ex - 月の河

※ 高校2年生|花巻視点




「あの子と付き合ってるの?」

 及川の気怠そうな視線の先に、人ごみに紛れながらついさっきまで他愛のない雑談を交わしていた顔馴染みのクラスメイト。高い天井に反響する不規則な声の波は騒々しく、公式戦前の体育館は独特の緊張感とあわただしさに満ちている。俺の知る限りそれは、一年の春から欠かさず試合を観に来ていたに対して、その視線を一手に受ける張本人が初めて一抹の興味を示した瞬間だった。

「ないない、はお前一筋だから」

 なんの考えも邪念もなく、不意にこぼれたのはそんな言葉だった。分かりきっていることだと思っていた。決まりきっていることだと思っていた。けれども言葉とは感情に与えられる最上のかたちなのだ。分かりきっていることを、決まりきっていることを、それ以上の真実に押しあげてしまう。なまぬるい風が開けひろげた窓から窓へと吹きぬけて、ジャージの下に着こんでいたおろしたてのユニフォームが裸の胸にはりついた。あの居心地の悪さと、軽率さと、及川の冷めた横顔が、いつまでもこの指先に掬いとることができないでいる。どうあがいても届かないのだ。瓶詰になったあの何でもない初夏の日の、いっとう底のほうへと沈みこんで。



 ひたすら部活続きの短い夏休みが明けると、今年は秋が訪れるのがずいぶんと早かった。まだ少しタンスの防臭剤の匂いが残るカーディガンに袖を通し、数ヶ月ぶりにクラスメイトの輪に加わる。バレーの練習にかまけているうちにクラスの文化祭の出し物はダンス喫茶に決まったそうだ。ダンスと一口に言っても流行りのアイドルソングでお茶を濁すものから、男女ペアになって踊る社交ダンスまでさまざまで、一日三回のステージに全員が何かしらのかたちでダンスを披露しなくてはならない。夏休みの集まりに一度たりとも参加しなかったせいで、十月に入っても俺の頭は三分のワルツの動きがようやく覚えられているかどうかという悲惨なものだった。
 机を後ろへと押しやり前半分の空いた教室に、古ぼけたCDデッキから次々とダンスの課題曲が流れていく。今、音楽が切り替わり、仕切っていたダンス部の連中のうちの一人が「次、ワルツいくよー」と手を叩いた。隙間を縫うような昼休みのダンス練習。となりで同じように窓際にもたれていたが、目を上げて無言で「行こう」と俺を促す。その視線の合図と同時に、ぽーん、と校内放送を知らせる機械音が黒板の上のスピーカーから響いた。

『文化祭実行委員です。二年1組の及川徹くん、至急本部まで来てくださーい。周りも見かけたら連行してくださーい』

 その間の抜けた放送が〈ムーンリバー〉のゆるやかなメロディーに重なり、教室の隅に集まっていた女子たちのグループが一斉にくすくすと笑った。最近この手の、及川をとりまく黄色い声のたぐいがいっそう華やいで感じられる。そういう時期だ、ということなのかもしれない。何と言っても去年の文化祭は最悪だった。及川と一緒に校内を回っていて、何度あいつと女子との写真を撮らされたか知れない。

「ミスターコンだなこりゃ」

 の手のひらをとりながら独り言よろしく呟く。ミスコンとミスターコンは文化祭の目玉イベントだ。どうせヤツのことだからろくすっぽ打ちあわせやら取材やらに付き合わず、適当にはぐらかして逃げまわっているんだろう。今の放送だってデパートで流れる迷子の呼び出し放送と似たようなものだ。

「……本当にみんな、顔の話しかしないよね」

 すると俺の言葉に反応してか、音楽に合わせてステップを踏みはじめながらが「うんざり」といったふうに声を発した。社交ダンスは本来、男が女をリードするものらしいが、現状俺とのペアはその正反対だ。練習の途中で幾度となく重ねた手と手も、腰に回す腕も、最初は気恥ずかしかったが慣れてしまえばなんでもなかった。そもそもこの人選自体が、そういう二人を敢えて選んでいるみたいだったが。

「及川の?」
「……及川の、付き合ってる子とか」
「ああ」

 その言葉を聞いて、が何に「うんざり」しているのか納得する。先週、また及川に新しいカノジョができたのだ。及川は誰と付き合ってももって三ヶ月といったところで、ころころ相手が変わるたびに女子たちのあいだでちょっとした騒ぎになる。たしか今までは二つ年上の大学生と付き合っていたはずだが(自慢げに話していたので腹が立つがよく覚えている)、いつの間にか隣町の女子校の一年生に乗り換えていたらしい。節操がないとはまさにこのことだ。

