Ⅲ never land - 3




 もうすぐ、夏が終わる。
 蝉しぐれのざあざあ降りそそぐ鳴き声が、窓ガラスを隔ててもなお延々と大きく強く耳に届いてくる。夏休みの図書室はいつにも増して生徒の出入りが少なかった。図書委員の子も居たり、居なかったり、司書さんすらずっと隣の司書室にこもりっきりで一日中出てこない日もある。そんな空っぽのだだっ広い図書室の、窓際の奥の自習机を陣取り、グラウンドで練習するサッカー部や陸上部をときおり眺めながら、一日中参考書と向き合う。私の八月はずっとそんな毎日だった。どうせ家にいても一人きりだったけれど、家の静けさは図書室の静けさとはまるで違って、むしろ胸の内をざわつかせた。集中できなかった。一人でいると、とめどなく溢れてくる。あの部屋で起きた色んなことが、色んな痛みが、身体の芯に刺しこむように。

 一階の図書室の窓を開ければすぐそこには水飲み場と花壇が連なり、グラウンドのふちを校舎のほうへと辿っていけばバレー部の練習する一番大きな体育館がある。夏休み中も毎日のように部活のあるかおりとゆきちゃんは、昼時の休憩時間になると気まぐれにやって来ては飲み物をお裾分けしてくれたり、束の間の話し相手になってくれたりした。受験生よろしく休暇中ろくに遊ぶ予定もない私には、彼女たちとの他愛のないおしゃべりがどれだけ有り難いものだったか知れない。図書室の静寂と、文字と数字だらけの参考書と、二人との雑談。ひたすら気を紛らわすものを探して、すがって、考えないようにしているものがある。考えてしまえばきっと、こんなところで立ち止まってはいられないような、押しとどめられない流れに足を絡めとられてしまう。そんな予感がゆらゆらと胸の内でせめいでいたからだ。

 インターハイ直前の練習試合を観に行って以来、赤葦とは一度も顔を合わせていない。あの試合のあと改めて彼は、別れましょう、と真っ直ぐに私を見据えて言った。家のソファの上で殆ど泣きながら「別れてください」と赤葦に懇願されたとき、私は彼の突然の動揺につられておろおろするばかりで、その言葉を呑みこむことも自分の言葉を吐きだすこともままならなかった。だって私たちずっと、あまりにもうまくいっていたのだ。喧嘩することもなく、実に仲良く。そう思っていた。だからこそ赤葦はあの試合を、物分かりの悪い私に見せたかったんだろう。分からせたかったんだろう、どうしても。あの日、体育館の上から目で追ってしまったものが、見えてしまったものが、私のすべてなのだと。

 ――無理に好きになれないのと同じで、無理に嫌いになんかなれないですけど。

 体育館裏の背の高い雑草たちに足首をくすぐられながら、赤葦はじっくりと考え選びぬいてきたようにひとつひとつの言葉を丁寧に舌に乗せていった。

 ――このままだとさんを嫌いになれないまま、どんどん周りに嫌いなものが増えてく気がしたんです。自分自身のことも含めて。

 そんなふうに言われてしまったら、返す言葉なんてもう何ひとつなかった。そして気づかされた。何かを好きになってしまうことのおそろしさを。私は赤葦の隣にいることに安らいで、「いつまででも待つ」という言葉に甘えて、ずっとその恐怖を忘れようとしていただけなのかもしれない。ひらきかけた口は首を横に振る赤葦の淡い笑顔にいなされた。「汗だくですみません」とことわりながらも、あの気遣い屋の赤葦が私を胸に閉じこめる。汗に濡れた練習着の感触、匂い、はれぼったい熱。こうやって最初から我慢のひとつもしてくれないでいたのなら、私たちはもっとずっと一緒にいられたんだろうか。
 私は結局、彼にただの一度も「ごめんね」と言うことはできなかった。

「ねえ、ゆきちゃん」

 図書室を一歩出るとそこはじりじりと肌に焼きつく残暑の真下だった。陽射しを避けてグラウンドを少し周り、木陰の降りる花壇のふちに腰を掛ける。いつも差し入れしてもらってばかりだからとお返しに買ってきたアイスキャンディーは私のぶんも含めて三本あったけれど、あいにくかおりは木兎と一緒に春高予選の代表者会議に行っていて不在だった。かわりに「二本、食べてもらえる?」とゆきちゃんにコンビニの袋を差しだすと、彼女は目を輝かして喜び、「もちろん」と心底嬉しそうに笑った。そんな彼女を見て、私もつられて笑ってしまう。包み紙を同時に開けて両方のアイスを交互にかじるゆきちゃんは、見ているだけでもこちらが嬉しくなってしまうくらいだった。

