Ⅲ never land - 2




「アキ、さんと別れたって噂になってるよ」

 窓際の棚の上に腰掛けていた一人が、俺の椅子の背をひょいと軽く蹴った。真冬の寒さが芯まで沁みる、二月。冬休み明けの席替えとほんの少しの不正行為ののち手に入れた窓際のいちばん後ろの席は、その真後ろにあるヒーターのせいで休み時間になると寒がりな女子たちの井戸端会議に強制参加をさせられてしまう特等席でもあった。うっとうしいと言えばうっとうしいが、気が紛れると言えば気が紛れる。むさくるしい男どもと顔を突き合わせているよりかは、もちろん。
 無為に弄っていたスマートフォンをズボンのポケットに仕舞いこみ、上体を捩って椅子の背に肘をついた。ヒーターの柵に寄りかかっていた二人のうちの一人が「食べる?」と言って差しだしたプリッツを一本、遠慮なく貰い受けながら。

「そー、俺今、独り身なの」
「えー、うそお」
「ほんと、ほんと。さみしくて死にそうだから慰めてよ」
「もー、アキそればっかじゃん」

 その場にいた三人がいっせいにくすくすと笑いだす。信じているのか、いないのか。自分でも自分の言葉が本気なのか冗談なのか分からないけれど。

 去年の暮れにの家に足を運んでからこの方、とはたまに廊下ですれ違ったり全校集会で姿を見かけたりする以外、まともに顔も合わせてない。そんな清く正しい生活が二ヶ月近く続けばさすがに周りも察するということなんだろうか。あの日の「ごめんね」をうまく咀嚼できないまま、終わったことを認められないまま、時間だけがだらだらと過ぎていく。自分がこんなにも女々しくて未練がましいとは思っていなかった。失恋には新しい恋をするのがいちばんの薬になると言うけれど、きっとまだ失恋することすらできていない自分にはそんな格言すらも遠い遠い他人事のように思えた。

 赤葦とは、二人のことを必要以上に隠そうとしているように見える。それがまた俺へのあてつけのように感じてしまう情けない自分もいる。無防備に見せびらかして、そのせいで横取りされてしまうのならば世話がない。ばかみたいな本当の話。誰に聞かせたってきっと笑い話だ。

「アンタみたいな男が女子に慰めてもらおうなんざ百年早い」

 すると突然、手厳しい言葉とともに後頭部を背後から強くはたかれ、何ごとかと思って振り向いたら丸めたプリントを持って仁王立ちしているかおりと、その横でプリントの束を抱えている雪絵がそれぞれ特有の眼力で俺を睨んでいた。背後でまたくすくす笑いが起こる。どこから話を聞かれていたのだろう。かおりと雪絵は二人とも妙にとは仲が良く、とのこととなると日ごろの行いの悪い俺への当たりの強さといったらなかった。

「かおりてっめ……」
「そうそう、木葉の恋人は今日からバレーでーす」

 いつもの間延びした調子で俺の言葉をぶった切り、雪絵から手渡されたその紙には少し気は早いが春休み中の練習試合のスケジュールがぎっしりと書きこまれていた。げ、と思わず間抜けな声が漏れてしまうほど。

 小学生のころから体育でもスポーツでも身体を動かすことは一通り人並み以上にできて、中学に上がってからも自分より運動神経のいいやつなんてそうそう出くわさなかった。あらゆる部活動の中からバレーを選んだことにも最初は理由なんてほとんどなかった。練習日が自分の都合に良いとか、マネージャーがかわいいとか、それくらいの動機だったように思う。とんとん拍子で上手くなり、あれよあれよという間に試合に出ずっぱりの、いわゆるエースとやらになっていた。特別何か努力することもなく「一番」を獲る。高等部のバレー部は確かに別世界で、そこには当たり前のように自分より上がいて、自分と同じくらいの能力を持った奴らがごろごろいたけれど、それだって決してやっていけないほどではなかった。ただ、「一番」を獲ることはなくなった。そしてそれを、そういうものだといつの間にか思うようになっている自分がいた。仕方がないのだと。今まで通り要領よく、周りに合わせて努力のようなものをしていけば、コートの上から居場所がなくなることはない。バレーをするのは楽しい。練習も苦ではない。試合に勝つのは最高に気持ちが良い。だけど俺は決してバレーから愛されたことはなかった。それは、愛されている人間に出会ってしまえば嫌でも分かってしまうことだった。たとえどんなに目を逸らしたかったとしても。