「釣りあってない、って、前のひとのほうが美人だって。そればっかり」
「うわ、女子ってこわいっすねー」

 どこからともなく情報を仕入れて、ああでもないこうでもないと好き勝手に言いあう。怯えているかのようにわざとらしく肩をすくめると、はやってられないといったふうに溜め息を吐いた。
 一年のころからはずっと及川の「追っかけ」だ。とはいえ当の本人とは言葉を交わしたことさえ一度もないだろう。思えば一年のころ初めてに声をかけたとき、俺は不躾にも「及川目当て?」と彼女に面と向かって聞いたのだった。正直、そこに悪意が少しもなかったわけではない。相当嫌な顔をされたのを今でも覚えているが、少なくとも彼女は女子たちの会話の餌食になるような意味で及川を目当てにしているわけではなさそうだった。なんつーか、殊勝だよなあ。そう言って、からかったこともある。俺の言葉には「別に好きで良い子ぶってるわけじゃないけど」と言って力なく笑った。そのときは軽く流したけれど、あれは一体どういう意味だっただろうか。

「釣りあってるかどうかって、顔だけで決まるのかな」

(……がそれ言ったら嫌味にしかなんなくね?)

 胸の内で咄嗟にやや意地の悪い反論をする。どうせ言ったところで冗談のように流されるだけなので、わざわざ口にしようとは思わないが。ぶすっとした表情で淡々と足を動かす彼女を盗み見る。オフホワイトのカーディガンを着ていても映える白い肌。こうやって近距離で見下ろすと黒々とした長い睫毛がぴんと放射状に瞼を縁取っているのがよく分かった。その肌にも、睫毛にも、きっと何も施されてはいない。なんとも地味だ。それでも、きっとはたとえ女子たちの無慈悲な欠席裁判にかけられたとて、すんなりその審美の眼をかいくぐってしまうだろう。地味なかわりに、けちをつけるところもない。問題は彼女がそういう自分自身をまったく利用できないところにあるのだ。

「まあ文句言うなら、面食いの及川本人に言えって」

 元はと言えば、ヤツが奔放にとっかえひっかえするのが全ての元凶なのだから。怠慢な俺の腕の支えなどあてにせず、彼女がひょいと一瞬だけ背を反らしてから綺麗に一回転をした。上の空で会話しているうちに、もうすぐ曲が途切れる。たった三分間のエチュード。あやふやな道を他人の案内で歩いてきたとしても全く順路が身につかないのと同じで、結局この日も俺自身に上達の兆しは見えなかった。彼女の足を踏まずにやり過ごせそうなだけ、まだ昨日までよりかマシだと言える程度だ。なんとか最後のポーズを決めては早々に手をほどき、そうしてどこか恨めしげに俺を見上げた。まるで軽率な及川のことでもかばっているかのように。

「……でも、本当は顔だけで決まらないから、すぐダメになっちゃうんじゃないの?」

 それこそ本人に直接言ってやれ、というような正論を口にして、はさっさとまたもと居た窓際へと引っ込んでしまった。及川が誰かと別れるたび、そして誰かと付き合うたび、平気な顔をして彼女もきっとそれなりに思うところがあってその胸のいくばくかをすり減らしているのだ、と当たり前のことに今さらながら気がついたのはそんなくだらない会話のさなかのことだった。



 文化祭当日はあいにくの小雨で、そのぶん校内には例年にも増して熱気が渦巻き、廊下は往来のひとでごった返していた。衣装係の奴らがどこからか格安で借りてきたちゃちな燕尾服もどきは丈が微妙に足りず、こんな柄にもない衣装を着るくらいならいつも通り制服で踊ったほうがよほど様になるのではないかとさえ思う。そんな服に着られている男子たちはさておき女子たちのコスプレ風のドレス姿はなかなかのもので、本人たちもまんざらではないといった様子だった。男どもと打って変わって色とりどりの布地に、フリルのついた愛らしい衣装に、背中のあいた大胆なデザインのもの。三分踊るだけの演目にしては、ずいぶんと周到な準備だと思う。