「アキはさ、正直バレーで大学行けると思う?」

 アキの名前を口にすると、隣でぶらつかせていたゆきちゃんの足の動きがぴたりと止まった。その反応を見て、そういえば自分からアキのことを口にするのは随分と久しぶりのことだったかもしれないと気がつく。もうずっと、知らないふりをしていた。今さらこんな言葉が溢れてくるのも不思議だった。ゆきちゃんが右手に持ったアイスキャンディーを一口かじって、こくりと喉を動かしてから口をひらく。私とお揃いのさわやかな水色。口の中にもきっとお揃いの、ちゃちな甘ったるいソーダ味がひろがっているだろう。

「うん、何個か誘いはあるんじゃない?」
「えっほんと?」
「話くらいはあるものだよ。決まるかどうかは分からないけど」

 意外な返答だった。私には見当もつかない世界の話だった。ゆきちゃんのその一言で、私がどれだけ今のアキのこともバレーボールのことも分からないままでいたのか思い知らされる。
 アキが私にあまりバレーのことを話したがらなかったのはきっと、私が中学のころのアキのことを知っているからなんだろう。エースだとかそうじゃないとか、そんなこと気にする必要なんてないのに、そう思えば思うほど、どこかでその思いがアキを責めてしまっていたのかもしれない。歯がゆい擦れ違いをずっと隠してきた。思えばだらだらと続いていたアキとの関係が途切れたのも、その擦れ違いに耐えきれなかったことがきっかけだった。なんだって私の前で茶化そうとするアキに嫌気がさした。彼に酷いことを叫んでしまった。何よりいちばん彼が傷つくだろうと、知っていて。

が見てない間に木葉、どんどん調子上げてるんだよ。気になるならまた練習観に来たらいいのに」

 ゆきちゃんの声と一緒に溶けたアイスのしずくが指と指の間にぽつりと落ちてきて、慌てて柔らかくなったアイスを口に含んだ。ゆきちゃんの明るい声が、もたつく私の背中を押してくれているのが分かる。励ましてくれているのが分かる。それでも、曖昧に笑ってやり過ごすことしか今はできない。もしも彼がたったひとりで正しく戦うことができるなら、アキのそばにいていいのは決して私じゃないだろうと、どうしてもそう思ってしまうから。



 夏休み最後の日、いつものように図書室で参考書をひらいていると突然に濃い人影が視界を覆った。いきなりのことにびっくりしてすぐさま窓のほうを見遣ると、そこにはどうしてか制服姿のアキがしてやったりの顔で突っ立っていて、思わず悲鳴を上げてしまいそうになった。右手の甲で、アキがこんこんと窓を叩く。唇のかたちは「あ、け、て」と私に命令のような懇願をした。ぐるりと図書室を見渡しても、今日も今日とて自分のほかに生徒はいないし司書さんもこもりっきりで、私とアキのことを見ている者は誰もいない。そうなれば、どうしよう、と悩んでいる余地もなかった。アキとこうやって顔を合わせること自体とても久しぶりのことなのに、そんな思いに耽る間もなく、延々と窓を叩き続ける彼を私は迎え入れてしまった。こんなふうに正攻法で訪ねられることに、私はまったく慣れていなかったのだ。

「なーにしてんの」

 窓を開けると、彼はとんでもないことにそのまま鞄を中へと放り投げると、自分もまたひょいと窓枠を乗り越えて図書室の床に足を着いた。驚きのあまり絶句しているうちに、今度は机の上の参考書をあっさり奪い取られてしまう。まるで、いじめっこのような傍若無人なやり方だ。

「うわ、お前が勉強なんかしてんのか」

 わざとらしく笑みを含んだ声でそう言って、アキはぱらぱらと無遠慮にページを捲った。どうしてだか苛立ちよりも良いようにからかわれている自分自身に羞恥が募り、私はその羞恥心を掻き消すように、すぐさま癇癪を起こした子どもみたいな強引さで参考書をひったくり返してしまった。それでも真っ直ぐ睨みつけられるほど、今の自分に彼を憎む力はない。苦し紛れに泳がせた目線の先にあるのは、キャップの外れた蛍光ペンといびつな赤マルの散らばるひらきっぱなしのノートだった。

