1 - 乱反射の午後

及川と岩泉のほんのり三角関係




 一見するとミルクのような白い液体から、フローリングワックス特有のツンとした嫌な臭いが漂ってきている。好きな奴はまさかいないと思うが、どうにもこの臭いにはいっこうに慣れない。自分でも分かるくらいのしかめ面をして、それでも仕様がなく手にしていたモップをワックスの入ったバケツに浸した。やるしかない。あと三十分ほどで任務を完了しなければ最終下校の時間を過ぎてしまう。

 PTA総会が午後にある今日は珍しく授業も午前中のみで終わり、午後一時の下校時刻を待たずして校内はすでに生徒もまばらだった。授業がなければ当然午後の部活動もない。そんなオフの日に何が悲しくて一人で理科室の掃除なんかしなければならないのだろう。HRが終わってさっさと教室を出なかったせいで、理科教師の担任に「公欠の埋め合わせ」という名のていのいい雑用を押しつけられてしまった。どうやら欠席中に行った小テストを免除する代わりということらしいが、こんなことなら大人しく再試を受けたほうが楽だったかもしれないと思う。あのやろう。どのみち俺に選択肢など、なかったが。

 インターハイ予選の決勝日からちょうど一週間が経った。六月に入ってしばらくが経ち、多くの生徒が夏服に袖を通し始めるころあいだった。おろしたての薄いグレーの半袖シャツに早くも汗が滲んでいく。閉めきった教室は光が射さないぶん外よりか涼しいが、湿気のせいか立っているだけでも汗をかいた。練習中とは大違いの、不快な暑さだ。その風通しの悪さにも、ワックスの臭いにも、この教室の薄暗さにも、あまりの静けさにも耐えかね、たまらず窓の鍵に手を掛ける。錆びついたサッシは滑りが悪く、なかば抉じ開けるようにして窓ガラスを引けば、なんとも耳触りの悪い音が理科室の内にも外にも大きく響いた。

「岩泉くん?」

 しばらく窓際で胸元のシャツを抓んでは煽いでいると、唐突に名前を呼ばれた。声の先を見遣ると、実験や観察に使う草花を雑多に植えた理科教員専用の花壇の向こう、石畳の階段の上に偶然にもが立っていた。ちょうど図書館棟から出てきたところだったのか、右腕に数冊の本を抱えている。俺と同じ、グレーの半袖シャツ。腰にベージュのカーディガンを巻いて、膝の上でスカートの裾が揺れている。あまりにも彼女が佇む世界が明るいので、まるで一枚の写真でも見ているかのように、その姿はどこか遠くて隔たりを感じた。


「やっぱり岩泉くんだ。そんなところで何してるの?」

 階段を数段降りながらがなんとはなしに尋ねる。半地下に位置しているこの教室の窓からは、それでもを少し見上げなくてはならなかった。

「ワックス掛け。担任曰く公欠の埋め合わせだとよ」
「5組の担任って……川原先生? そんなのあるんだ」
「な、埋め合わせが必要な公欠とか聞いたことねえよ」

 穏やかな笑い声がふわりとあがった。のこういう、屈託なく分け隔てのない反応が得意ではなかった。あまり深く介入してはならないと、サイレンが鳴る音が聞こえてくるような気がした。いつも。間抜けな、うーうーと鳴るばかりで実質的な解決策など何も提示してはくれない音だ。ただ鬱陶しいだけの、彼女の姿をその煩わしさと共に、脳裏にしかと焼きつけるだけの。

「手伝おうか。二人でやったら速いし」
「あー、いい、いい。構うな」
「遠慮しないでいいよ。どうせ暇だったから」

 いや、遠慮じゃねーんだけど……。さすがにそこまで邪険にはできないので、開きかけた口をそのまま閉じた。するとはその反応を肯定と取ったのか満足げににこりと笑うと、「今そっち行くね」と階段を駆け足で降りきり、あっという間に東館につながる鉄扉の向こうへ消えていった。揺れる艶やかな髪の毛も、華奢な白い腕も、派手さはないが間違いなく美人系のアクなく整った顔立ちも。いかにもあいつが横に置いておくことを好みそうな、清廉で澄んだ印象を受け手に与える。ちやほやされたい部類の女と、ちやほやしたい部類の女は、きっと選りどりみどりの男にとっては全く別ものなのだろう。今しがたの写真のような一瞬を脳内でなぞりながら、意地悪くもそんなことを思った。

