p.s. : a certain romance-1




 やるせなく腫れた目もとと頬に乾いた涙の跡が、夕暮れはじめた外光と一緒くたに翳って何かとても繊細な石膏細工のように映る。泣き疲れて眠るさんの寝顔を見続けて、一体どれくらいの時間が経ったろう。あんなにも感情をむき出しにして泣き叫んでいたのに、こうやって見るときめの細やかな白い肌も、上向く睫毛も、ふっくらとした唇も、作り物みたいに整然としているのだから不思議だ。音がない。蠢く影もない。彼女の手のひらに柔く握りこまれたままの指先だけが、かろうじて彼女が温もりを持つ命であるということを伝えている。
 窓の外の日の傾きを見るに、そろそろここを出なければシーナを夕刻に出航する艀には間に合わなくなるだろう。シーナの奴らは決して壁など越えたがらないから、そもそも貨物用の船しか普段は河を通らない。朝昼夕の一日三回の貨物船を逃すと、ローゼに戻る手段は全く失われてしまう。もっとも、立体機動装置でも手もとにあれば話は別だが。
 腰を上げ、ブランケットの上に置かれた彼女の手のひらから、指先をそうっと引き抜く。そのまま抜き足でベッドから離れようとしたら、後ろから隊服の裾を掴まれた。起こしてしまったのか、もう起きていたのか。振り返ると、ぼんやりと重たく目をひらいたさんが俺を見上げていた。

「……行かないで」

 消え入りそうな掠れた声だった。あれだけ泣いたのだから、声も枯れていて当然だろう。もう一度ベッドに向き直り、床に跪いて彼女の手のひらを両手に取る。丁寧にその温もりを仕舞いこむようにして。

「明日は朝から馬術訓練があるので、そろそろ出ないと」

 悲愴の色がさっとさんの表情を曇らせる。泉のようにじわりとまた、その瞳のふちに涙が滲む。今にも溢れてしまいそうな水の際に慌てて指を沿わしながら、俺は首を横に振り半ば強引に笑ってみせた。そうでもしないとまた彼女に無為な言葉を放ってしまいそうだったからだ。

「大丈夫です。今度の壁外調査には行きません」
「……本当に?」
「団長がそう決めたことですから」

 そもそも一新兵が覆せるような決定ではありません。念を押すようにそう付け加えると、さんはようやく少しだけ緊張のほどけた表情をした。それは今日初めての彼女の笑顔だった。泣き腫らした眼を細める、どこか気力なげなほほ笑みだったけれど。

 次の壁外調査には参加する必要はない、と団長室に呼ばれてじきじきに伝えられたのは昨晩のことだった。聞けば団長宛に、さんから俺を壁外調査のメンバーから外すか、さもなくば憲兵団に移してほしいと嘆願の手紙が届いたのだという。さすがに兵団を移られては困るからね、と団長は何でもないふうに笑っていたが、内心どうにもこの案件を煩わしく思っているのは目に見えたし、これはとても笑い話では済まされないことだとも思った。さんのもとへと向かう非番の日の前夜にこの事実を俺に告げたのも、もしかすると俺が彼女を説得できるかもしれないという一縷の望みを抱いていたからなのかもしれない。けれども結局そんな力は俺にはなかった。「お気持ちは有り難いですが、こういうことをされては困ります」と、そう言って手紙を返した途端、さんはわっとその場に泣き崩れた。泣けばなんとかなるだろう、というような狡さが少しでも透けていれば手に負えたかもしれないが、さんの涙には一片の打算もなく、まるで河の氾濫のようにどうしようもなく彼女の涙と懇願は俺に向かって流れてきた。咄嗟に彼女をきつく抱きしめたのは慰めようと思ったからじゃない。俺がさんにしがみついていたのだ。そうでもしていないとあの涙に呑みこまれて、溺れてしまいそうだったから。

「ジャン」

 さんの手のひらが俺の手をするりとほどいて、彷徨うように伸びてくる。自然とその手に吸い込まれるように顔を近づけると、さんは俺の頬骨のあたりを人差し指をそっと撫でた。涙をぬぐうような仕草だった。

