいたくなる衝動をなんとか抑えながら、どうぞ、と言って椅子に腰掛けたまま彼を迎え入れた。この部屋の中に足を踏み入れると、彼はいつも扉のそばに立って私に向かって深く一礼する。そうしてしばらく無言のまま見つめ合うのが、二人の決まりだった。このひとときだけはきっと、なんの邪推も交えることなく。

「ジャン、こっちに来て」

 沈黙にけりをつけ、片腕を差し出すようにして彼を呼ぶと、ジャンはにこりと眼だけで微笑んでようやく歩を進めた。彼はいつも私がそうやって呼びつけるまで自分から言葉を発することもないので、この秘めごとを始めるのはひとえに私の意志のちからだ。近付いてきた彼の武骨な指が私の指に応えるように絡みつく。椅子に座ったまま彼の身体に頭を預けると、彼の隊服からは強い「外」の匂いがかおった。土とか、雨とか、風とか、鉄とか、例えばこの街ではとても染みつくことのないような匂いとかが。だけど雑然と重なり合ったそれらの匂いの奥には、しっかりと彼の汗の匂いや、皮膚の匂いが混じっている。私は大きく息を吸い込み、奥深くからそれを嗅ぎ取るのが好きだった。

「会いたかった……すごく」

 くぐもった声にこそ素直な本音が溶け込んでいるもの。彼はちゃんとそれを心得ているようで、何度か髪を撫でると額をぐっと押すようにして私の顔を上げさせた。ほんのりと少し、強引な仕草が混じるのさえ私の気に入る。きっと私は気がついていたんだろう。初めて目が合った瞬間から、彼の中に男と女の間でだけ許されるような粗暴さをひとつの流麗な行為に変えてしまえる、そんな独特の気品のようなものがあることを。年齢など関係ない。これは生まれ以っての、素質なようなものなのだから。

「俺も会いたかったです、さん」

 ちゃんと視線を合わせて彼が噛み締めるようにしてそう言ったので、早くもこの部屋にはじっとりと甘い湿気が漂った。淡い夕陽を受けてきらきらと光る彼の涼しげな釣り目を見ているだけで、心がびしょ濡れになってしまう。案外、女の子を泣かせる才能も持っているのかもしれない。もしかしたら私が開花させてあげたのかもしれないけれど。



 お祖父様とお父様のところには、毎年調査兵団の団長がその年入団した新兵のなかから何人かを選りすぐって挨拶にやって来た。いつのころからか知らないが、この家は代々莫大な資金を調査兵団に提供しているのだ。今年は成績上位の優秀な新兵が多く入団したと、やわらかな物腰の団長が三人の新兵をお祖父様たちに紹介した。首席だという女の子と座学で優秀な成績を修めたという男の子に挟まれて、どうしてジャンがこの家を訪れたのか。螺旋階段の途中から、吹き抜けを見下げて彼らの様子を観察していた私にはよく分からなかった。なんとかという装置の扱いに長けているとか、その装置の開発を支援したのがお祖父様だとか、そんな話をしていた気もするが今となってはどうでもいいことだ。ただ私は、彼の少し緊張した面持ちや、場違いなところに来てしまったとでも言うようなそわそわと落ち着かない仕草の数々を、興味深く眺めていた。全てが終わって彼らが応接間を後にするとき、ジャンはふと振り返り、私を見上げた。胸が弾けた。ジャンだけが、気づいていたことを、伝えてくれたから。はじめましての挨拶もなく私たちは出逢った。興味が欲望に変わったのは、あのときだ。

 あの男の子ともう一度会いたいと泣きついたら、お祖父様はお叱りにはならなかったにしても相当弱った顔をなさった。それもそうだ。なんともはしたない孫娘だと思ったに違いない。そして何より狡猾だ。厳格なお父様と違ってお祖父様は結局孫には無責任だし、お祖父様が頼めば彼らとて絶対に逆らえないだろうと、こんな悪知恵が働いてしまう自分にとてもびっくりした。あれ以来お仕事で留守がちのお父様の目を盗んでは、月に何度か私は彼をこの家に呼び寄せている。本当は毎日でも彼に会いたかったけれど、調査兵団の彼をシーナにそう頻繁に呼んではいけないと少しの我慢をすることが、むしろ真っ当な恋愛のようで私に心地良いさみしさをもたらした。過酷な環境であるほどに果実は甘く育つものだ。



 彼のために用意した茶葉は、彼好みの少し苦くて舌先に渋みの残る味をしていた。今朝焼いたシフォンケーキとの相性も良い。ジャンはシフォンの消えてなくなるような食感が珍しかったのか、口に含んだ途端に目を丸くした。それが可愛くてくすりと笑ってしまうと、俺の故郷にはこんなシャレたもんなかったっすよ、とどこか恨めしそうな視線を不意に寄こされる。見た目は大人びたところもあるけれど、こうしていると彼も年相応の顔を覗かせるから面白い。三つ年下の、私だけの男の子。

「次の壁外調査は二週間後だって、お祖父様から聞いたわ」

 他愛のない雑談に混ぜるように、つとめて軽く言葉を交わす。彼が兵士である以上、これは避けては通れない話題だ。知らぬ存ぜぬで押し通して、気にしていないふりをして永遠に別れてしまうのはいや。きっと彼と会うごとに私も少しずつ学んでいるのだと思う。彼の選んだ道の、厳しさのことを。

「参加するのね」

 はい、とジャンは簡潔に答えて頷いた。シフォンケーキをぺろりとたいらげ、ふっと息を吹きかけてからティーカップに口付ける。暮れていく陽のなかでその様子は唐突に静謐さに満ちて、小さな胸がどうしようもなく疼いた。

