2
硝子の檻




 惚れた弱み、とでも言えば聞こえはいいかもしれないが。

「……ミカサは」

 騒がしい朝の食堂でもパン片手に本を読みふけっていたアルミンは、俺の声にふわりと顔を上げて律儀におはよう、と真っ当な朝の挨拶をよこした。こんなばたばたとした慌ただしい場所でよく読書なんかできるものだ。相変わらずつきっきりか、と向かいの席に座りながら分かりきったことを問いかける。アルミンは本を閉じながら、憂いを帯びた目を伏せて小さく頷いた。

「うん。ずっと目を覚まさなくて……せめて熱が下がればいいんだけどね」

 その言い方は二人のことを平等に心の底から心配しているようでもあったし、二人に接したことのある人間なら誰しも感じるだろうあの独特の排他的な空気に対して、おぼろげな羨望を抱いているようにも思えた。ひびとも、ほころびともつかない。けれどもそのずれがあってこそ、彼らの関係は円滑に回っているのかもしれないのだ。
 昨日は旧本部でエレンの巨人化を伴ういくつかの実験や実践練習があった。多くの兵員が参加し、朝っぱらから日が暮れるまで、一体何度あいつは自らの手に歯を立てただろうか。あれだけの無茶をしたのだ。おそらくその後遺症のようなものなのだろう、役目を終えるとエレンは意識を失いぶっ倒れた。それで昨日の夜には現本部の地下に運びこまれ、兵団付きの医者に診てもらっているらしいが、今もなお目を覚まさない。傷はすぐに治っても、心の疲れはなかなか癒えないということなのかもしれない。いくら巨人に姿を変えることができたとしても、あいつはもちろん、そうもちろん、「にんげん」なのだから。
 食欲がないふりをして自分のパンを仮眠室にこっそりと持ち帰り、ストーブの上で温めたミルクにパンをちぎって入れ、ついでに砕いたアーモンドをふりかけてみる。訓練兵のときに炊事の当番はあったがやる気も出さずに皿の片付けばかりしていたせいで、こんな簡単な料理でも見よう見まねの綱渡りだ。
 兵団で出される食事は配給制のようなもので決められた時間に本人が取りにいかなくてはありつけない。だから雑用に手間取っていると食いっぱぐれてしまうこともあるし、飯を抜いた奴の代わりに多めにパンをくすねようとしても無駄なのだ。一人一人、分け前は平等。食べないのならそいつ自身の責任で、ということになる。食っても食っても腹が減るのに、昨日の夜も、今日の朝も、食堂に姿を現さない彼女のことを考えると、どうしても自分のパンを口にすることができなかった。クソ、と思う。自業自得のくせに。こんなことしかできない自分が、腹立たしい。

「ミカサ。開けろ、手がふさがってる」

 陽の届かない地下室はしんと静まり返っていて、滅多に入れ替えられることのない空気は埃っぽく、石のように冷たかった。小さな足音と共に扉がそろそろとひらかれる。疲労と不安に長時間さらされ続けたせいか、ミカサの目はうつろで張りがなかった。彼女の翳った美しさが、そのせいでむしろ際立っているように感じられるくらいに。ジャン、と彼女が俺の名をぼそっと吐く。なんつう顔してんだ。いや、なんつう顔させてんだ、か。

「エレンはまだ起きない、朝食はいらない」
「……お前ンだよあほか。昨日から何も食ってねぇんだろ。パンちぎって粥にしてやったから腹に入れとけ」

 彼女越しに見えるベッドにエレンが横たわっていた。両腕をだらんと布団から出してまっすぐ仰向けに眠っている。何時間も二人きりだったであろう窓のない密室には、奴が寝込んでいる以上ひとつの会話も浮かんでいないはずだった。分かちあえるものは何もないはずだった。それなのになんだ。この、二人が会話をしているときよりも、ぴたりと隣同士で歩いているときよりも、強く胸に渦巻く言いようのない不快感と焦燥は。入れない。なぜか急に怖気づいて、俺は戸惑うミカサにミルク粥を載せた盆を押しつけた。

「……ほら、さっさと食え。夕食は出てこいよ、ちゃんと」
「でもジャン、これはあなたのぶんのパンではないの。だとしたら、受け取れない」
「は? んなこと気にしてんな。自分で食うぶんくらい自分でなんとかする」

