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亡霊を食む




 オーブン脇の小窓を開けると、曇りガラスに遮られていた夕暮れの明るさがお行儀よく四角に切り取られ、キッチンの青いタイルの上にそのままのかたちで降り注いだ。路地裏で子どもたちがはしゃぐ声が聞こえる。滑り落ちていく陽を惜しむように、一緒になって駆けっこしながら、私もまた迫りくる宵の予感を背に包丁を持つ手を動かしている。夕暮れの訪れはいつも目の前の小さな窓から、あの子は必ず騒がしく背後から、だ。野菜を洗って、皮を剥いて、戸棚から卵をかごに取りだして。生活音には決して紛れないどたばたしい足音はまるでここが我が城であるかのように振る舞い、ひとつの遠慮もなくするりと私に近づいてくる。ああ、なんとも、お行儀が悪い。けれどもその騒々しさだけが、今日が昨日とも明日とも違う日であることを私に教えてくれるのだ。

「なんすか、今日。外まで匂いしてますよ」

 ただいま、なんて挨拶はここにはもちろんあり得ないけれど、そのかわいげのない第一声と足先がタイルを擦る音は、確かに私ではないひとの存在がそこにある証だった。振り向くのもそこそこに、隣に伸びゆく影に向かって話し掛ける。ジャン、おかえりなさい、とは決して言わずに。

「トマトが傷んでしまいそうだったから、煮立ててソースにしてたの。それと今日はチーズもあるから……じゃがいものグラタンでもしようかな」
「へー、相変わらず洒落てんな」

 料理のことなんかちっとも分かっていやしないのに分かったような口をきいて、ジャンは俎板の上に残っていた腐りかけのトマトを迷わず手に取り、豪快にかぶりついた。それ、もうだいぶヤバいやつだったんだけどな。きっと彼に言わせれば、しなしなの野菜屑がもうしわけ程度に浮かんだスープと比べれば熟しすぎた肉厚のトマトのほうがよっぽどご馳走だ、ということなのだろう。トマトをかじりながら彼は、匂いを嗅ぐようにひょいと鍋の中身を覗きこんだ。泥のついた兵服、汗の浮いた首筋、埃まみれの髪。キッチンに入ってきていい清潔な身なりとはとうてい言えないいでたちだ。

「ちょっと、その格好で食卓には座らせないわよ」

 鍋をかきまわしながら、肘で彼の腕を小突いた。ジャンはあっという間にトマトをたいらげると、ぼさぼさの短い髪をさらに手のひらで掻き乱した。汚い、鍋に煤でも入ったらどうしてくれよう。きっと睨み上げれば、おっかねぇな、とでも言いたげな不遜な視線を返された。

「あーはいはい、分かってますって。先に風呂場借ります」
「よろしい。いってらっしゃい」

 踵を返してそそくさとジャンはキッチンを出て行った。毎回こうして促されないと風呂場に向かわないのは、もしかしたらそれ自体が彼なりの挨拶なのかもしれない。同じような会話が繰り返されるたび、二人の関係は少しずつ日常に近づいていく。随分とへんてこなものだ。熱い湯気が目に染みて、何をやっているんだか、とつい笑ってしまうほどには。
 男を落とすには胃袋を掴むこと、と昔お母さんがことわざのひとつみたいにシチューを煮込みながら言っていたけど、彼の場合は本当に心や足がここに赴いているというよりは胃袋がこの場所を覚え、この場所を欲しているようだなと思う。なりゆきで食事を共にしているうち、どうやら私の料理は彼の胃袋だけを掴んでしまったみたいだ。夕餉どきになるとジャンはふらりとやって来る。駐屯兵団の手伝いの帰り道、大砲の整備で煤まみれになった体をぶらさげて、あるいは兵站訓練をこなしたあとくたくたの体を引きずって。とにかく彼はいつもお腹を空かしていて、欠食児童のように食事にがっついた。ちょうど食べ盛りの年ごろということなのだろう。もう何年も自分で食べるぶんを自分が食べるためだけに作っていた私にとって、その見事な食べっぷりは面白いくらいだった。そしてなんだかとても、気持ちが良かった。