 一度も同じクラスになったことはないのだから友達ではないにしても、本音を話すことなどさらさらないにしても、社交辞令ばっかり言って何の手応えもない会話をするような仲でもない。とはそういう間柄だった。それはたぶん、が俺のことを随分昔から知っていて、飽きもせずに見続けているからだ。もちろん正確に言えば俺の隣にいる及川を、だが。要はファンみたいなものだ。いや、ファンみたいなものだった。彼女はもうそういう目であいつのことを見ていないだろうし、見てはいけないとすら思っているのかもしれないとふと感じるときがある。表向き何も変わっていないかのように振る舞っているのが、なおさらに。



 一分も経たないうちには理科室の扉を勢いよく開いて現われた。ちょっと駆け足になっただけだろうに存外にも彼女は息を弾ませていた。開けひろげた窓から吹く六月のそよ風を受けて、「ここ、涼しいね」なんて呑気に何でもないことを言ってはまた笑う。その額には前髪がほんのりと貼りついていた。

「そんな急ぐ必要なかったろーが」

 そもそも誰に頼まれていることでもないのだから。なかば呆れながらそう言って、教室の奥にずらりと取りつけられた流し台に歩を進めた。ワックス掛けついでに洗い終わってそこに出してある試験管だのビーカーだのを棚に戻しておけ、と言われていたことを思い出したのだ。
 手に取った試験管は水の雫ひとつもなく、自然光を受けてすっかり乾いていた。洗い残された薬品と蝋の跡に手を触れる。お世辞にもきれいさっぱりとは言えないが、それはもうこびりついて取れなくなってしまっていた。

「あ、厄介なのに掴まっちまったって、思ってるんでしょ?」
「正解……って、自分で言ってりゃ世話ねぇな」

 指のはらを薄いガラスに這わせながら、特に何もものを考えずに言葉を発してしまった。理科室は依然として鬱陶しいくらいに静かだった。誰も居ないのに、なぜか二人が居る。駆け上がる悪寒が心をざわめかす。口は災いの元とはよく言ったものだ。すぐさま振り向いて、慌てて取り繕ったところでもう遅かった。

「悪い、いや、でも、今の冗談だからな?」

 自分でも何を言っているのか分からないがとにかくしどろもどろになりながら弁解すると、はその慌てようが可笑しかったのかくすくすと笑った。少しだけほっとする。けれど、それ以上にやはり要らぬ気を遣わせてしまった後悔のほうが大きかった。

「うん、分かってる。ごめんね、私こそ馴れ馴れしかった」

 分かっている、の一言に心を見透かされているようなおそろしさを胸の片隅で覚えた。次の言葉を考えあぐねているうちに彼女の足音が近づいてきて、手に持っていた試験管をひょいともぎ取られる。爪先が触れあったことになんて今さら動揺しないはずなのに、こんな話題の後だと、いつもと違う熱がそこにこもっているということに気づいてしまう。が俺の顔を覗きこんでいたずらっぽく笑った。気まずさはこれで終わり、と句点を打つように。

「私がこっちやるよ。向こうに運んじゃえばいい?」

 はてきぱきと試験管立てを数個一気に両手に抱えて持ち上げた。そのとき、半袖シャツの袖口の隙間から、見てはならないものを見てしまった。思わず、目を見張る。それはまるで手のひらで彼女の華奢な二の腕をぐるりと締めつけたような、紛れもなく痛々しい青紫色の痣だった。

「おい、その痣どうし……」
「えっ、あ、」

 彼女の一瞬の動揺が、俺が無意識に伸ばしてしまった腕のせいだったのか、その痣について口走ってしまったせいだったのかは分からない。ただその「あ」という声と共に、彼女の手からはするりと試験管立てが抜け落ち、不確かなあれこれに思いめぐらしている余裕などなくなってしまった。ガラスが千々に割れる盛大な破壊音が耳をつんざく。まだワックス掛けの終わっていない少々埃っぽい床に散らばった粉々のガラスは、薄暗い理科室の中で窓から届く弱い陽を浴びながらうるさく輝いた。不規則に光を揺らす、一ヶ月気の早い天の河。もちろん何も願いなど聞き入れてくれはしないけれど。

