ex - 光の河

※ 「月の河」のラストの続き




『私たちは今、七月の仙台の夜空を見上げています。夏の夜空はたいへんにぎやかです。太陽が沈み、次第にあたりが暗くなってくると、三つの惑星、大小さまざまな夏の星座たち、そして雄大な天の河のきらめきが、私たちの目に飛びこんできます。……』

 十七歳の真冬に、夏の盛りの夜を二人で眺めている。あの星々が満天にひろがる、彼が生まれた季節のことを思う。七月の宵の空。それは、今の私には途方もない未来予想図のように思えた。星のめぐりは不変だ。人間にはどうすることもできない。放っておいても恨めしいほどに規則正しく、星たちは頭上に現れては消えてゆく。佇む夜の憂いのなさが、惑いのなさが、私たちの手もとにも届けばいいのに。あの軌道が欲しい。あの軌道に乗って、裏側の季節まで、私も星の正しさにまぎれて、運ばれていくことができたら。

 耳もとでほとんどささやいているような声がした。驚いた。その近さよりまず先に、初めてその声を通して、自分の下の名前の響きを知ってしまったことに。顎を引いて、小さな丸い夜空から目を離す。闇のなかで彼が見ていたのは星の映しではなかった。彼は私を見ていた。こんな暗がりでもしずくのような光を溜めて、及川のふたつの瞳がとろりと瞬いていた。

「……えっ」

 俯けば俯いただけ、光は追ってきた。幼いとき不思議に思った月明かりのように。だけど、遠ざからないぶん近づきもしない天体の正しさは、彼にもない。私たちの距離はむざんにもひしゃげて、美しい軌道など描いていられない。たった数秒。星を蹴散らす、ひとの醜さが、滲んでいく。
 そして何も、見えなくなった。



 今どこにいるの、と、今どこにいるのか分からないひとから連絡があったのは、昼の十二時を少し過ぎたころだった。もともと寒さには強いほうだったけれど、また新しい我慢強さを、自分のなかに見つけてしまう。終業式の日の下校時刻は早く、体育館前のピロティーはすでに静まり返っていたから、遠い足音でもまるくなった背中はすっと伸びた。振り返ると、足音に気づいた私に気づいて、及川は手を振って足どりを速めた。及川。及川徹。数日前、私に、「よかったら、彼女になってくれませんか」と言ったひと。

「ごめんね、こんなところで待ってもらって。寒かった?」

 そんなさりげない言葉が未知の感触を胸にもたらす。そんなさりげない言葉さえも、交わしあうに足る関係を今まで持っていなかったから。放課後の時間を彼とともに過ごすのは、これで三度目のことだった。なんの障害もなく、何もかもいやになるくらいに澄んでいる。ずっと、まともに話したことなどなかったのに、こうして面と向かってみると、私の今までの行為はすべて恥知らずな告白のようなものだった。今さら確かめることなど、ない。彼が私に委ねる選択はいつも、ひとごとのように決まりきっている。

「うん、寒かった」

 たっぷりと巻いた毛編みのマフラーを指先でつまんで、せいいっぱいを悟られないように及川を見上げる。彼は、少しだけ目を見張って、私と同じようにタータンチェックのマフラーを指でわずかに剥いだ。あらわになった薄い唇が、穏やかな笑みをかたどっている。

「それは失礼いたしました」

 けど、俺もけっこう手冷たいかもなあ。そんなふうに言葉をつないで、彼はコートのポケットから手を出すとなんとも自然に私の左手をすくいとった。手と手が触れあう。手を、つないでいる。二人にとっては初めてのことなのに、むろん、彼の仕草には慣れがある。流されるまま彼の手ほどきに迎え入れられて、なんの甘さも、なんのいじらしさもない、砂を噛むような困惑が喉もとにせりあがってきた。

「そういうつもりじゃ……」
「俺が、こういうつもりなの。駅まで、いい?」

 こうしてまた、頷くしかない問いが降ってくる。嬉しくないわけではないのだけれど、嬉しいと思う自分が自分のなかに折り重なっていくことがこわいのだ。
 私たちはピロティーを横切って正門を出てすぐの坂をのぼり、駅までの道のりを手をつないで歩いた。下校時刻が近くてよかった。人通りが少なくてよかった。こんなの誰かにじろじろ見られたら、とうてい生きた心地なんてしなかっただろうから。