「前回休んだ分、しっかり働かねぇと」

 そう軽く口走ってから思うところがあったのか、彼は慌てて、さんのせいとかじゃないんですよ、と付け加えた。私は目を伏せ、笑いながら首を横に振る。あれが私のせいじゃなければ、なんだと言うのだろう。二ヶ月前、私は最大級の我侭を言って彼を酷く困らせた。二度と会えなくなるかもしれないという恐怖に耐えられず、外に行かないで、置いてかないで、と彼に縋り、お祖父様のつてを勝手に使って調査兵団宛にジャンを憲兵団に移してくれ、と手紙まで出す始末だった。あのときほど自分の立場を利用して物事を捻じ曲げたことはない。泣きじゃくる私をなだめるように背中をさすりながら、ジャンも半ば涙目になって必死に想いを訴えた。お気持ちは有り難いですが、それでは俺が兵士である意味が、生きている意味がありません。――そんなふうに言われたら、もう、何も言い返せなかった。
 あんな情けない姿は二度と晒しはしない。我侭も言わない。もしもこの世界の歯車が一つでも狂っていれば私はジャンとこうすることもなかった。そう思えば彼が壁の外へ出て行く選択をしたことも私は受け入れるしかないはずなのだから。

「それまでにもう一度会いにきて」
「ええ、もちろん」
「絶対よ」

 彼の手に手をそっと重ねる。帰ってきたあとの話は決してしない。私はまだうまく演じられるわけではないけれど、それでもあなたにとってこの部屋に来ることをこれ以上重荷にはしたくない。強引に時間と労力を奪っておいてこんなふうに考えることこそ、我侭だと分かってはいても。ジャンは触れた私の手を握り返すと、向き直って覗き込むようにして瞳をぶつけてきた。痺れをもたらすような、突き刺すような真剣な瞳だった。

「お約束します。いじらしいあなたの願いに誓って」

 握られた手を持ち上げられ、手の甲に優しく唇を押しつけられる。まるで作り話のなかの騎士のようだ。柄にもない誓いを彼がしたので、喉の奥で言葉が絡まりまごついた。訪れた声の余白に、宵闇がこの部屋に随分と忍び寄ってきていたことに気がつく。ジャンは何も言わずに立ち上がると、私の喉から引っ掛かった言葉を吸い取るように、首の後ろに手のひらを添えて唇を塞いだ。唇と唇を重ねたまま軽々と私の身体は宙に浮く。暗闇のなかで震えの止まらない腕を伸ばし、たまらず彼の首にしがみついた。実に滑らかに、実に自然に、ベッドへと私を導く術を彼はとうに覚え込んでしまったらしい。小手先の決まりきったやり方ではなくて、この場所この二人の間にしか通用しない、暗号のようなタイミングを紐解いて。彼の腕によって深くベッドに沈み込んでいく身体が心地良くて、眦から不覚にも温かなものが流れでた。ああ、違うこれは、気持ち良いからじゃない。幸せだからなのだ。

「ジャン、……ジャン」

 唇が離れ、とろんと弛緩した泣き顔を隠すように私はもっと強く彼の首に抱きついて、うつ熱に侵された声で彼の名を呼んだ。彼に見せるためだけに、彼に脱がせてもらうためだけに着たおろしたての水色のワンピース越しに、自分のものではない大きな熱のうねりを感じる。なんですか、と囁きながらジャンは私の両腕をあっさり解くとベッドに縫いつけるようにして手首を拘束してしまった。ぱっと開けた視界のなかで、彼が目を細めていた。とても、優しく。

「……ジャンは、私のことを恨んで、る……?」

 紡いだ途端にまたぼろぼろと涙が溢れた。それは幸せを感じてしまったことを恥じ入るような涙だった。今さら無暗に好きよ、と言っても仕様がない。ごめんなさい、と言うことも野暮だ。だけど彼を手放すことなど、それこそ、とうていできるはずもない。ここにある言葉は実はとても限られている。限られたなかで私は今まで彼に何を伝えてきたのだろう。ジャンの親指が目元に沿って私の涙を掬った。分厚い皮膚の乾いた感触は、感傷を込み上げさせるから逆効果だ。きりなく流れ続ける涙のみちゆきをなぞりながら、ジャンはふっと気が抜けたように笑う。小さく首を振り、長い睫毛をしばたたかせ。

「そんなくだらないことを聞くのに、この時間を使わないでください」

(いつ消えるとも分からない命を愛してもらえるのは、光栄なことです。それはあなたにとっても、苦しいことのはずですから。)

 ジャンは自分自身にも言い聞かせるようにしてそう言うと、自分で自分の言葉に照れてしまったのか、短い髪をわっと掻きむしってから隊服のジャケットをベッドサイドに脱ぎ捨てた。少し赤みのさした頬を、今度はあなたが私から隠すように、首筋に顔をうずめてしまう。ゆるやかに胸を擽られながら、ときおり腰を浮かせながら、いつまでもいつまでも、彼の言葉は私の脳裏を駆け巡った。あなたはこれを愛だと、本当にそう思ってくれるの。こんなの私の、エゴでしょう。違うの? と。
 生まれて初めて教え込まれた愛は、苦し紛れの下手なこじつけのようですらあった。それでもいつか私はこの日の愛の物語を、懐かしく思い返すのだろうか。願わくは、たとえこの部屋に一人きりでも、きっとあなたの居る世界のなかで。









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