 愛されてもいない人間が“バレーが恋人”だとか口が裂けても言えやしない。けれど、どのみち独り身なのだ。見返りのない愛でもなんでも、注いでやろうか。決して振り向きはしないと分かっていても、諦めきれるものではないのだから。



 真冬に俺とがうやむやに別れたことになってから、俺は生まれて初めて自他ともに認めるバレー漬けの生活を送るようになった。とにかくバレー以外にすることも考えることもないのだから、ただひたすら朝から晩まで暇さえあればボールに触っていればいい。あるいはもしかしたら、何かを考えてしまうことから逃げるようにバレーに打ちこんでいたのかもしれない。日々をそうやってやり過ごしていくなか、何回か告白まがいのものを受けたこともある。全く心が動かなかったわけじゃない。むしろ、そのたびに気持ちは多かれ少なかれぐらついた。待っていたってしょうがないし、そもそも待っているのだと認めるのも癪だし、だったらいっそのこと自分のほうから見切りをつけるべきじゃないかと。だけれど結局は、動くことができなかった。どうしても。今さら殊勝ぶったところで何かが伝わるわけでもないのに、引くことも、進むことも、今はまだ何も選びたくなかったし、何も考えたくなかった。ただコートの上に立っていたかった。コートの上に立ち止まっていることが、今の自分には何より自由に動き回ることと同じだったのだ。

 あの冬の日から初めてまともにと鉢合わせてしまったのは、インターハイ本選まであと一週間に迫った七月の終わりのことだった。
 夏休みに入ってすぐの馴染みの他校との合同合宿を終えて、その日は午後から公式戦前の最後の練習試合が梟谷の体育館で組まれていた。スターティングオーダーは本番通り、これまた馴染みの近場の他校は、仮想初戦相手校としては少し物足りないかもしれなかったが。

「あれじゃねー?」

 最初に気がついたのは木兎だった。いや、正確に言えば、に気がついたかおりと雪絵が体育館の出入り口のほうへと走って行くのを見て、そこに居るに気がついたのだ。コートの上で思い思いにストレッチをしていた身を少し起こして、木兎の声に気がついた奴らがのほうへ視線を注ぐ。女バレの奴らや野次馬のような生徒たちがふらっと覗きにくることはあったが、夏休み中の学校で行う単なる練習試合に見学者は稀だった。いやがおうにも目立つ。ましてや、以前はしょっちゅう練習を見学しに来ていたヤツなのだから。

「あーまじだ。すげーひっさしぶりじゃん」
「なんだよお前、結局ヨリ戻したのか」

 木兎とそばにいた小見とが一緒になって、いつも通りの軽口を叩いた。表情を崩さないまま出入り口のほうを見据えながら、内心、気が気ではなかった。巡る血が不穏に暴れだす。ずっと、この半年とちょっとの間、は一度も体育館に足を運んでいなかった。それをなんで、今になって。この場所でと顔を合わせるということだけで、嫌な汗が出てきそうになる。何かを頭いっぱいに考えるということにいつの間にかすっかり耐性のなくなっていた自分は、自分が思っている以上に弱くて女々しい男になっていた。

「知らねえよ。勝手に来ただけだろ」

 そう吐き捨てるように言って、小便してくる、とおもむろに立ち上がると、そんな俺を見た木兎と小見は「めずらしく照れてやがる」だの「お前以外の誰を観に来んだよあいつが」だのとにかく言いたい放題だった。こいつらの頭には俺たちのヨリが戻った以外の発想はないのか。もっとあるだろ、色々と。そうやって自分で突っ込んでいて、むなしくなってくるくらいには。

 たちが立ち話をしている出入り口とは反対の壁伝いにある扉を開けて外に出ると、冷房の効いた体育館内とは真逆の熱く湿った風が全身にまとわりついてきた。台風が近づいてきている。曇り空はまだ穏やかだが、風のざわつきはどこか不穏だった。

「木葉さん、待ってください」

 閉じたはずの引き戸がすぐさま背中でひらかれる。後ろに目がついていなくても声の主は分かる。なんで着いてくるんだよ、と理不尽な苛立ちが募りそうになるのをぐっとこらえながら、振り返った。俺が振り返った途端、赤葦もまた素早く振り返る、そして音を立てないようにそっと体育館の戸を閉めた。