 お前と違ってな、と言ってそれがいつも通りに聞こえるように、精一杯の力を使っていつも通りに口角を上げてみる。そうしてようやっと、うつろに泳いでいたミカサの目に光がさしたような気がした。彼女の両手が託された盆をしっかりと掴む。矢印のような眼光に蹴落とされそうになりながら、いつもこうして俺は、彼女にしがみつくのに必死になっているんだろう。

「分かった。……ありがとう、ジャン」

 聞き分けよく彼女は素直に頷いて、かすかだが目だけをすっと細めた。その一言で、その表情だけで胸が詰まる。たったそれだけのことで自分がとても幸せな存在であるようにも、とても惨めな存在であるようにも思える。惚れた弱み、とでも言えば聞こえはいいかもしれないが、これはひとつの束縛だ。



 空っぽの腹を抱えて向かう場所はひとつしかなかった。こんな昼間に彼女を訪ねたことはなかったが、彼女が職業柄たいてい部屋に籠っていることは知っていた。さんの仕事は服の仕立てだ。破けてしまった服を直したり、古くなった服を使って新しい服や鞄に作り直したり、簡単な洋服であれば依頼された生地で一から作ったりして生計を立てているのだと言う。玄関の扉を開けたさんは髪を後ろでひとつにまとめ、普段はしていない眼鏡を掛けていた。それが彼女の日々の仕事姿なんだろう。その無防備な格好を見ていたら、どっと安堵の波のようなものが胸に押し寄せてきた。

「……腹減った」
「えっ……、ねぇ、ちょっとこんな真昼間に。仕事は……」
「今日は午後からです。あの……入っていいですか」

(自分でなんとかする、とか言って、あてにしてなきゃ出てこねえ言葉だろ)

 わざと甘えるように彼女の肩口に頭を寄せる。びくりと彼女が震えたのが伝わってくる。自分がしたことがちゃんと、自分に同じだけ返ってくるのが嬉しかった。不公平じゃないこの反応に、確かに救われている。情けねぇな、こんなことで。
 午前の輝きにコーティングされた彼女の部屋はあの薄暗い地下室とは正反対で、太陽の温もりが四隅にまでしっかりとまんべんなくひろがっているようだった。ペンネとオリーブのピクルスとこの間作ったトマトソースの残りしかないけど、とさんはキッチン棚を確認しながら、テーブルにつかせた俺を振り向く。充分です、すみません、本当に。そうやって少しは殊勝になって返したら、さんは今さらそんな態度したって遅いよ、と言ってからりと笑った。

 ――彼とは、幼馴染だったの

 女のひとが一人で住むには少し大きすぎるこの部屋には、きっと俺の知らない思い出がたくさん詰まっているのだろう。さんとの出会いは墓場だった。あの日初めて俺はこの部屋に招き入れられた。一切れのサンドウィッチにがっついた俺に、さんはパンケーキを焼いてだしてくれた。お互いの名前も年齢も知らないまま、俺たちは慰霊碑に埋まったふたつの魂についてぽつりぽつりと話した。何も知らない者同士だからこそ話せることがあったのだと思う。めまぐるしい毎日のなかでも、この部屋の時間はいつも澱んでいて俺を立ち止まらせる。あかるい陽だまりのような停滞は、今もなおとてつもなく大きな喪失をその内側に溜めこんでいた。

 ――“自由の翼”は彼の小さなころからの憧れだったのよ。十三歳で訓練兵団に入って、それから三年間一度も会わなかったのに、出てきていきなり「部屋を用意したから一緒に住もう」って。びっくりした。十六歳の子ども同士が、ばかみたいでしょ。でも、本気だったの。私たち、いつも……

 彼女の唇に触れた日に部屋いっぱいにたちこめていた食欲をそそるトマトソースの酸っぱい匂いが、また食卓のほうにまで漂ってきた。キッチンに立って手際よく料理をしているさんの背中は、彼女の生活のさみしさそのもののようだと思う。寄る辺なく映るのは彼女がその中心にぽっかりと空いた穴を、ここに渦巻く思い出を焼き直すことでしか埋めようとしないからだ。永遠を無駄使いして生きている。その痛みを、俺はまだ知らない。

