2 - 青が眩む




 腕に滲んでいる青。暗い青。隠しておきたいのに、二人だけの秘密にしていたかったのに。真夏を控えた太陽は容赦なく私を責めたてる。美しい薔薇には棘があるように、二人をつないだこの青い花もまた、痛々しい。

「どーした、寝不足か?」

 後頭部を軽くはたかれて、腕に埋めていた頭をもたげると、呆れ顔の花巻が丸めたプリントを手に持って後ろ向きに椅子に座っていた。どうやらいつの間にか授業は終わっていたようだ。ベリーショートの明るい茶色の髪に、男の子にしては白い肌、そしてライトグレーのシャツのコントラストが絶妙に眩しくて、寝起きには殺人的な気がする。重たい頭をなんとか動かして周りを見渡せば、女子も男子もみんな仲良く夏服の半袖シャツを着ていた。もう、六月も半ばだ。朝っぱらから二十五℃を超える暑苦しさだというのに、七月に入るまでは冷房をつけずに窓全開で机に向かうことを強いられているのだから、半袖になるのも当然だろう。

「てか暑苦しいな、お前」
「……私はこれでちょうど良いの」
「見てるこっちが汗出てくんだけど。なに、派手なブラでもつけてんの?」
「余計なお世話ですー」

 透けたら大変だもんなあ、赤チェック。にやにや笑ってさらりとセクハラをかます花巻を睨みつけながら、居眠りで着崩れたベージュの綿のカーディガンを、うだるような暑さの中で着直した。私だって本当はこんな鬱陶しいもの脱いでしまいたいし、別に派手な下着なんてつけてないんだからそんな心配もしなくていい。だけど、今はまだ勇気がなかった。気づかれてしまったから。泣いてしまったから。ワックスの尖った臭いがたちこめる、理科室で。あれ以来、肌を露出するのが妙にこわくなってしまった。完全に消えてしまうまではとためらっているうち、もう本格的な夏が来る。季節は私のためらいなどお構いなしだ。

「そういや、最近どうよ」

 唐突な質問に、無駄な眠気はどこかへ引っこんだ。「どうよ」と問われて心当たりのあることなんて、ひとつしかない。カーディガンの内に不健康な熱がたまるのと冷や汗を流すのは、似たような嫌な心地がした。

「どうって……何が」
「だから順調かどーかっつー話だよ、うちのセッター様と」

 花巻はコンビニの袋からチョコチップメロンパンの袋を取り出して豪快に開いた(この男、大男のくせして女も顔負けの甘党なのだ)。まだ二限終わりだというのに、男の子の食欲は夏といえども衰え知らずらしい。菓子パン生地とチョコレートの甘い甘い匂いを嗅ぎながら、心の奥のほうで憂うつな気持ちが体積を増してくるのを感じた。「セッター」という単語のしなやかな力強さに、失ったものの全てが乗っかっている。あんなに心の内側を洗い流してくれた美しいフォームも、やわらかな手足の動きも、今はもう胸を焦がすだけなのだから。甘ったるい、チョコレートのように。



って、本当に及川のこと好きなんね」

 二年の冬のことだった。あのときも花巻は、「及川徹、その超高校級の実力」とか「強豪・青葉城西の要」などと書かれた記事をスクラップした私のノートを興味なさそうにめくりながら、唐突にそんなことをぼそりと呟いた。花巻とは一年のころから持ちあがりのクラスメイトで、何度も何度もバレー部の試合に足を運んでいるうちに自然と教室でも他愛無い会話をする関係になっていた。思えば初めて声を掛けてきたときから、こいつはいけすかない男だったのだ。「及川目当て?」と、ド直球で聞いてきた。おかげで第一印象は最悪だったけれど、そのぶんそれ以上に幻滅することも苛立つこともなく、今でも彼のこざっぱりとした「いい性格」と付き合えている。

 青城への入学を控えた春休みに、私は及川徹のことを知った。長いこと憧れだった青城の制服を近所の洋品店で受け取り、あの日の私はつい浮かれた気持ちで作りたての制服に袖を通して青城の門をくぐった。少し自分には派手すぎるかなと思っていたクリーム色のブレザーも、淡いベージュとブラウンのタータンチェック柄のスカートも、着てみると思ったより身体に馴染んで胸が高揚したのを覚えている。陸上部の練習風景を見ながらあてどもなく校庭をぶらぶら歩いていると、第三体育館からざわめきが聞こえてきて、気づけば吸いこまれるようにして体育館に足を運んでいた。あれはきっと、スポーツ推薦入学で既に入部が決まっている新一年生を中心としたミニゲームだったのだろう。彼の姿を一目見て、体育館がどうしてこうも華やいだ声に包まれているのかすぐさま理解した。そして彼のプレーを一目見て、私はおそらくこのひとを好きなってしまうだろうとぼんやり思った。それほどまでに彼は圧倒的だった、何もかも、ひとを惹きつけるという点において。