「ねえねえ、あの子と及川見に来たんだけど」

 あと五分で本番というときだった。教卓周りを控室として仕切っていた暗幕から、受付をしていた女子が顔だけ覗かせるようにして要らぬ報告をした。声のトーンは抑えていても興奮は抑えられていない。ドレスを纏った女子たちが一斉に華やいだので、なにげなく暗幕の端から客の入りを確認してみると、なるほど確かにそこには「釣りあってない」と噂の彼女を連れた及川の姿があった。とは言っても隣の彼女が一体全体どうして「釣りあってない」などと言われるのか、少なくとも男の目にははっきりしなかったが。何せ彼女はいかにもかわいらしい男好きのする容姿をしていたのだ。及川と並んでいることの緊張を、いまだ咀嚼しきれていない。今、及川の隣に居るのは、そういう初々しさをその表情から何から漂わせているような子だった。

「花巻が呼んだの?」

 背後から声が掛かって振り返るといつの間にかそこにはが立っていた。青いロング丈のドレスが気に食わないのか居心地が悪いのか、もうすぐ出ていかなくてはならないというのに未だに揃いの髪飾りを手にもてあましている。髪をひとつにまとめてそれなりに化粧もしているはいつもとはまた違う雰囲気があって、それだけで俺はほんのりと怖気づいた。もうすぐ彼女の手を取ることや、その肩に触れなくてはならないことに、今さらになって。

「呼ぶわけねーだろ」
「……だよね。そしたらちょっと恨んでやろうと思ったんだけどなあ」

 表情を崩さぬままさらりとおそろしいことを言う。はようやくしぶしぶ髪飾りをつけながら、視線を落として小さな溜め息をひとつ吐いた。それはまるで無理にでも文化祭の浮ついた空気にあらがおうとしているかのような態度で、いつもの彼女らしくない痛々しさが滲んでいるように思えた。

「向こうは私のことなんか知らないのに、緊張したり、ばかみたいで嫌になるよ」

 自嘲気味に呟かれたその言葉の根にある惨めさが一体どんなかたちをしているのか、そんなことに気が回るほどには俺はのことを理解していなかったし、興味もなかった。彼女自身ももしかしたら折り合いのつかない、どうしようもない感情に戸惑ったままなのかもしれない。ずっと、及川を目で追うようになってから。知りたいという気持ちと知りたくないという気持ちが同じ強さでせめぎ合っている。その満ち引きは今や彼女にとって時を刻むようなものでで、俺には彼女がその不安定な確かさを軸にして立っているなんとも頼りなげな存在にときおり思えることがあった。すっかり慣れてしまっているように見えたのだ。そのうやむやな惨めさに。

 定刻どおり暗幕がひらいて、俺たちは何度もそうしてきたように無言で手をつないだ。小さな即席ステージの上へとかりそめのカップルたちが出て行く。何人の客がいるかなんて、なるべく数えないようにして。いつまでも俯いたままのが憎たらしくて、俺は少し強引な力で彼女の腰を引き寄せた。はっと目が合う。すると自然に、足と足の動きが重なるのだ。聴き慣れた〈ムーンリバー〉のメロディーが教室を包めば、あとはたった三分間のはかない出来事。覚え続けているほうが難しいような。

 及川の前で、及川の恋人の位置にちょこんとおさまっている華奢な名も知らぬ女生徒の前で、果たしては完璧にひとつのもつれもないワルツを踊りきった。
 及川があの子と別れたと聞いたのはそれから一週間後のことだ。



 十一月の終わりにみぞれ混じりの初雪が降った。今年もバレー部は春高行きの切符を逃し、代替わりもとどこおりなく済んで早一ヶ月が経とうとしていた。三年生がいなくなった直後にはやけに広く感じられた体育館にも、同学年や後輩とベンチ入りの枠を争うことにも、そして及川が練習中に主将としてチームに号令をかけることにも、今となってはもう新しさはなかった。ゆっくりと確かに、それぞれが日常に沈んでいったのだ。

 冷たい踊り場を抜けて「寒い寒い」と二人で身を縮こまらせながら階段をのぼっていく。水曜日は購買部の菓子パンがすべて二十円引きになるから毎週昼休みになると足を運ぶのだけれど、今日はいつも弁当を持参しているも「私も行く」と言って珍しく一緒に着いてきた。なんでも今朝は一家そろって寝坊をしてしまって誰も弁当を用意する暇がなかったらしい。割引目当ての生徒たちで購買部はごった返していて、お互い目当てのものを買えたときにはすでに昼休みが始まってからずいぶんと時間が過ぎていた。

