Ⅱ Don't Pray Back - 4




 規則的な甲高いアラーム音が耳をつんざいて、何を夢みるでもない深い眠りから呼び覚まされる。目を開けるのも手を伸ばすのもおっくうで、ぐずる子どもみたいに布団のなかへともぐってしまえば、耳にうるさいアラームも多少は遠のいてくれた。緊張で眠れない、なんて思いながら、私、いつの間に眠りに落ちていたのだろう。私は今日という日をずっと待っていたし、同じくらい、ずっとおそれていた。

、さっさと起きなさい。今日、コウちゃんの試合行くんでしょ」

 荒っぽく破られたドアの音はまるでシンバルのよう。そのままずかずかと部屋に入ってきたお母さんはわめく目覚まし時計を止めると、私のかぶっていた布団をはぎとり、出窓のカーテンをまっぷたつに割って全開にした。きらきらと降り注ぐ朝陽が閉じた目にもしみる。薄いフリース地のパジャマを着ていても十一月の朝は肌寒い。なんとか不精な身を起こして、肩から落ちかけていた襟口をつまみあげ、まぶしさにせっつかれながらようやく瞼を持ちあげる。いつもより少し早い、土曜日の朝だった。

「……コウちゃんの試合だけじゃないもん」
「はいはい、音駒もね。あ、そうだ。黒尾くんのぶんもクッキー包もう。あんた二人に持ってってね」

 スリッパを鳴らして忙しなく、お母さんは部屋を出ていった。生粋のコウちゃん贔屓の彼女は、自分の娘の高校よりも、その恋人よりも、当然のようにコウちゃんの味方だった。今日みたいな秋晴れの朝のように一点の曇りもなく、清々しく。
 勉強机の椅子の背にかけっぱなしにしてあったガウンを着こみ、スリッパを履いて部屋を出る。二階の廊下にもバターの匂いがかすかにのぼってきていた。こんな朝から張りきってお菓子づくり。試合当日に差し入れをするならもうちょっと気の利いたものがあるんじゃないか。あと数時間後には私、二人の戦う体育館に居るのだ。そのまた数時間後には、春高切符のゆくえが決まっている。身体の芯がぎゅっと痺れるのは何も寒さのせいだけじゃない。

 洗面所の鏡に映っている寝起きの自分とぱちり、目が合う。寝癖のついた髪に、眠気に負けそうな重たい瞼、ひどい寝ぼけ顔。くちびるに指をあてがうと、その乾いた素っ気ない感触が指先に届いた。

 ――幼なじみとしてじゃねえから。

 私の真ん中をあの一言が過不足なく串刺しにしているようで、彼の声が胸の内に響くたび、身動きひとつできない息苦しさを感じてしまう。彼を拒まなかった自分のこと。拒めなかったんじゃなくて、拒みたくなかった自分のこと。そんな自分をどうやって自分自身のなかに抱えこんだらいいのか分からなくて、分からないまま、今日という日がやって来てしまった。言わなくちゃいけないことがある。伝えないといけないことがある。そう思えば思うほど、ためらいの渦の奥深くに言葉が引きずりこまれていくような気がした。ためらっているのは、誰のための、何のためなの。あの日からずっと考えているのは、そんなことばかりだ。



 三人で神社に行った日の夜、コウちゃんの好物ばかりが並んだ木兎家の夕食の席に、私は家族ごと招かれた。その日、めずらしく泊まりで寮から帰宅していたコウちゃんのために、うちのお母さんとコウちゃんのお母さんが一緒になってごちそうを作ったのだ。塾の時間が少し伸びてひとり遅れて彼の家のインターホンを鳴らしたとき、玄関で私を迎え入れてくれたのはコウちゃんだった。私が着いたころには、大人たちはみんなお酒も入ってもうだいぶできあがっていたから、誰も遅刻した私のことなんか気にしちゃいなかったのだと思う。

 ひとりぶんの夕食だけ取り残されたキッチンテーブルにつくと、コウちゃんが「緑茶でいいよな」と言ってレンジ棚に並んでいた茶筒をひとつ手に取った。家事なんかこれっぽっちも手伝ったことないだろうに。すりガラスの引き戸ひとつ隔てて聞こえてくる大人たちの騒がしい声を聞き流しながら、私はお茶を用意してくれるコウちゃんの姿を、ひとつのめずらしい光景として眺めていた。