さん」

 立ち上がり、手を伸ばし、その華奢な背中に触れた。あの日と同じように振り返った彼女の半開きの唇を軽く食むようにして口づけを落とすと、さんはなんだか猫が喉を鳴らすように喉元で声を潰した。こうやって空腹を満たす方法を覚えてしまったら、もう戻れない。背の低い彼女を腕のなかに仕舞いこみ、尾てい骨からうなじまでゆっくりと手のひらを滑らすようにさすってみる。少しでも彼女が気持ち良いように。さんは困惑した表情を宿して俺を制するように見上げた。そのくせ両手はかわいらしくシャツにしがみついてくるのだから、女はずるいものなのだと心底思った。

「ジャン、……こういうことをするためにここに来てはだめ」
「なら抵抗してください……なんで、」

 そんなにも容易く受け入れてくれそうな素振りをしているくせに、こういうときばかり諭すような物言いをするのだろう。俺のことを全く男として見ていなかったわけではないくせに。構わず首元に唇を寄せようとしたら、ぐいと胸を押し返された。左の人差し指にはあの日の怪我の名残か、軽く包帯が巻かれていて、俺にあのときの欲情を思い出させた。距離をとるように伸ばされた腕や、説得を試みているようなその顔。今朝、地下室で感じたような言いようのない不快感が、この居心地の良いはずの部屋のなかにも見つかることがある。彼女に近づくほどに、隠れていたそれは少しずつあらわになっていく。ここには確かに行き止まりがあった。俺のためではない、行き止まりが。

「教えてくれたじゃない、好きな子がいるって」

 本当に彼女は十五歳の少女に向けられる気持ちと、自分に向けられている気持ちとが、真っ向からぶつかりあうと思っているのか。本気でそんなことを咎めているのか。そんなふうに思っているなら端から俺を部屋になんてあげてないだろ。違う。あんたは何も分かってない。思いがけない言葉にはむしろ羞恥が募り、なだめるように言われれば余計に神経が逆撫でられ、俺はついかっとなってさんをキッチンの青いタイルの上に押し倒してしまった。身体を打ちつけた彼女の鈍い呻き声が、頭の芯に響く。

「あなたに言われたくない」

 思いがけず乱暴になった俺の行動や、急に責めたてるような語気になったその言葉も、さんにとっては瞳に涙を滲ませるほどの衝撃だったのかもしれない。あるいは単に、固いタイルに押しつけられた身体が痛くてたまらないのか。こんな年下の男に隙をつかれて組み敷かれていることが情けないのか。うごめく感情は見てとれても、その正体までは掴めない。ここに通うようになってからきっとずっと、何も掴めていない。ここでも、怖気づいてんのか、俺は。彼女を取り巻いている空洞が、何も寄せつけない透明な檻が、こわくて、虚しくて。

「俺もあのひとと同じように、どうせすぐに死ぬと思ってんだろ」

 自分でも震えを止める術が見つからなかった。名前も顔も性格も知らない、あなたの恋人。ただひとつ知っているのは、俺と同じ道を選択して、死んだということだけだ。

「……だから関わるだけ無駄だって、意味ないって……本当はそう思ってんだろ」

 彼女の腕をきつく拘束しながら、うなだれるようにその胸に向かって吐きだす。どんなに勝手だと言われようと、どんなに横暴だと言われようと、それはとても純粋な本音だった。だからこそどこにも逃げ場のない弱音だった。さんの目の際からはとめどなく細く涙が流れ続けている。悲壮な涙であれば見慣れているはずなのに、こんなにも静かにひとは泣くものなのかとぞっとした。これはきっと絶望の涙とは別のものなのだ。だとしたら、一体、どうして彼女は泣いているんだ。負の感情をいくら並べたてても、彼女を蝕む涙の理由に俺は絶対に触れられない。

「……なんか言えよ、なぁ、」

 あてどもない彼女の眼には俺の情けなく歪んだ顔が容赦なく映しだされるばかりで、なにひとつとして言葉を差しだしてくれやしなかった。あなたに答えを求めても、躍起になって自分を問いただしても、そんなものになんの意味があるだろう。分かっていてもこの手は、この足は、この口は、この衝動は、ばらばらになって脈略なく襲いかかるしか能がない。

 俺はあなたと二人になりたい。
 この焦燥を突きとめるため、この恐怖に抗うため、たったひとつのことを望んでいるだけなのに。









後編 →