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※ 高校二年生




 彼を甘やかすこと、甘やかせるということは、女の子にとってとてつもない贅沢だ。なぜなら彼はとても美しく、賢く、甘やかされるということに異常なまでに長けており、上質なクッションみたいに柔らかな感触と程よい反発を誰にも与えるだろうから。

<火曜日 PM3:40>

「及川、そろそろ起きなきゃ始まっちゃうよ」

 カーテンを引いて声を掛けるがこれくらいの警鐘で目を覚ましてくれるほど、彼の心根は純粋無垢なかたちをしていない。それがまた女の子たちの気に入るのだろう。もしかしたら誰も彼もがその憎たらしさを気に入るように、彼自身が世界を仕向けているのかもしれない。さあ今日はこの眠れる王子様をどうしてくれようか。おそらく精密に整えられているだろう肩や腕に直接触れるのはどうしても気が引けるから、ある時は手に持っていた参考書や文庫本で額を叩き、またある時は頭の下の枕を無理やり引っ張り抜いてしまう。顔半分まで被っていた備え付けのブランケットを押し退け、ちょうどこちらを向いていた彼の首筋に手を伸ばした。緩んだネクタイの結び目に指先を掛けてぐいと引き寄せてみると、穏やかに閉じていた半月型の瞼が強張り、途端指先の悪行を止めるべく彼の大きな手のひらが私の手のひらを覆い隠した。起き抜けの温もりが触れる、まどろむ視線と混ざり合う。幾度もの邂逅がその都度新しい、十数回目の午後三時四十分。

「……あと五分……」
「だーめー、私まで岩泉くんに怒られる」
「たまには一緒に怒られようよぉ」
「ご免です」

 及川の声が少し枯れている。効きすぎた冷房にやられたのか、どうやら今日はほんものの深い眠りに落ちていたようだ。仰向けのまま目を擦り、彼は小さくあくびする。彫の深い二重瞼が蝶の羽ばたきのように静かに、ゆっくりと上下する様は思わず見惚れてしまいそうになるほど見事だ。無造作に乱れた前髪も、だらしなく崩れた襟口も、偶然の産物とは思えないほど完璧に彼を縁取っている。たとえ限られた短いひと時であろうともこの類まれな見栄えの男の子を独り占めにしたい女の子はたくさん居るだろう。そう思えば一年のころから成り行きで任され続けている「保健委員」の仕事も、決して鬱陶しいだけのものではないのだ。

 去年の冬に体育館横に新しく保健室が設置されてから、渡り廊下から校庭に抜ける道すがらにあるこの旧保健室は殆ど使われなくなってしまった。今でもたまにかすり傷を作った運動部員が応急処置を求めに訪れたり、ベッドが足りずに溢れた病人がこっちに回されたりすることはあったけれど、ドアの横に常時「委員会会議中」の札(これは私が勝手に作ったのだけど)が掛かっているせいで、今や好き好んでここへ足を向けようとする者は誰も居ない。唯一人の不埒な生徒を除いては。

 及川徹は練習をサボるような男じゃないだろう。そんな奴が名門・青葉城西高校男子バレーボール部の主将なんか任されやしない。それなのに彼は毎週火曜日の放課後だけこの場所にやって来ては、飽きもせず不真面目なバレー部員を演じてみせる。お腹が痛いだの、熱っぽいだの、気持ち悪いだの喚いて、授業が終わってから部活が始まるまでの僅かな時間をクレゾール石鹸の匂いの染みついたこのベッドの上で過ごすのだ。春が過ぎ、夏が訪れ、秋が忍び寄ってきても、彼はこのわざとらしい悪癖を正そうとはしなかった。長期休暇明けの九月、いよいよ彼らの代が中心となって部を動かさねばならないという時期に差し掛かっているだろうに、この頃はむしろ悪癖がさらに悪化しているような気さえする。

「あーあ、ネクタイ取れちゃったや」

 えんじ色のネクタイの結び目は今や彼の胸元あたりで無残に絡まっていた。ごつごつとした長い指は意外にも繊細にはたらき、その結び目をあっけなく崩して一本の紐に還してしまう。一体どうするのかと思いきや及川はベッドの端に腰掛けていた私に向かって、これみよがしに解いたネクタイの先をちらつかせてみせた。

ちゃん、やって」

 予想外の簡潔な命令文が真白のシーツの上に突如飛び出してきて、私は内心穏やかでなくなる。その口元の薄ら笑い、余裕をたたえた睫の先。何度聞いても馴れ馴れしく彼が放つ私の名前は、甘い痺れを脳髄にもたらした。その都度別にどうってことない、という表情で彼を見遣るのはとても難しい。ちゃんと素っ気ないふりが出来ているのかどうか、短いひとときを積み重ねるほどに不安になる。

「えー自分でやりなよ」
「不器用だから出来ない」
「どうせすぐジャージに着替えるじゃん」
「今日これから遠征だし」

 だらしない格好で他校の門をくぐれないでしょ? 至極真っ当な意見をぶつけられて、私は良いようにまるめこまれる。どれだけ長々と押し問答をしようと最後には彼のネクタイに手を掛けることになるので、そういうときは適度に無駄口を叩きながら追い込まれてしまうのが良い。甘やかすということは、手厳しいふりをすることだ。
 彼の首筋に近付くと、微かな香料の匂いがふわりと鼻孔に届いた。「これなんて匂い?」。至近距離での沈黙を紛らわすために何気なく聞くと、「知らなーい。昼休みにクラスの子がつけてくれた」なんて沈黙よりも厄介な答えが事も無さげに返ってくる。間違えた、聞くんじゃなかった。ここでこうやって、一週間に一度だけ彼の眠りを妨げることやネクタイの結び目を作ることの特別は、昼休みの教室で彼と戯れながら愛用の香水をその首筋に降りかけることの特別に、果たして勝っているだろうか。私と同じ近さを許された女の子が、少なくとももう一人、いやきっと何人も彼の生活には潜んでいる。私にとっての特別も、及川にとってはきっと無為な日常に過ぎないのだ。

「……アンタさ、いつまでここでサボりごっこするつもりなの」

 聞いてしまえば二度と彼がこの場所にやって来なくなるような気がして抑え込んでいた問いを、誰のものとも知らない使い古しの香りを嗅がされた悔しさに任せて、思わず口走ってしまった。私は彼のことを、彼の部活動のことを、彼の毎日に満ちている喜怒哀楽のそれぞれを知らない。分からないのなら目を逸らせ。無知に無知で居続けろ。あるのはこの二人きりの無菌室と隔絶された午後の静けさだけでいい。そう思える自分だったはずじゃないか。
 うーん、と言葉を探しながら、あるいは感情を探しながら、及川の瞳が私を映しさまよっているのを感じて、わざと視線をネクタイに集中させる。私を値踏みする冷めた双眼を、決して捉えてはならないと思ったから。

ちゃんは俺のこと甘やかさないから、安心するんだよね」

 私の不意の不機嫌を見透かしているのかいないのか、さも他人事みたいに朗らかな調子で言い放つ。彼の舌先はとても嘘つきだ。甘やかされていることを、ちゃんとわきまえているくせに。慣れない作業と綱渡りのような会話のせいで無骨に歪んでしまったネクタイから手を放すと、それでも及川は「綺麗にありがとー」と言って、女の子なら誰でもとろけてしまいそうな微笑みをこちらに寄こした。そんな営業用の笑顔を私に向けないで。彼を責め立てるような角張った言葉が反射的に口を突きそうになって愕然とした。私の舌先も、大した嘘つきだ。









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