「お前マジで昼それだけ?」
「うん。花巻が食べてるの見たら無性に食べたくなって」

 いちご味の飲むヨーグルトとチョコチップメロンパン。間食のような昼飯を抱えて、たまにはこういうのも良いよね、とは満足げだった。そんなものだけで腹が膨れるなどとうてい信じられないが、の細い首筋や今にも折れそうな腕を見ているとそんなものなのかと納得もしてしまう。食べても食べても腹が減る自分とは大違いだ。そう呟くと、はぐるりと俺に目を向けて「食べても食べても太らないんだから良いよねえ」とどこか羨ましげに言葉を返した。
 そんな三歩歩けば忘れてしまいそうな実のない話をしながら階段をのぼりきると、二年1組の教室の目の前で一番会ってはいけない男と鉢合わせてしまった。の肩がわずかに震えたことに、どうしようもないくらい目ざとく育ってしまった俺は気づかないではいられない。ちょうど教室に入ろうとしていた及川は俺を見つけると「あっ!」と素っ頓狂な声を出したが、悲鳴を上げたかったのはきっとのほうだっただろう。

「マッキー、やっと見つけた」

 当たり前かもしれないが及川はに目もくれず、ただなんの遠慮もなく、むしろどこか焦った様子で俺に向かって足早に歩いてきた。半身に緊張が伝わってきて、俺さえもどこかでコイツに対して身構えてしまっているのが癪だった。

「今日昼休みになったらすぐ溝口くんとこって連絡したじゃん。メーリス、見てない?」
「は? それ明日って話だろ」
「だから、それが今日になったんだって」
「げ、」
「しっかりしてよ。幹部なんだから……」

 今にも溜め息が続きそうな声色だった。及川ははた目にはあまり主将という柄の人間には見えないだろうし、今もまだ気を抜くところは自分の料簡で勝手に抜くようなタイプではあり続けているけれど、主将に指名されてからというものこと連絡事項や時間なんかには意識的に自分にも他人にもかなり厳しくしているように思える。悪い、と素直に謝ると及川は「次はないからね」と言ってキャメルのカーディガンのポケットからメモ用紙を一枚とりだした。おそらく、コーチから言い渡されたメニューのことだろう。メモを見せようとさらに一歩及川が身を乗り出したとき、くい、と弱い力でセーターの肘のあたりを引っ張られた。

「花巻。私、先に戻ってるね」

 内緒話でもするような声音でが囁く。分かった、とこちらが反応する前にもう彼女は歩きだしていた。というより駆けだしていた。瞬間、及川との会話のリズムが崩れて変な間が生まれてしまう。沈黙が訪れると途端に昼休みの喧騒がさざなみのように鼓膜へと打ち寄せた。

「逃げられちゃった」

 まったくもって無視しているような他人の態度を自分からとっておきながら、こんな言葉がすぐさま漏れてくる。腹のうちでは一体何を考えているのか分からないしたたかさ。さすがに同情しないでもないというような見事な避け方だったというのに、及川のその一言はまさに及川にしか呟けないというような一言で、そんな気持ちはすぐさま萎えてしまった。

「……そりゃ逃げるコマンドしか使えねえよ」

 あいつなら、必ずそうする。たとえ百回出会ったとしても、百回とも出会わなかったことにするだろう。及川は前髪を指ですくいながら、の背中が教室へと消えるまでじっと目で追っていた。いつからだろう、こいつがこういう目をするのは。ワルツを冷やかしに来た文化祭はどうだったろうか。あるいはもっと以前から、及川は彼女と出会っている気でいたのかもしれない。

「ひとをバケモノみたいに」
「バケモノよりタチ悪いって気づいてくれませんかね」
「てか何、二人はやっぱり付き合ってんの?」

 切れ長の瞳がすっと俺に向き直る。及川の唐突な問いかけに、用意されていた言葉が突然奪われてしまったかのような喋りがたさを覚えた。この手の質問を受けるのは別にとりたてて珍しいことではないのに、かわすような対処ができないのはなぜだろう。どうやらこいつから「逃げる」ことに関しては、のほうが一枚うわてのようだ。
 でもそれも、いつまでもつか。

「……ないって。たまたま用事が被っただけだっつの」
「へえ?」

 面白がっているように語尾を伸ばして、及川は含みを持たせたまま手にしていたメモ用紙を何も言わずに俺のズボンのポケットの内に滑りこませた。わけもなく意味もないことをして、そんな空っぽの仕草が案外ひとのすべてを構成しているものなのだ。間違ってもこいつは女相手にこんな顔は見せない、薄く、口角の上がった唇。ひらけば邪悪なものしかそこからは出てこないような。