 青葉城西の最寄りの駅から二駅ほど市街へ出たところに、大型のショッピングモールがある。たいていのものがここで揃うし、たいていのことがここで済ませられる、少し味気ないがありがたい施設だ。青葉城西に通う生徒なら、一度はここで寄り道をしたことがあるだろう。月曜日の昼間のモール内はのどかに空いていて、私たちは適当な飲食店に入って昼食を済ませた。及川はそんなに量を食べなかったし、私はもっと食べなかった。食べられなかった。なんの話をして、数十分の向かい合わせをやり過ごしただろう。やり過ごす? でも確かに、そういう気分だった。

「まいったな」

 飲食店を出て吹き抜けのエントランスにそびえる華やかなクリスマスツリーを眺めながら、エスカレーターに乗って階をのぼっていく。モールに併設されている映画館では、数週間前に封切りになったラブコメディ映画がまだひっそりと上映していた。色とりどりのポスターがロビーの壁を覆うように幾枚も貼られている。その無秩序さに目を回しているとき、チケット売り場のタイムテーブルの表示を見上げながら、彼が一言呟いた。手をつないだときからずっと浮ついていた足の先が、その一言でようやく地に着いたような気がした。一緒になって、見上げる。マル、マル、マル、マル。満員を示すバツ印はどの映画のどの回にも見当たらなかった。

「……どうしたの?」
「ごめん。調べてたのが昨日までのスケジュールだったみたいで」

 どうやら問題だったのは残席数を示すバツでもマルでもなくて、映画の開始時間のほうだったようだ。週のはじめの月曜日は、週末までの上映予定が切り替わることも少なくない。私たちが観るつもりだった映画はもう公開されたからずいぶんと経っていて、日に二回しか上映されていなかった。掲示をよく見てみると、そのうちの一回は午前中に終わっていて、もう一回は今から二時間後に始まる予定になっている。

「とりあえず次の回のチケット買って、またどっか入ろうか」

 ちょうどいい時間の、ちょうどよさそうな内容の映画はほかにない。すらすらとそらで私を導いていた彼の周到さが揺らいで、本人はとても申し訳なさそうだったけれど、私にはそのよどみがありがたいような気がした。ずっと流されるようにしてここまで来てしまったから。だからなのか、また落ち着きを取り戻して淡々とチケットカウンターに歩きだそうとしていた及川を、私はつい考えもなしに制して止めてしまった。彼のピーコートの裾を引っ張るようにつかんで。

「及川くん」
「うん、なに」
「やっぱり今日、映画やめない? 待ってたら、遅くなっちゃうし……」

 あと二時間も彼と何を分かち合ったらいいか見当もつかなかったし、何より私たち、どうしても映画が観たかったわけじゃない。そんなの承知のうえで、あたりさわりのない通過儀礼のようにここにいる。終業式と同じようなものだ。始まったり、終わったり、区切りをつけないと先には進めない。及川が、コートをつまんでいる私の手を見おろして、それから私の目を見据えた。表情を纏っていなければ、迫力のある冷たい感じのする切れ長の眼だ。私はすぐさま出過ぎたことを察して、コートの裾から指を離した。

「俺もう、さんに嫌われちゃった?」

 意外な言葉を飲みこむように、まばたきをする。見透かせるものなんかなくても彼には手に取るように分かるはずだ。自分がどうして、どのくらい、相手に好かれているのか。それなのにそういう言い方をして、眉を下げる。何を問われているのか私のほうこそ分からない。彼の露わにしているさみしさが、自由に貼ったり剥がしたりできるシールのようなものならば、それでいい。うわべだけの、つくろうだけの、仮面のようなものならば。だけど、彼のそれは違う。彼はけっして、巧みな詐欺師ではない。嬉しい顔をすればそこには嬉しさが、さみしい顔をすればそこにはさみしさが、いくばくかのほんとうが芽生えている。隠したりはぐらかしたりするのが、上手なだけで、きっと。

「あっ、あれ、どうかな。ここから少し歩くけど……」

 ほとんど苦し紛れに指をさしたのは、ロビーの壁に貼られた一枚のポスターだった。チケット売り場近くの壁伝いには映画のポスターに紛れて、モール内のテナントを宣伝するポスターや、近辺のイベント情報を知らせるような掲示もある。そのくすんだ青いポスターは、駅からやや離れた場所にある市営の天文台のものだった。馴染みはないが、一度、中学校の課外授業で足を運んだことがある。目に留まったのは、あてにしていた映画の上映時間よりかは今の二人にとって都合のいいタイムテーブルが記されていたから。及川はきょとんとした顔でポスターに近寄り、やや腰をかがめて小さなポスターの小さな文字に目を通した。