「どうしよう……ガラスが、」
「おい馬鹿、触んな!」

 咄嗟に叫んだが手遅れだった。床に剥きだしの膝をついたは、すぐさま顔を歪めて膝を浮かせた。ガラスの破片など大した凶器にはならないが、軽率に皮膚に傷をつけるからやはり厄介なものだ。徐々にその右膝に鮮やかな赤が滲んでいく。言わんこっちゃない。溜め息をひとつついて、上履きで周囲のガラスを雑に払いのけながら、仕方なくの隣にしゃがみこんだ。たまたま絆創膏をズボンのポケットに持っていたことを思い出して。

「……ほら、貼っとけ」

 かろうじて一枚あったそれを、の目の前に差し出した。反応は無かった。俯いたまま、柔らかそうな髪の毛を顔を覆うように垂らして、は無言のままでいる。その細い肩はかすかに震えていた。

?」

 名前を呼ぶとはびくりと大きく背中を揺らして、我に返ったように顔を上げた。見上げられれば思った以上に至近距離にの顔があって、一歩下がりたくてもしゃがみこんでいてはそうもいかない。結果、不自然に目を逸らすしかなかった。の黒目勝ちな瞳に映しだされるであろう自分を見るに耐えないと思った。

「ご、ごめん。岩泉くんがこんなの持ってるなんて、びっくりしちゃって」

 は慌てて絆創膏を受け取った。そんなふうにあからさまにあたふたされて、訳も分からないのに知らないフリを強要されてるこっちの労力も考えろ、と思う。理不尽かもしれないが。

「まあ、貰いモンだけどな」
「女の子からの? 可愛い柄だね、これ」

 ほら、ピンク色だし。と、はちょっと茶化すように付け足す。この間の練習中に爪が割れた際に、おそらくは女から貰ったのであろう及川から「いっぱいあるからあげるー」と余分に譲り受けたものだとは、どうしても言えなかった。

「……なんだっていいだろ。黙ってさっさと貼れ」

 しゃがみこんだ体勢のまま、試験管立てを拾い集め、近くに転がっていたちりとりで適当にガラスの破片をひとところに集める。何本割ったらこんな見事なガラスの山が築かれるのか。これはあとでこっぴどく担任に絞られるだろうし、もはや下校時刻までに仕事を終えることも不可能だろう。しばらく無言で手を動かしていると、やがてちりとりの硬いプラスチックが床と擦れる不快な音に混じり、肩の左側で鼻をすするような湿っぽい音が聞こえた気がして、ふと手を止めた。何事かと視線を遣ると、がしきりに指先で目を擦っていた。ぎょっとする。まさか、泣いたのか?

「そんな痛い……」

 わけねーだろ、と顔を覗きこんだ。心臓がありえないほどうるさく鳴った。愚かな行いをしたと即座に気がついて、消えたくなった。
 こんなカオをするは、初めて見た。まるで何かと戦っているような、怯えているような、感情を必死に押し殺しているような。辛く潤んだ瞳も、震える赤い唇も、今までどこでだって見たことも触れたこともないものだった。それしか逃げ方を知らないから、慌ててまた、目を逸らす。気づけばの手から絆創膏を奪って、その馬鹿みたいに平和なキャラクター柄で彼女の膝に滲んだ血を塞いでいる自分がいた。これ以上、このままでいてはダメだと思った。ただでさえ噛みあっていなかった歯車が、取り返しがつかなくなるくらい、おかしくなる。

「……、なんなんだよ……」

 何もかもがたよりなく、何もかもが分からない。分かる権利も与えられてない。それでもどこかで知りたいと、知ろうとしている、そんな自分に嫌気がさした。じめじめとした空気も、そよ風も、誰もいないのに二人がいる静けさも、ワックスの臭いも、五感だけが鋭い、仄暗い銀河の果て。息苦しくてネクタイの結び目に手を掛ける。真昼の闇に目が眩む。海にも宇宙にも理科室にも、酸素なんてとうにない。
 ぐしゃぐしゃに潰れたありがとうもごめんねも、呪わしいほど聞きたくなかった。









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2014.5