「紹介してやろうか」
「え、」
「だからさ、代わりにあの子紹介してよ。ほら、たまに一緒に練習観に来てる子いるっしょ」

 俺あの子結構タイプなんだよね、と聞いてもいないのに続ける花巻の呑気な声を右から左へと流しながら、生まれて初めて衝撃に眩暈するということを覚えた。



 あのとき、花巻の申し出を断ることもできたような気がする。そうしたら私は今も、せっせと及川の載った記事を切り抜いてはファイリングして、「好き」の感情に区別なんかつけないまま、欠かさず試合を観に行く日々を続けていただろう。バレーボールの軌道を鋭く射抜く彼の瞳と、私のことを見つめる彼の瞳。巧みにボールを上げる彼の手のひらと、私の頬を滑る彼の手のひら。とても同じものとは思えない。同じ人間だとすら思えないこともある。そんなふうに言ったらさすがの彼も少しは傷つくんだろうか。私に、傷ついてくれるんだろうか。想像もつかない、なんとも甲斐のない物騒な空想だ。

「別に……、ふつうだよ」

 きゅ、と右の手のひらで左の二の腕をカーディガンの上からさする。それはまるでこの暑さの中でも寒がっているかのような仕草で、花巻はちょっと怪訝そうな顔をした。

「言えないってことか。あらま一体何してるんでしょうね、この子ったら」
「だからー、余計なお世話なの、花巻はいつもさあ……」
「おーこわ」

 口ではからかうようにそう言いながらも、彼は大して怖がりもせず、悪びれもせずに、なんだか惰性のようにメロンパンを頬張り続けていた。



さん、だよね」

 柔らかく耳に絡みつく、独特の優しい声。至近距離で耳にするそれは、その声を通した私の名前は、確かに想像することの叶わなかった現実そのものだった。身体じゅうが同じように震えていた。声までもが揺れてしまいそうで、言葉はおろか息をするのでさえ精一杯の私に、彼は存外、優しかった。ああ、そうだった。ここは体育館じゃなかった。コートの上じゃなかった。試合を観たり、雑誌の切り抜きを集めたり、勝率やスコアなんて計算していたって永遠に分からないものが、彼とのあわいには横たわっていた。

 花巻と私の友人はこっちのことなんてお構いなしの様子で、ソファの向こう端で楽しそうに談笑していた。誰も歌う気配のない薄暗い個室で、勝手に切り替わるテレビ画面の光がぱらぱらとむなしく不規則にテーブルの上に落ちる。いくら視線を外しても容赦なくこちらを突き刺さしてくる瞳に観念して、意を決して見据えた。すると彼は見事な造形の顔をほころばせて、なんともあまやかな笑顔を作ってみせた。完璧な、どこにも隙のない表情を。

さんは、俺のこといっぱい知ってるの?」

 ひとおもいに首を横に振ってしまいたかった。この距離でしか分かりえないことがあまりにも多くて、知らないことだらけで、色気もかわいげもくそもなく泣きだしてしまいそうだった。だけど、そもそも私は彼の何を知ろうとしていたのだろうか? むしろ、私は彼について何かを知りたかったのだろうか。私はただ、ただ彼を見ていたかっただけのはずなのに。不都合などどこにもない、あの明るさに満ちた場所で。こんな薄暗い、カラオケボックスの中なんかじゃなくて。



「あれ、岩泉」

 その名前を耳にして反射的に花巻の目線の先を追ってしまった。3組の教室のドアのところに、ネクタイをしていない半袖シャツ姿の岩泉くんが立っていた。自分の教室ではなくても岩泉くんは全く遠慮などせずにずかずかと中に入ってきて、おまけに私たちのほうへと近づいてきた。目が合ってしまいそうで、慌てて目線を下げる。何を緊張しているのだか知れないが、気づけばあの眼には掴まりたくないと思ってしまっている自分がいた。

「珍しいな、どうしたよ」

 近づいてきた足音の主が、花巻の朗らかな声と共に私の真横で立ち止まった。

 まさか自分の名前が呼ばれるとは思っていなかった。何用かと岩泉くんを見上げると、彼はぶしつけに小さな包みを差しだして私の机の上に置いた。タワーレコードの黄色い袋に、角張った四角いかたち。中を確認すると、そこに入っていたのは数枚のCDだった。