さんには、俺が来てくださいって無理言ったんです」

 すぐに他人の動揺を見抜く。自分が相当分かりやすいということを棚に上げて、相手の鋭さが今は突き刺すように痛い。そりゃ、そうだろうよ。そうじゃないならどうして今さらが練習試合なんか観に来るんだ。赤葦のいつも通りの落ち着いた表情が、いつも通りの静かな声が、まるで自分に対する挑発であるようにも感じられた。できることならこんな話はせずに、聞くこともなく、気まずい空気を避けながら過ごしたいと、相手のためやチームのためなんかじゃなく、ひとえに自分のためにそうやって思っていた。それなりに上手くやっていたことはメッキが剥がれてしまえばやっぱりそれなりでしかない。羽織っていたジャージのポケットに両手を隠し、足元を見た。涼しい体育館でかいた冷や汗が、舐めるような熱い風のもとで徐々に夏の汗に変わっていく。

「赤葦もカノジョの応援で百人力~みたいなタイプだったんだ?」

 からかうような、挑発し返すような軽い言葉はするすると口から溢れて、自分を救ってくれるようにも陥れるようにも思えた。顔を上げる。揃いのジャージと、本番さながらのユニフォーム。赤葦はじっと視線を外すことなく、一片もためらうことなく真っ直ぐ俺を見据えていた。

さんとは合宿前に別れました。だからまた、遠慮せず観に来てほしいって言ったんです」

 思ってもみない言葉だった。こめかみに、前髪に隠された額に、じわりと汗が滲む。けろっとした表情と淡々とした口調で、いつも通りの自分自身を崩さない赤葦とは対照的に、こっちは急に全身が心臓になってしまったみたいで、自分が今どんな顔をして赤葦の前に立っているのかさえ分からない。夏休み中の校舎の静けさが、誰も居ないグラウンドのさみしさが、二人の沈黙に押し寄せてくるようだった。みるみるうちに蘇る思い出の波と一緒に。

「……は、別れた、って」
「まあ、俺からフッたんですけど」

 赤葦が初めて視線を落として、何かを思い出しているような素振りをした。そこにあるものをきっと俺は知らない。赤葦ととの何かが、二人の間にだけ生まれた何かが確かにある。別れたと言っているのに、自分からフッたとさえ言っているのに、それでもそこに生まれた得体の知れないものに憧れに似た感情がうっすらと湧いてくるのはなぜなんだろう。一度だって手にしたことのないものが、赤葦の手には今もしっかりと握りしめられているように思えた。まるで祈りをこめるように。

「俺も、さんも、自分で決めて、自分で選んだんです」

 赤葦の言葉にかぶさるように、体育館のなかから一斉に部員たちが挨拶をする大きな声が聞こえてきた。練習試合の相手が到着したのだろう。赤葦が素早く首を動かして体育館のほうを見遣った。まだ二年生ではあるけれど、梟谷のバレー部では正セッターが副主将を務める伝統になっている。練習試合といえども幹部連中は何かと仕事があるのだろう。赤葦がぐっと右手に拳を作った。それだけで、殴られているみたいだった。たじろぎそうになったのは、決してその鋭い眼光のせいだけじゃない。

「木葉さんもいい加減、自分から動いてくださいよ」

 俺ひとりを残して赤葦は一足先に踵を返した。さんに良いところみせましょうね、と最後に念を押すように口走って。



 何度も練習試合を組んでいる馴染みの対戦相手との試合は、二ゲームやって二ゲームとも俺たちの快勝だった。はずっと、体育館の二階の欄干から試合を見下ろしていた。その眼が一体何を見ていたのか、誰を追っていたのかまでは分からない。ただ、たった一度だけ目が合った気がした。二試合目、第一セットの最後のスパイクを決めたとき。赤葦はたいがいの場面でそうする王道のパターンを裏切って、エースの木兎ではなく俺のほうへと大きくトスを上げた。完璧なタイミング。完璧な踏み切り。まるでトスが来ると確信していたみたいに。自分で自分にそんなふうに思うことは珍しいが、それくらい稀な、ブロックをすべて振りきった最高のスパイクだった。円陣に巻きこまれるよりもはやく無意識に天井を仰ぐ。そこには目を丸くして、どうしてだか泣きそうな顔をぶら下げたがいた。俺のほうが泣きそうだった。ここがもし公式戦の試合会場だったら、そして最高のスパイクを決めたとき、見上げた先にあるのがの笑顔だったら、俺は本当に泣いてしまったかもしれない。もちろんそんな情けないこと、素直に認めたくはなかったけれど。









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2014.8