「プラネタリウム? へー、さんこういうの好きなの?」
「ううん、ただの思いつき」
「正直だ」

 及川が息をもらすように笑ってくれて、どうにか強張っていた胸が溶けていく。太陽にも、月にも、星にも、興味や知識があるわけじゃない。だけど、彼のとなりでよくできたラブストーリーを傍観するよりは、ただの光の点滅にすぎない箱庭の夜空を見上げるほうが、いくぶんか楽な気持ちになれるような気がした。ゆっくり私を振り返ったとき、及川はもう、いつものそつのない滑らかな表情だった。初めて私から発した提案に、初めて彼が頷く。こんな小さなことで、ようやく、何かが通じあう。何かを半分ずつ。何かを、二人のあいだに孕んで。

「いいよ、行ってみよう」

 そして、今度は手を取るのではなく、私を導くように、及川はその大きな手を差し伸べた。



『……先ほどご紹介した、青く輝くこと座の一等星、ベガ。白く光るわし座の一等星、アルタイル。このふたつの一等星が、かの有名な七夕伝説の織姫と彦星です。そして二人の恋仲を引き裂くように、淡い光の帯が空に架かっています。これが天の河。無数の星々の集まりです。……』

 がらがらの客席に向かって、ナレーションは淡々と語りかけてくる。ドーム状のスクリーンがめくるめく夜空の神話を映している。興味も、知識も何もないなりに、熱心に解説を聞いて、食い入るように闇を見上げていたのに、すべて台無しだった。遠く、むしろ遠ざかっていくように、星たちの物語が鼓膜からフェードアウトしていく。夏の夜空は水をぶちまけたように滲んで、意味を失った光の粒は、なんの気晴らしにもならない。泣いているのだと、気づかれたくなかった。だけどたぶん、それはむりだった。浅い呼吸のなかに少しずつ涙を押しこめて、顔を崩さないでいるのがやっとだった。

「さっき、ごめんね。突然」

 数十分の上映が終わって、私たちは館内のカフェスペースに腰掛けると自販機で買ったホットコーヒーを飲んだ。流行りの映画を観たあとのように、楽しく感想を言い合えるような内容じゃない。それに、私の内側に溜まっていたのはそもそも星屑のように美しいものではなかった。あんなの、なかったことにされるのかと思った。手をつなぐのも、キスをするのも、彼にとっては当たり前だから。初めてではないから。律儀に「ごめん」と言われると、堪えてしまった涙のなごりのせいでぼうっとしている自分が、途端に可笑しい。女の子に口づけて、彼ともあろうひとが、ごめんだなんて。

「及川くん、今日、あやまってばっかり」

 笑ってしまうと、気持ちがすうっと落ち着いた。ガラス張りの窓の向こうを見遣ると、午後四時を過ぎて、冬の空ははやくも暮れかけている。間もなく冬至を迎える師走の空は、ついさっきの作りものの夏の夜空のように上手に澄みわたってはいなかった。一面、灰の色。及川が私のすぐとなりで、私に釣られたように笑う。少し遠慮げに、結んでひらいた唇。何度もごめんと口走った唇。一度だけ私を攫った唇。何をしていても、苦しいほど、きれいなかたちの。

「ほんとだ。ダメな彼氏だね」

 彼氏。彼女。彼ははっきりと、その言葉をつかう。彼氏。彼女。別の言葉をはっきり口にするかわりのように。長い脚を組みかえて、及川も私と一緒になって暮れていく空に視線を投げた。なんにも物珍しいことなんてない。なんの目的もなく空を見つめるというのは、考えてみれば、不思議なことだ。

「夏になったらさ、一緒に本物を見に行こうよ」
「ほんもの?」
「そう。さっきの、天の河」
「……見れるかなあ」
「見えるよ、きっと見える。晴れたらいいね、七夕」

 そうじゃなくて。そういう意味じゃなくて。天気なんかよりずっと気まぐれな、あなたの自由を誰もつかみきれないでいる。すると、私の不安を言い当てるように、及川はふっと目を伏せて、朗らかにこうつけたした。

「なんでかな。俺、とはうまくやれそうな気がするんだよ」

 もう、充分だった。それが彼の優しい本心なのか、彼のお決まりの常套句なのか、三度目の放課後もぎこちないまま過ぎようとしている私には、けっして預かり知れないにしても。
 七月がめぐり、ほんとうの天の河が見えたら、そのとき、その季節、天空を渡る光の河を二人で見上げることができたなら、またあのちゃちないたずらを私に仕掛けてくれたらいい。二人を引き裂く天の河のきらめきに目が眩んでしまうその前に、あなたの軽々しい気まぐれで私を塞いでくれたらいい。
 遠い光なんて、要らないの。









←backtop|end.

2016.7.20