 ジャンと初めて会ったのは、かつての恋人の月命日の日のことだった。
 調査兵団本部の裏手にひろがる小高い丘の上には、命を落とした兵士たちの共同墓地がある。三年前、私の恋人もそこに入った。彼が調査兵団に入団して五年目の春だった。覚悟してなかったわけではないし、行方不明だと宣告されるよりはいくぶんか救われたのかも分からない。けれども彼の遺体は損傷が激しかったようで、面会する暇もなく、帰ってきたその日のうちにあっけなく火葬されてしまった。あのひとの口から“ただいま”を聞けなかったことも、あのひとの顔を見て“おかえり”と言えなかったことも、私の胸にはきっと未だにつかえたままでいる。仕方のないことなのに、仕方のないことだからこそ、この行き場のない後悔は心に深く根を張って抉りだせないのだろう。
 広大な墓地を歩いているとしっかりとひとりひとり埋葬されている墓碑が少し羨ましく感じられたけれど、彼の名前が大勢の兵士たちの名に挟まれて刻まれている大きな慰霊碑を見るたび、彼はもしかしたら仲間たちと一緒に居られて今ごろ嬉しがっているかもしれないとも思った。彼の好物だった蜂蜜と木苺のサンドウィッチを、彼の名前の下にそっとひろげる。跪いて、たっぷりと時間をかけて祈る。それは毎月の変わらない、私の静かな日常の一部。……だったはずが、その日は今までと違うことがふたつあった。ひとつは彼の名の刻まれた慰霊碑のはす向かいに、真新しい慰霊碑が建てられていたこと。そうしてもうひとつは、そこに先客の一人の少年がしゃがみこんでいたことだ。

「……なあに、ひとの顔をじろじろ」

 この一ヶ月の出来事を頭の中でなぞり、彼にゆっくり語りかけていたその途中、とうとう痺れを切らして私は少年に視線を投げた。無遠慮に好奇心をだだ漏れにさせていたくせに、こっちから向き直れば目をまんまるく見開いて戸惑う。バカ正直というか、なんというか。ジャンに抱いた最初の印象は、まあだいたいそんなところだったと思う。

「あ……、すみません。すっげ美味そうな供え物してんなーって思って、つい」

 その日、ジャンは奇しくも調査兵団の兵服を着ていなかった。肘まで腕を捲った白いシャツに、ベージュのスラックス。どこにでもいる平々凡々な少年の姿をして、すみません、と言いながら彼は困ったように眉を下げた。弱々しい表情をすると途端に幼さがじわりと滲んで、初対面のぴりぴりした居心地の悪さはそれだけでだいぶ和らいだ。処世術とはまた違う。きつい目元が緩めば、もとより親しげな顔をしたひとが見せる笑顔の不気味さとは、真逆の作用を生むものだ。

「死んでからも美味いモン食えたら、幸せでしょうね」

 眩しそうに目を細めて、ジャンは目の前にそびえる墓碑を見据え、そのつややかな石肌に手を触れた。絵になる哀しみ方だな、と、そのとき素直な気持ちでそう思った。墓の新しさから見て、その哀しみはまだきっとかわききってもいない。それなのに私が彼くらいの年齢のときには思いもよらなかった何かに、この子はもう気がついている。祈りを捧げる人間を凝視するような常識知らずのくせに、彼はもう、大人なのだと。青い芝生を風が吹き抜け、くたびれたシャツの襟が揺れる。それはたった数秒のことだったけれど、確かに私はジャンに見惚れていた。

「……一切れ食べてみる?」

 自分でも思いがけない提案をしたと思う。けれども不思議とこうするしかないというような真っ直ぐな気持ちだった。ジャンはぱっと墓碑から視線を外し、私を見た。ぎょっとしているような表情で。

「え、いいんですか」
「いいよ、期待に沿える味か分からないけど。君にも、……君の大切なひとにも。おすそ分け」

 彼は私のすすめた手作りのサンドウィッチを、びっくりするくらい美味しそうに食べた。そうして、お前も食べるだろ、と言ってもう一切れを至極大事そうに墓碑に捧げた。彼の名前を知ったのはそのあと。彼が兵士であるということを知ったのもそのあとのことだ。もしも彼があのひとと同じ仕事に就いていたことを先に知っていたら、どうだっただろう。私はどう思っただろう。話しかけただろうか。おいそれとサンドウィッチを差しだしただろうか。関わろうと……しただろうか。もしものことなんか考えたって何の益にもならないのに、こんなふうにこの日のことを、このときのことを思い返すのは、そこに私の人生のひとつの分かれ道があったからなのかもしれない。それなら、私にとってジャンは、何者なのか。ジャンにとって私は、何者なのか。きっとまだ何者でもない二人は、それでも日々少しずつ、同じ味を舌に覚えつつある。こんなことでしか言い表せられないなんて、やっぱり私たち、へんてこだ。