「……受験生が勉強するなんて普通だし。アキがおかしいんだよ」

 何しに来たの、この場所にいると知っていたの、今さら何が言いたいの。色んな問いを封じられて、出てきたのはそんな刺々しい言葉だった。アキが目を瞬かせる。そして、口を閉じたまま口角をちょっとだけ上げた。わざと笑っているように見えたけど、どうしてそんな笑顔をアキが見せるのかは分からなかった。

「そうだな」

 拍子抜けするくらいあっさりとそう認めて、アキは視線を外した。猫っ毛の薄茶色の髪を右手でくしゃりと握って、それから指の間に滑らせる。久しくこんな距離では見ていなかったアキの横顔は、改めて眺めてもとても美しかった。美しさは凶暴で、しぶとい。決して「そう見えてしまった」ことに抗えないのだから。アキはもう一度えりあしのほうから髪をかきあげながら、逸らした視線を瞼の奥に引っこめた。

「けど、これでも相当頭冷やしたんだよ。信じられねぇだろうけど」

 鼓動が静けさに鋲を打つ。自分にしか聞こえないその音にだんだんと思考を支配されていく。信じられないはずがない。あんなふうにバレーをするアキを見たら、むしろ信じるしかないことだった。参考書を机に置いて、意味もなく時計を見上げる。午前十一時。こんなにも明るい真昼に、光の溢れる窓辺に、どうしてこんな仄暗いやり取りをしなくちゃならないんだろう。こんなところにまで出向いて簡単に私をつかまえておいて、そんな反省の言葉だけでこの場が済まされるはずがない。せっかく、色んな整理が自分のなかでつきはじめていたのに、ひとの気も知らないでアキはまた私をかき乱す。かき乱されている。ひとりでいれば変わることができたと思っていたはずの自分が、アキと二人でいるだけで途端に巻き戻されていった。容易く、ただボタンをひとつ押すみたいに。

「……だったらもう、それでいいじゃん。私もアキも、ひとりのほうが、」
「そう言って、お前だけまたすぐひとりじゃなくなるんだろ」

 さっと雲が太陽を覆い隠すように、急にアキの声が冷たく、暗くこもった。アキの足が動いて反射的に引いてしまった身体を、もちろん早々に見逃してくれなんかしない。立ち止まってしまえば暴かれる。ひとりで歩いた道なんて、本当は一歩たりともなかったこと。私はいつだって誰かの隣を歩きたがっていた。ひとりで歩いていく力強さよりも、ふたりで手をつないでいなくては身動きのひとつもとれない弱さが欲しかった。こんな自分、情けなくてずるくて誰にも打ち明けることなんてできない。隠したくてたまらない。それなのに、アキだけがいつも決して惑うことなく私を見抜いてしまう。情けなさも、ずるさも、隠そうとすればするほどアキには私の本性が透けてしまうのだ。だって私をつくりかえたのは、紛れもなくアキの本性なのだから。

「俺はじゃなきゃ、ずっとひとりだよ」

 そのとき、その表情で、今のアキには殆ど余裕というものがなくなっているのだとようやく気がついた。見上げた視線が返ってこない。そのままアキの黒目の奥に吸いこまれていく。強い力でいきなり無防備な腕を引っ張られれば、痛みと恐怖で小さな悲鳴が口からこぼれた。こわい。背筋が凍えるほどこわい。もう一度、共犯者になってしまうことが。彼の弱さに溶かされて、自分の弱さを許されてしまうことが。

「なっ、なに」

 私を引きずるようにして、アキは無言で図書室の奥へと歩いて行った。いくつもの本棚をかきわけ、狭い通路を抜け、誰も読まないような埃の被った統計資料のぎっしり詰まった棚と棚との間で、ようやく彼は立ち止まる。冷たく澱んだ空気がひそやかに皮膚を舐めた。それだけでもう、予感が現実をはるかに凌駕していた。正しさなんてとっくになぎ倒していた。ひときわ強い反発をこめた腕の力はいなされ、ふらついた足を彼は助けてくれもしない。床に尻もちをついた私に、アキは腕を決して離さないままのしかかった。身体の動きを封じるように、無慈悲にスカートの裾を膝で踏んづけて。