「はい」
「……好き」
「……はい、」

 寒くもないのに声が凍えている。それは涙の洪水に紛れて、今日幾度となくぶつけられた言葉だった。今まで彼女から受け取った視線も、態度も、手紙も、すべて過剰な好意を慮るには充分な熱がこもっていたと言えばそうなのだが、たった一言のはっきりとした言葉を前に、そんなうやむやな熱の堆積などとうてい意味を成さなかった。さんの指が頬を滑り、離れていく。泣いてなどないはずだろうに、ありもしない涙の跡をなぞる彼女の指の動きが、目に見えるものを見えないものにしてしまったのだろうか。

「……好きでいて、いい?」

 予想外の問いかけだった。困惑した。そうやって尋ねられるとどうしてか、それが彼女にとっても、自分にとっても、良いことだとはとても思えないような気がした。さんの視線に追い込まれるように目を伏せる。いつの間にか自惚れだとか勘違いだとか、そんな体の良い逃げ道をもはや見つけることもできない袋小路に立たされていた。このままではきっと駄目だろう、と直感が告げてもどうにかしようと嘘をつけばそれこそ彼女を傷つけてしまう。そうに違いない。

「……分かりません」

 今さら嘘をつくことを恐れているんだろうか。ここに訪れ、親密なふりをすること自体が互いの日常を逸脱した大仰な芝居であるというのに? ふるまいはすぐに身体に染みついて離れなくなる。嘘が身体に染みつけば、それが外から塗りたくったものなのか内側から溢れてきたものなのかも次第におぼつかなくなるだろう。さんの額を前髪の上から一度だけ撫で、今度こそ立ち上がる。ぽかんとした彼女の表情の奥にあるものを読み取ることもできぬまま。

「今日はゆっくり休んでください。失礼します」

 一礼をして踵を返し、足早に彼女の部屋を出る。だだっぴろいだけで人気のない広い廊下を走るように抜けているうち、いつも別れ際に必ず言っていた「また来ます」という一言を今日に限って伝えていないということに気がついた。忘れたのか、言えなかったのかも、判然としないが。螺旋階段の真ん中ではたと立ち止まり、何があるわけでもないのに来た道を振り返る。吹き抜けに吊り下げられた豪奢なシャンデリアが、夕日をうけて誰もいない廊下を虚しく照らしていた。もしかしたらもう二度とこの家に、あの部屋に、呼ばれることはないんじゃないか。そんな予感が、何より焦燥とか不安という言葉でしか言い表せない感情をかたちづくっていることが、ただ漠然とこわかった。



 馬を走らせ日没にシーナの門をくぐる艀にはなんとか間に合い、ローゼの壁の中をまた休むことなく馬を走らせて、それでも本部に戻ったのは空が白むころだった。今から仮眠室に行ったとしても朝食までに寝られるのはせいぜい一時間かそこらだろう。眠気と空腹でもうろうとしながら正面玄関脇の夜間用入り口を開けると、資料室へと続く廊下からランプの明かりがゆっくりとこちらへ迫ってくるのが見えた。こんな夜明けに見回りか何かだろうか。いずれにせよ新兵の自分にとっては上官に違いないその火の玉に向かって、反射のように敬礼をして立ち止まった。近づいてくる影もまた、玄関正面の大階段の前でこちらに向き直って足を止める。ランプに照らしだされたのは、至極疲れた様子のハンジ分隊長だった。

「お疲れ様です、ハンジ分隊長」

 咄嗟に出た機械的な挨拶に、ハンジ分隊長はひっつめたぼさぼさの髪を無造作に手で掻きながら、あくびを噛み締めた表情で俺をぼんやり見止めた。ランプを持つ腕に、資料室の鍵と思しきものを引っ掛けている。鍵を自由に扱えるのは分隊長の特権だ。おそらくこの時間まで寝ずに資料を読み漁っていたのだろう。

「朝帰りかあ、若いねえ」

 どこかからかいの色を含んだその言葉に、限界まで疲労を溜めこんでいた脳はすぐさま苛立ちを覚えた。分隊長は腕一本ぶんほどまでさらに二人の距離を詰めると、ランプを顔の高さまで掲げて俺の顔の横にそれをずいと近づけた。顔をしかめたのは突然の眩しさのせいか、果たしてその不躾な行為のせいか。