「仲良いんだから、付き合っちゃえばいいのに。そんなに脈ないの?」

 こいつがひとを引き留め、しつこくとぼけたふりをしてまで何を俺の口から言わせたいのか、そのとき、目覚めるように気がついた。俺はかつてこいつから、同じ質問をされたことがある。そしてそのときの自分の無防備な答えをも、ありありと思い出したのだ。
 言葉は感情が持つ最上のかたちだけれど、言葉のかたちが感情をさかのぼってつくりかえてしまうこともある。いや、きっと、そんな経験ばかりだ。生まれたときから今までも、これからもずっと。だから、彼女は口にしなかったのだ。けっして。自分ひとりの力では、かたちのないものを決めつけることができなかったから。



 真冬の刺すような空気のなかを、不安定な甘いメロディーが溶けることなくさまよう。誰もいないさみしいピロティーの柱に背をもたれ、は無意識なのか懐かしいあの歌を喉の奥でなぞっていた。耳には紺のピーコートのポケットから白いイヤホンのコードが続いている。背後から忍び寄ってそのひとつをたわむれに奪いとると、彼女はすぐさま顔を上げ、そしてあからさまにほっとして見せた。

「すっげぇ音漏れ」

 そう言ってイヤホンを返すと、はくすくす笑ってコードを音楽プレーヤーに巻きつけながら「全然気づかなかった」と答えた。音漏れしていたのは何もイヤホンだけではなかったけれど。十二月、終業式を終えたあとの校内は昼前にもかかわらずとても静かで、殺風景なグラウンドを目の前に眺めているとそれだけで体感温度が下がっていくようなもの悲しさを感じた。もうあと一週間ほど部活をこなせば、今年もあっという間に終わってしまうだろう。

「花巻、まだ踊れる?」
「ん?」
「文化祭のときのやつ」
「あー…どうだろな、アレでかなりの付け焼刃だったし」

 まだ二ヶ月しか経ってないのに忘れるの早いなあ、とが俺をからかうように言う。ぐるりと巻いたマフラーのふちから覗く唇が、白い吐息をわっとこぼす。薄いグロスで桜色に色づいたその唇は、彼女が自分を誰かのために飾ることをようやく覚え始めたあかしだ。見てはいけない美しいものを晒されているような気がして、息が詰まる。けれども彼女がその唇に紅を引くきっかけをつくったのはきっと他ならぬ俺なのだ。
 本当はまだ、音さえ流れれば多少のステップは踏めるような気がした。もし今ここで「踊れる」と答えていたら、「もう一度踊ってみようよ」と彼女の冷たい手が差し伸べられたのかもしれない。そう思うと、なぜだか妙に惜しいことをしてしまったような気がして、少し、本当にほんの少しだけ一瞬の後悔が胸の内を引っかいた。

「及川待ち?」

 努めてさりげなく聞いたつもりだった。それでも、その名前を出すとはほんのりと表情をこわばらせてしまう。そしてどこか気まずさを漂わせたまま弱々しく頷くのだ。及川がどこでどんな道草を喰っているのか知れないが、彼女が下校時刻ぎりぎりまでひとりで残っている理由なんてひとつしかない。本当は聞かなくても分かることだ。木枯らしが吹きすさび、両腕をコートのポケットへと深くつっこむ。そのとなりで彼女は白い指先に、ふう、と息を吹きかけた。

「一ヶ月で別れたりすんなよ」
「……それはどうかなあ」
「弱気だな、少しは橋渡しした俺を信じなさいよ」
「むり、うさんくさすぎる」

 気の抜けた笑みが重なりあう。こうやってこれからも、たとえ煩わしく思われたりかわされたりしたとしても、二人のことを彼女から聞きだしてやらなければ、二人はいつか出口のない場所へと沈んでいくんじゃないか。そんな予感がした。不吉なイメージなのかどうかは分からない。それをもし、二人が望むならば。

「大丈夫だって、及川とは釣りあってるから」

 うさんくさいキューピットの世紀の大予言に、はきょとんとした顔をしてから小さく吹きだした。彼女の頬が赤いのは、今にも雪の降りだしそうな曇天の真下の、冴えない寒さのせいだけではないんだろう。

「ありがと。お世辞でもうれしい」

 これがお世辞だったらどんなに良かったかと、軽率なキューピットは反射的にそう思う。だけど、こんな思いはすぐに忘れる。いや、忘れよう。最初から無かったことになるくらいに。
 遠い〈ムーンリバー〉の旋律が、からからと落ち葉の舞う音と一緒に脳裏を回りだす。あの日の三分間の白昼夢が、俺に許されたたった一度きりのまぼろしだったのだ。









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2014.12