 あの理科室での一件以来、岩泉くんと話す機会が何度かあった。大量の試験管を割ってしまったことで岩泉くんに多大な迷惑をかけてしまったし、その埋め合わせで何度か学食で彼にご飯を奢ったりもした。もちろん弁償替わりのペナルティ(これは学級文庫の整理と黒板消しクリーナーの洗濯だった)にも付き合ったし、その過程でそういえばあの新譜が気になるだのこんな曲が聴きたいだの、言ったような気もするけれど、もしそれを覚えてくれていたというのなら彼は大した記憶力の持ち主だと思う。持っているから今度貸してやる、などとは一言も言っていなかったはずなのに。

 結局、絆創膏の下に埋もれた膝の切り傷はすぐに跡形もなく消えたけど、腕に残る青痣は依然としてその忌まわしい存在を誇示し続けている。痛みは引いても、なかなか事実は消えてはくれない。傷も痛みも内側にあればあるほど、ずっと残ってしまうものだから。

「キッチリ一週間。延滞料金取るからな」
「え、ちょっと」
「そうだ花巻、ジャージ貸してくんね。忘れた」
「学ジャー? ロッカー入ってっから、勝手にドーゾ」
「悪いな。洗って返す」
「ちょ、」

 岩泉くんは花巻との会話をあっという間に切りあげて、さっさと教室後ろのロッカーのほうへと歩いて行ってしまった。私のことなどまるで置き去りにして。言うだけ言って、渡すだけ渡して、もちろん気になっていたCDだからありがたいのだけれど、お礼すら言わせてもらえないし、おまけに一週間で延滞料金って!

「……けち」

 うなだれるようにして机に頭を預ける。斜めになった視界の中で、岩泉くんは花巻のロッカーを開けて、そそくさともう3組の教室を出て行ってしまった。なんて強引なのだろう。どっと疲れてひとつ溜め息をつくと、花巻はメロンパンの最後のひとかけを口の中に放りこみながら楽しげに含み笑いをした。

「ケチか? あいつが女に物貸すとこなんて見たことねえけど」

 なんて返したらいいのか分からないし、そこにどんな意味がこもっているのかも、どんな受け取り方をしたらいいのかも分からなかった。花巻にしてみればチームメイトをフォローしているだけなのかもしれないけれど、そしてあのときだって、ただ単純に私の切抜きのノートに感心しただけなのかもしれないけれど。花巻はいつだって良くも悪くも目ざといのだ。あんなことをしている女の子なんて、彼は山ほど見てきているだろうに。

「……ねえ花巻」
「ん?」
「どうして花巻は私に及川を紹介したの」

 頭を上げてそう問うと、いきなりだな、と花巻は苦笑しながらペットボトルのお茶を飲んだ。彼は困ったように眉を下げて笑うのが、実はいちばんかっこいい表情だと思う。絶対に言ってはやらないけれど。

「何、余計なお世話だった?」
「そうじゃないけど……」

 意外な切り返しをされて口ごもってしまうと、その正直すぎる反応に花巻は吹きだすみたいにしてけらけら笑った。頬にかっと熱が集まる。もういい、今のなし、忘れて。そう言って逃げようとしたら、花巻の手が突然ぽんぽんと私の肩を叩いた。早まるな、聞け、とでも言うように。

「まああれだ、俺は善良な恋のキューピットなわけよ」
「……どこが? 下心みえみえだったじゃん」

 花巻ってたまにいきなり、わけの分からないことを真顔で言ったりする。ひとをわざわざ会話に引きとめておいて何がキューピットだ。あからさまに女目当てだったくせに。花巻はひとの机の上に勝手に片肘をついて、わざとらしく声をひそめた。それはまるで噂話でもしているみたいな素振りだった。

「脈のない女をわざわざセッター様に紹介したりしねえよ、ってこと」

 あいつの隣って、お前の思ってる以上のハードルよ? どうしてだか花巻は得意げな様子でそう言ってのけた。頬に集まった熱がなかなか元に戻らない。男の子同士の会話の欠けらに触れてしまったみたいな気持ちになって、指先が痺れたような心地がする。花巻はもう何も言わなかった。私も何も言えなかった。知らないことの全てを知り尽くしたくて、知っている全てを決して失くしたくなくて。そんな自分を自分自身から隠したくて、目を閉じた。青く塗りつぶされた視界のなかで、寝たふりをしたまま、間もなく三時間目の始まりを告げるチャイムが鳴るだろう。









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2014.5