「君、ジャン・キルシュタインだろう。最近よく、エルヴィンのところに出入りしてる」

 確信ありげな聞き方だった。試しているようにも、詮索しているようにも、面白がっているようにも取れる。どうにも掴みどころがなく、ひととの適切な距離を敢えて弁えていないかのようなあけすけさは、むしろこちらに警戒心を抱かせるのに充分なものだった。

「はぁ、それが何か」
「いやあ、おっさんから変な遊びでも教えてもらってるのかと思ってさ」

 分隊長は窺うようにひょいと首を傾いで、わざとらしいほどの笑顔を寄こした。よく見れば皮脂と埃で眼鏡のレンズが随分と汚れている。ずっと本を読んで夜を過ごしていただろうに、細かいことはいちいち気にも留めない性質なのだろうか。丸一日、本と一緒に部屋に閉じ込めておいても閉じ込められていることにすら気づくことはなさそうだ。

「ご心配なく。関係のないことですから。団長にも、……分隊長にも」

 探りを入れられた仕返しと言わんばかりの付け足しをすると、分隊長はレンズの奥でかすかに目を見開いた。そしてまた豪快にとっ散らかった髪を掻き上げ、あっけらかんと言葉を続けた。

「かわいげがないなあ。君、きっと長生きするよ」

 ふたつの指摘が全く噛み合わず、つながらない。なんの根拠も論理もない、ただの勘かあるいは経験則、もしくはただの気まぐれか口から出まかせ。こんな場所に身を置いていて「長生き」もクソもないだろうと思うが、逆にこんな場所に身を置き続けている者だからこそ「長生き」という言葉に特殊な重みというものを宿せるのかもしれない。分隊長の手がその重みをなすりつけるように、左肩に置かれる。敬礼をしたままの右手に伝わる自分の鼓動が、拳を通して大仰に身体に響いていくのが分かった。

「まあ遊びにしろ……仕事にしろ、ほどほどにね」

 何を知っていて、どこまで知っていて、あるいは何も知らないで、そんなことを口にするのか。それこそ単なる気まぐれなのかもしれないが、疲労に侵された頭は散漫になるのではなくより一層敏感に言葉の端々に意味を見いだそうとした。思考が混迷していることのあらわれなのかもしれない。肩を抑えつけるようにしていた力が緩み、それきり何も言わずに分隊長は大階段へとランプをかざした。敬礼を解く。今はたったひとつの明かりが遠のいていく。もうじきに紛れもない朝が訪れて、この仄暗い廊下も闇の跡形もなく白く照らされていくだろうが。

「……遊びでも仕事でもない場合は、どうすればいいんですか」

 まるでああ言われればこう言うといったような、単なる口ごたえの延長のような物言いで、ぼろりと予期せぬ返答が唇から零れていった。自分で自分の弱さに呆れ果てるほど、切羽詰まった、情けなささえも絞りだすような声だと思った。遊びでも仕事でもない。そんな可能性を孕んでしまっている時点で、もうそれは産み落とされるよりほかない感情なんだろう。階段の一段目に足を乗せんとしていたハンジ分隊長が振り返る。しばし沈黙して一手を考えあぐねているのかと思えば、くあ、と彼女は間抜けな大あくびをするだけだった。そこには一片の謎解きも手掛かりも、なく。

「私には関係ないんだろう。自分で考えたら?」

 それだけ言うと、分隊長はいかにも徹夜明けののっそりとした足取りで階段をのぼっていった。あの部屋はもとより誰とも関係のない、誰ともつながれていない、ひとりでに浮かび上がる空白でしかなかった。だから彼女があの空白に俺を埋めこもうとしたのは、ただ浮遊する密室をつなぎとめる鎖のようなものが欲しかったからなのかもしれない。それなのにどうだろう。あの鎖はもうきっと、千切れかけている。気づけばそうだった。中途に千切れた鎖を元通りに直すことも、完全に切り落とすこともできず、曖昧に彼女の部屋は停滞を続けているのだ。

 縋るようにしがみついたさんの柔らかな躯体を思い出す。あの涙がいつまでもあの部屋に溜まり続ければ、いつか俺は彼女のことを道連れに溺れていくのかもしれない。









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