 じゃがいもを薄くスライスしながら、ぼんやりとあの日の出会いのことを、今までのことを思い返す。あのひとが美味しそうに食べてくれた料理をあのひとと同じ道を進もうとしている男の子にも食べさせて、私は一体何を得ているのだろう、なんて考えたりもする。不用意にジャンのことを思い描いていたら、集中が途切れて重たい頭がぐらついた。あ、と思ってからではもう遅い。私は引っこめることを忘れた人差し指の上に、ざくりと刃を降ろしてしまった。

「っつ、」

 料理中にけがをするなんて、包丁を握りたての少女というわけでもないのだから、それはそれは久しぶりのことだった。俎板の上にぽつり、ぽつり、と赤いしずくが垂れる。痛みを感じるよりも前に、その血の色の鮮やかさに悪寒が走った。次いで、指先にどくどくと熱のこもった脈動を感じる。こんな些細な傷であっても生の一部は削られてしまったのだな。そう思うと、漠然としたおそろしさのようなものが胸に渦巻いた。

「大丈夫ですか」

 その声が飛びこんできたのは想定外で、人差し指をもう一方の手で握りながら私は咄嗟に振り返った。そこにはお粗末ながら湯をかぶって短い髪をつややかに濡らしたジャンが立っていた。彼は兵服を脱いで、ここに置きっぱなしにしてある洗いたてのシャツとズボンに着替えていた。だらしなくボタンの開いたシャツから、少年とは思えぬ逞しい胸筋が覗いていて、思わず視線をうろつかせてしまう。もう、戻ってきたの。でも、そういえば彼が訪れてからどらくらいの時間が経ったか分からない。トマトソースを掻き回しすぎて目も頭も回してしまったのか。ランプをつけ忘れたキッチンはいつの間にか薄闇に沈んでいた。

「……ジャン、おどかさないで」
「貸してください」
「? 貸すって……」

 言うがはやいか、彼は私の手を取ってだらだらと血の滴る人差し指を、一片の躊躇もなく口に含んだ。あまりのことに声を失う。突然に温かくて湿った感触が指先に絡みついて、こそばゆさと恥ずかしさに目の前がちかちかと閃いた。血を残らず舐めとるようにジャンの舌が咥内で丁寧にうごめき、私の人差し指は自分ではないひとの唾液にじっとりと濡れてゆく。その間、彼は目を閉じ、その行為に一切を捧げているかのように真剣だった。なんて、静かな。息も絶え絶えに、私は首を振るう。ジャンはまるで仕上げだと言わんばかりに、指先をじゅ、と吸い上げて唇を離した。指を彩っていた血は一滴残らず彼に飲みこまれていた。

「……顔、真っ赤」

 俯く私を下から覗いて、ジャンはからかうように言った。本当に頬が赤いかどうかなんて、果たしてこんな仄暗いキッチンで分かったかどうか知れない。年甲斐もなく涙の予感のようなものが喉元に溜まっていることに気がつく。彼からは久しく嗅いだことのなかった生々しい匂いがした。血の匂いじゃない。欲望に駆り立てられる、男の匂いだ。

「かわいい、さん」

 不釣り合いに大人びた、掠れた声。私を口説くような声。唇と唇がささやかに触れあい、離れ、ジャンは私の手を握ったまま照れ隠しのようにほほ笑んだ。笑っているのに、泣いているみたいだ。私のなかのあやふやな哀しい感じが、彼の奥のそれと触れて、そうして吸いこまれていくようなイメージが脳裏を掠める。彼の唇が食べたのは、私を巣食う幻か、この部屋に満ちる空っぽの現実か。あるいはもうずっと前から互いに響きあっている、二人の孤独だったのか。









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