、……悪い。嫌なら抵抗して」

 アキと二人でいるだけで私の時間が巻き戻されていくように、アキもまた私と一緒にいるだけで、いくら頭を冷やしたって結局は同じところに押し流されてしまう。私もアキも、離れているうちにちょっとは良い方向へ変われたはずなのに、二人のかたちは決して良くも悪くも変わってはくれなかった。絶望すべきなのかもしれない。あるいはもう絶望しているのかもしれない。こんなところでアキはまた容赦なく私の制服を乱し始めるのだから。太腿に熱い手のひらが滑ると、もれなく全身に鳥肌が立った。気持ちが良いのか悪いのか、何も考えられない。ただ、抵抗して、と言われたこともすぐさま忘れて私はアキにすがっている。それが唯一この場で弾きだせる答えだった。

 あちこち撫でるように緩慢にまさぐる自分のものではない熱のうねり。そのやわらかな動きにのぼせかかっていたとき、遠くでがらりと図書室のドアが開かれる音を聞いた。血の気が引いたのは出入り自由のドアが開いたからじゃない。聞き慣れた声が私の名前を呼んだからだ。、と。ゆっくり近づいてくる足音に乗せて。

 ――あれー、いないのかな。
 ――図書室にいるって?
 ――うん、朝メールくれたし。どうしよう、アイス買ってきたのに。
 ――電話してみたらいいんじゃん。

 そんなに大声を出していなくても、静かな図書室であればひとの話し声はよく響いた。思わず、鼻と鼻のぶつかる距離でアキと目が合う。それは確かにかおりとゆきちゃんの声で、二人は何度か私の名前を呼んだ。咄嗟に起き上がろうとしてもがっちりと四肢の自由を奪われていてままならない。ふと自分の着衣の乱れた下半身に目を遣ると、捲れたスカートのポケットからスマートフォンがとっくに床へと転がり落ちていた。今、これを鳴らされたら……。きっとけたたましい振動音が響き渡るに違いない。は、と短い息と共に引き攣った声が漏れそうになった瞬間、アキの手のひらが私の口を塞いだ。どこにも優しさのない乱暴な行為だった。目だけで、黙れ、とアキが言う。そして私を組み敷いたまま上体を起こし、ズボンのポケットから自分のスマートフォンを取りだすと、アキは片手の親指を素早くディスプレイに滑らせた。

 ――あ、待って連絡来た……って、なーんだ、木葉からかぁ。
 ――なんて?
 ――部室の鍵あけろ、だってー。
 ――あー、練習午後からなのにもう来てんの? 早すぎ。

 アキがスマートフォンを手に握りしめながら声のするほうを見据えている。いちかばちかの賭けみたいな対処だった。何がなんでも私を自分の身体の下から這い出させまいと思っているような、理性の欠けらもないのにやけに冷静で落ち着いた、そしてやっぱり拭えない身勝手さの滲む、アキの手口。私の口を押さえるアキの左手首を両手で掴んでみてもびくりともしない。痛くて、苦しくて、とうとう涙が一筋こめかみへと流れていくのが分かった。

 ――しょうがない。アイスは諦めて、一旦戻ろうか。

 遠のいていく足音に合わせて、ようやく声を殺していた手のひらの力が緩んだ。視線を戻したアキが、私を見下ろして随分とばつの悪そうな顔をする。何を、今さら。別に傷つけられて泣いているわけではないけれど、溢れる水をすくうアキの表情は急にしゅんとして、私を傷つけてしまったことに傷ついているような顔になった。彼の指先が目尻をそろそろと撫でて、かろうじて涙を押しとどめてくれている。

「……ごめんな」

 こんなふうにしかできないのはきっとお互い様なんだろう。私たちはいつも、そうやって互いの愚かさをのりしろにしてつながっているのだから。何度頭を冷やしたって二人でいればすぐに身体の中が溶鉱炉みたいにどろどろに溶けていく。どんなにあがいても、どんなに離れようとしても、逃げ惑った果てに、私はもう一度アキにつかまえられてしまった。つかまえられたかった。運命なんて遠く及ばないようなタチの悪い鎖につながれて、そのことにどこかで言いようのない安堵を感じている自分がいる。安らぎとはまた別の温もり。紛れもなくこの最底辺が、私があらゆる可能性を殺してまで選びたかった場所なのだと。

「どうせあやまるなら、ちゃんと最後までしたら?」

 アキのネクタイを引っ掴んで、噛みつかんばかりに唇と唇を近づける。
 中途半端な刃で私を傷つけた気になどならないで。どうせなら考えつく限りの手を尽くして私のことを切り裂いてみせてほしい。振りはらいきれないさみしさや過ちのすべてを笑いとばすように、せめてこんな愚かしい瞬間くらいは、世界中の誰にも負けない仲良しこよしの二人でいよう。









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2014.8