「なんだか、もう春高が決まったみたいな騒ぎだね」
「俺をダシに騒ぎたいだけだろ、あのひとら」

 気のない言い方で、ばさり。そうだろうか。あのひとたち、心の底からコウちゃんのファンなのだと思うけれど。彼は慣れない手つきで急須のなかに茶葉を入れて、ポットの熱湯を上から注ぎこんだ。豪華なちらしずしに、からあげ、茶わん蒸し。出しっぱなしのホットプレートの上にはもう何も残っていなかったけど、きっとコウちゃんのために焼肉でもしていたんだろう。ちょっと焦げ臭い油の匂いがキッチンにはまだ漂っていた。
 湯呑みを私の目の前に置いてくれたコウちゃんに、ありがとう、と声をかける。彼は何も言わずに残り物の皿からひとつから揚げをつまみあげると、口に放りこみながら私のとなりの椅子を引いた。彼は大人たちのお守りに疲れていたのか、口数も少なで、昼間会ったときとはだいぶ雰囲気が違っていた。静かなコウちゃんは調子が狂う。あの、インターハイの日の海辺で偶然出会ってしまった彼のようで。

「鉄朗となに話したの、神社で」

 すぐとなりのリビングルームでは賑やかなどんちゃん騒ぎが続いているのに、ここにいる二人がたった数秒でも押し黙ってしまうのはなんとなく気まずくて、あまり考えもなしに昼間の彼らのことを尋ねていた。尋ねてしまった。となりに座る彼の存在が、その温かさや重たさや強さが、ひどく懐かしいようでいて、ほんとうは昔のままなんてことありえない。彼は変わった。私の知らない貴い時間をかけて、私の知らない男の子になった。コウちゃんは自分の湯呑みに入れた緑茶を一口飲むと、ちょっと思案するように視線を遠くへ投げて、それからなんでもないような口ぶりで話しはじめた。

「殴りあってた」
「え?」
「てか、殴りあう。これから」

 殴りあってた、殴りあう、って。痣ひとつ、傷ひとつないきれいな顔で、何を言っているのかさっぱり分からなかった。なんだか穏やかではない、物騒な言葉があまりにも淡々と吐きだされたので、ごはんを噛むのも忘れてしばらく押し黙ってしまう。彼の、精悍な横顔を見つめたまま。

「なあ、

 こんなに近くにいるのに突然に名前を呼ばれて、授業中に当てられてしまったときみたいに嫌な緊張が走る。どことなくまじめな響きのする低い声には、どこにも明かりが灯っていなかった。どうしてそんな声で私を呼びつけてしまうの。あんなにお腹が空いていたはずなのに、胸が閉じてしまえばもう何も喉を通らなくなる。コウちゃんの円い瞳のなかに映っていた私は、幼い子どものようにどこか怯えていた。

「お前のなかに、幼なじみじゃない俺って居る?」

 コウちゃんの真剣な表情をこんな距離で見たのは、ほとんど初めてだった。だってそれは私に注がれるものではなかったから。いつも、遠い遠いコートの上で、ネットの向こうがわにいる相手や、一緒に戦う仲間や、激しく往来するボールに、一心不乱に注がれるものだったから。いつだって明るくて、ちょっとのことで拗ねても、すぐにけろっと元通りになる。彼の喜怒哀楽なら私だって相応に知っているかもしれないけれど、彼のひたむきさを、その瞳が見つめる一点を、私自身が引き受けたことはなかった。今まできっと、ただの一度も。

「……意味わかんない」
「俺は居るよ」

 表情ひとつ変えることなく彼は言い放つ。俺は居る、と。一体なんの話をしているのか、突然のことに頭は彼の言葉を聞きとるだけでいっぱいで、とてもその意味まで噛み砕いてはいられなかった。そう、したくなかったからなのかもしれない。あのときの私の頭がなんにも使いものにならなかったのは。。不意に腕をつかまれて、もう一度コウちゃんに名前を囁かれる。それが最後の合図だった。彼が、彼の料簡を超えて私に触れるための。

 避けたり、逃げたり、茶化したり、きっと色んな仕方で私は彼の行為をうやむやにすることができたはずだ。それでも私はけっきょく、彼の欲していたものを彼の欲したとおりに与えてしまった。指先からすり抜けた箸が、テーブルに落ちて音を立てる。ままならない数秒間。ゆっくりとあてがわれ、留まり、離れていく感触。震える瞳の奥にある、彼の誠実な水の溜まりが、この一瞬の痛みを唯一慰めてくれるものだった。

「……今のは、幼なじみとしてじゃねえから」

 こんなふうにして、こんなことをして、こんな言葉をしぼりだして、ようやく二人になれるような二人。思い知らされる。たった数秒だけだったとしても、私たちはこのとき、初めて「二人きり」を味わったのだと。
 呆然とする私を置いて、コウちゃんは席を立った。今の今まで、親たちにはとても見せられないようなことをしていたのに、堂々と彼はすりガラスの引き戸に手をかける。そして、「俺ちょっと、走ってくるから」と親たちに向かって大声で断ると、私にもう一度目をくれることもなく、そのままキッチンから出て行ってしまった。……



