2 : loveletter from




「ジャン、家のお嬢さんとは仲良くやっているかい」

 周りに誰も居ないことを良いことになんとも無防備に手紙をひろげ、内容を拾うでもなくただそこに連なる端整な文字の羅列をぼーっと眺めていた俺に、突如として予期せぬ一言が降りかかる。しかもその声の主が団長だったのだから、口に含んだシチューを気管に入れて盛大に咽こんでしまったとしても無理はないというものだろう。げほげほと喉を鳴らしながら慌てて手紙を片付ける俺を見て、団長は椅子を引きながら柔和な笑みを零した。頬が熱くなるのを感じる。もう何十回と読んでくたびれた便箋をこんな往来のある場所で恥ずかしげもなくひらいていたところを、ひとに見られてしまった。ひとに、っつーか団長に。何やってんだ、盛りのついた駄犬か、俺は。

「その手紙の長さを見るに、随分と気に入られてしまったようだね」

 雑談をこなすような口ぶりで、団長はスプーンをシチューに沈めながらなんともこそばゆいことを言いのけた。確かに、さんからの手紙はいつも長い。最低でも五枚は下らないし、おまけに字もびっしりと詰まっている。とはいえ内容のほうはそこまで濃いわけでもなく、大半は彼女自身の日々のことについての日記みたいなもので、あとは俺との逢瀬がいかに自分にとって待ち遠しく、嬉しく、意味のあるものかということが、何度も何度も言葉や表現を変えて書き重ねられているだけだ。正直安っぽいと言われればそれまでなのだが、あのだだっ広い家で一人の話し相手もなくこの手紙を書き溜めている彼女の姿を想像すると、この繰り返しだらけの散文もけなげな恋文のように思えてきてしまうから厄介なものだ。

 午後二時過ぎの食堂は閑散としていた。ざっと見渡してみても俺とエルヴィン団長以外に数えるほどしかひとがいない。馬舎の清掃と書類の並び順整理という雑用の併せ技をかわすのに予想外に手間取ってしまい(あの上官、三徹だかなんだか知らないが報告書の書き方がお粗末すぎるだろ)、あと少しで昼食を食いっぱぐれてしまうところだった。目の前に座るこのひとも厄介な仕事を抱えていたのだろうか。もっとも彼の場合は厄介ではない仕事を探すほうが難しいのかもしれないが。

「はぁ、まぁ……いつまでお気に召していただけるのか、分かりませんが」

 ぼちぼちです、と。スプーンを口に運びながら、曖昧さと冗談を含んだ言い方で無難に答えておく。というよりも、それ以外に答えようがない。どうせ俺たち二人のことは、誰にも見えないことだから。団長はそうか、と息を吐くように呟き、俺のその力ない返答を仕舞いこむようにコップの水をかぷりと飲んだ。

「君には無理を強いてしまって済まない。本来こういう案件を巧くさばいてこそ、上に立つべき人間なんだろうが」

 見上げると本当にあの団長が「済まない」という顔をしていたので少し面食らってしまった。こんな問題は彼にとっては些末な、ありがちなこととして見えるだろうと思っていたからだ。
 団長に連れられて初めてあの家を訪ねたのはもう半年ほど前のことになる。さんはあのときずっと螺旋階段の途中の段差に座ったり、手すりに頬杖をついたりして俺たちの様子を上から眺めていた。帰りしなに彼女へ視線を残したのは、単なる嫉妬だ。高みから物珍しげに新兵を観察する豪商の箱入り娘など、ローゼの錆びれた街を飛び出してきた自分にとっては存在自体が嫌味だった。だからなのか。きっと彼女が俺にとって異物であったように、彼女もまた俺を異物として受け取ってしまったのだ。言葉を介さぬ出逢いがこんなにも伝わらなさに満ちているとは、思わなかった。

「いえ、そのお心遣いだけで充分です。内地の問題に気を回していただくのはかえって申し訳ないですし……それに結構楽しいですよ、行くたび珍しい菓子が出てくるし」

 団長の片瞼がぴくりとほんのわずかに反応して、それがあまり好ましくない言い分であったことを瞬時に悟る。彼女は無知だが、少なくとも効果的なごね方をする知恵はあったし、そうして無理を言えば新兵を一人壁外遠征の参加者リストから外すだけの力も持っていた。今はもうそんなことはしまいと心に誓っているみたいだが、団長からすればそろそろこの関係から手を引くべき頃合いだということなのかもしれない。上手い具合に、彼女を傷付けることなく、俺に飽きさせろと。そう言いつけられるのもきっと時間の問題なのだろう。

「……別に、向こうも珍しがってるだけです。前線の垢抜けない新兵を弟代わりにしてるっつーか」

 嘘を、ついた。それをただちに嘘だと判定してしまえる自分に身の毛のよだつ思いだった。残りのシチューをかきこみ、水で強引に胃へと流し入れると、皿とコップを重ねて席を立った。お先に失礼します、と頭を下げる自分はまるでこの会話からそそくさ逃げているみたいだ。生意気だな、と自分で自分の態度に呆れてしまうほどに。

「弟、か」

 エルヴィン団長がぽつりとそう呟いたのを背中で聞き流す。弟? ンなわけねぇだろ。弟があんなことするかよ、と心のなかで自分自身に毒づきながら。



 私の家にはおよそ体温というものがないの、といつぞやの手紙でさんは漏らしていたことがある。夜になるとその冷たさが、身体の芯に迫ってくるのだと。だから夜が更けてからの彼女は昼間よりも幼い言動が増えたし(おそらく彼女自身は気付いてないのだろうが)、ベッドのなかでときおり年端のいかぬ少女のようにぐずることすらあった。自分ではどうにもできないある種の発作のようなもの。彼女がこの豪邸で、紛れもない自分の家で患わっているのは、何よりホームシックとも言うべき望郷の念なのだろう。

「……ジャン、起きてる」

 この日の夜も彼女にとっては深い、暗い、迷路だった。一呼吸おいて、起きてますよ、と真夜中の静寂を邪魔しないように小さく返す。すると窓のほうを向いて縮こまっていたさんは振り返り、添い寝をするように横向きに寝ていた俺の胸にぴたりと身を寄せてきた。頭を支えていないもう片方の腕を彼女の背中に回して撫でてやると、はぁ、と彼女から短い息が漏れた。

「一睡もしてないんですか」
「こわいの、心がざわつく」
「少し起きましょうか、俺、ホットミルクでも作りますよ」

 ちょっとでも安心させられるようにと笑いながらスタンドランプの明かりをつけようとしたら、後ろを向こうとしたときシャツの胸元をぎゅっとつままれて動きを制された。ふるふると彼女が頭を動かすと、首筋にやわらかい髪の毛の感触が伝わってくすぐったい。清潔な石鹸の匂いを肺にたっぷりと吸い込みながら、やっぱり夜のさんは俺より年下みたいだ、と能天気なことを思った。

「ジャンの体温がいちばん落ち着く。ずっとこうしていて」

 こうして、ってどうしてということだろう。ふと思うが、さらにべったりと彼女の熱が身体に絡みついてきたのでつまり「こういうこと」なのだろうと納得する。時には紅茶が飲みたいと言いだしたり、何か楽しいお話をしてなどと無茶を言われたりすることもあるが、今夜のさんは明かりもつけぬままただ熱と熱を擦り合わせていたいようだ。面倒と言えば面倒だが、庇護欲とでも言うのだろうか、弱った姿を見せつけられると最低ながら少し興奮してしまう。こんなにも身体が密着しあっていたのなら、心音の波が届いていないことを願っても無駄なのだろうけど。

「ねぇ、また今度、手紙を出していい」

 さんが喋るとシャツ越しに左胸に熱い息がかかって気持ちが良かった。彼女の首の裏を手のひらで包みこむようにしながら、前髪に隠れた額に唇を寄せる。今さらこんなふうに俺が絶対にノーとは言えない質問をするのも彼女が弱っている証拠のようなものだ。今まであんたが俺に尽くした言葉が一体どれだけあると思ってんすか。全ての文字を積み上げたら壁の高さを越えちまうかもしれないってくらいなのに。そう思ってから、はっと考えつく。彼女が延々と俺に言葉を投げかけるのは、あれだけの文字を吐きだしたとしても、未だ本当に伝えたいものを伝えきれていないからなのではないか、と。

「いつも心待ちにしてますよ」
「ほんとうに? ちゃんと読んでくれている?」
「隅から隅まで、何度でも」
「たまには返事もほしいわ」
「俺の拙い文章で良ければ喜んで」
「……来て、と書いたら、」
「もちろん飛んで来ます。……壁の中にいるうちは」

 嘘を言ってはいけないと思ってなにげなく付け足した言葉があだとなった。やばい、と勘付いてからではもう遅い。さんの指が俺の腕を掴んで力を込めれば、暗がりのなかでも彼女が動揺しているのが手に取るように分かる。闇に慣れた目は顔を上げたさんの、哀しげに歪んだその表情をぼんやりと捉えた。息を呑む。この気持ちは、一体なんだ。

「違う、の」
「……さん」
「違うのに、私、」
「ごめんなさい、俺が」

 気が回らなくて。言葉を遮るようにさんがまるで取り乱すように頭を振ったので、どうしたらいいか分からなくて俺はついに上体を起こすと彼女を掬い上げるようにして抱きとめた。腕を両肩に縋りつかせて、ぽん、ぽん、と背中を叩く。効果があるとも思えないが脈拍の速さとはちぐはぐな怠惰なスピードで、頼むから静まってくれと生き急ぐ鼓動に念じながら。

「そんな約束を、させたかったわけじゃない、のに」

 安らかな夢を見ていたいなら思い描いた幻想を映し出す相手をきっと彼女は間違えていて、こんな未熟な兵士を捕まえてごっこ遊びのような関係に興じるなんて馬鹿げている。でも、だからこそこの熱を振り払えないのは決して鋲に張りつけられたような使命だからというだけではないことも、本当はどこかで気がついていた。

「不安になるのは俺も一緒です。俺だってあなたを失うのは、……こわい」

 そうだ、こわい。もう、こわくなっている。さんの腕の力が急に緩まって、だらりと伸びた腕が俺の胸をゆるく押し返した。背中をさすっていた手を止める。闇をかきわけて彼女の濡れた瞳の光が届く。赤子のようにあやされていたくせにそんななまめかしい泣き顔を見せるのは卑怯だ。俺は今どんな顔をしているのだろう。保護者のようにははなから振る舞えないけれど、せめて物欲しそうな顔だけはしていないといい。

「どうして? 私はどこにも行かないわ」

 彼女の冷たい手が頬を滑る。その手を上から包み込んで断ち切るように目を閉じたら、何もない茫漠とした闇が瞼の裏にひろがって、だけどちゃんとそこに二人が居た。

「分かってます。だから不安なんですよ。……同じです。同じことです」

 自分が何を言っているのか確信を持っていたはずなのに、戸惑う彼女の様子を想像したらどんどんと自信が無くなってきてしまった。自分の心はしょっちゅうこの部屋のなかで迷子になる。微塵も隠れるところなどないというのに、掠め取られ、驚き、探し、見つけだし、そして自分のところに戻ってきたころにはほんのちょっとそれは擦り減り、歪み、つくり変えられている。その繰り返しだ。あなたのように抒情的でたおやかな言葉の連なりを介して心臓の在り処に思い馳せることなどできない。だから俺はまたこの会話から逃げるように問いを孕んだ視線を胸に仕舞いこむしかない。
 この夜をただやり過ごす、そんなばからしい存在理由のために。

(死んで会えなくなることと、生きたまま会えなくなることは、一体どちらのほうが悲しい結末なのだろう。)









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