 代表決定戦が行われる区の総合体育館に着くと、そこは入り口からひとでごった返していた。

 こんな立派な体育館でなかなか試合できるものじゃない。インターハイ予選の決勝もとても大きな体育館で行われていたけど、何度足を運んでも公式戦独特の緊張感に私はいまだに慣れなかった。忙しなく行きかうひとたち、笛、ボール、シューズの擦れる音、声援、ブラス、鳴り物、テレビカメラ……。あらゆるものに翻弄されているうち、だんだんと方向感覚が失われていく。一緒に来るはずだった友人が寝坊で遅刻しているせいで、私は体育館に入ってほどなくしてすっかり迷子のようになってしまった。
 天井からぶら下がっている案内板を見ながら歩いていたら、前から小走りに歩いてくる他校生にぶつかりそうになり、無理な体勢で避けようとした身体を後ろから支えられた。え、と思って振り向くと、そこに居たのは試合用のユニフォームにジャージを羽織ったコウちゃんだった。呼吸の仕方を、忘れてしまいそうになる。

「音駒のやつら、あっちに集まってたぞ」

 背中を支えてくれていた手をすぐに引っこめて、彼は廊下の向こうを指さしながらそう教えてくれた。ちょっと視線を外せば、彼の数メートル後ろにある体育館の入り口前には、同じようにユニフォームとジャージを着こんだ梟谷の選手たちがわらわらと集まりだしている。試合前のアップの時間を待っているのだろう。どうやら私はいつの間にか、まったく逆の入り口のほうに迷いこんでしまっていたらしい。

「あ、……ありがとう」

 一言発するのさえ喉が詰まって、とても視線を合わせていられない。試合前に彼と会うつもりはなかった。むしろ、会いたくないとさえ思っていた。半端な気持ちを抱えたまま彼に会って、彼の大切な何かに触れてしまうのがこわかったのだ。こんな喧騒の真ん中で思いがけず鉢合わせてしまって、どんな話をしたらいいか何も頭が回らない。気づけば、試合後に渡そうと思っていたクッキーの包みを彼に差しだしていた。コウちゃんの目が少しだけ驚きにみひらかれる。

「あの、これ……うちのお母さんから」
「おお、サンキュ」

 コウちゃんの手に押しつけるようにして包みを渡すと、それだけでまた会話が途切れてしまった。大事な試合前のコウちゃんはもっと緊張しているのかと思いきや、むしろリラックスした様子で、いたっていつも通りのすっきりとした顔をしているみたいだ。ここで会ってしまったのはアクシデントのようなものでも、こうやってコウちゃんの表情を見ることができて、少しだけほっとしている自分がいる。ひとつも欠けたところがない。彼は彼の百パーセントを今日の日にしっかりとってあったのだ。

「じゃあ……」

 彼が「あっち」と教えてくれた方向へと歩きだそうとしたとき、コウちゃんはあの日の夜のように私の腕を不意につかんだ。名前を呼んで。強引に私の視線を奪って。優しさではなく、思いやりでもなく、牙を剥くことのできる感情が、凶暴なかたちをした感情が、私に真っ向から迫ってくる。おろおろとする間もなくコウちゃんは腕ひとつで私を引き寄せた。あやうく彼の胸に頭をぶつけてしまいそうになるくらい、強く、強く。

「優勝してくるから」

 夏の日、遠い水平線を見据えて彼が似たような誓いを立てていたことを思い出す。はるか彼方へ放たれたはずのあの言葉が、今になって私を射ぬいてしまった。遠くからここへ還ってくる。潮が引くようにざわめきが遠ざかって、ただコウちゃんの声だけが、私の鼓膜を波立たせていた。
 こんなときにどうして私は、けっして少なくない彼と過ごした日々のことを、ぽろぽろと雨のように思い出してしまうのだろう。幼なじみの距離を共有してきた十何年間。笑いあった。泣きじゃくった。喧嘩もした。友達じゃない。家族でもない。恋人の所作も知らない。二人は、幼なじみだった。互いにとって、たったひとりの。

「コウちゃん、あのね、私、」

 あのね、と口走ったとき、私の腕を圧迫していた彼の手のひらがふわりと離れて、かわりに彼はその手のひらを私の口もとを隠すようにかざした。ふっと内側にこもっていたはずの言葉が消える。まるで彼の手のなかに吸いとられてしまったみたいに。ひらいたその大きな手の向こうで、コウちゃんの大粒の瞳が私だけを映していた。

「わるい、今は聞きたくない。……虫が良すぎるけどさ」

 へらっと眉を下げて笑う彼を見て、慌てて首を横に振る。そんなことない。わるい、なんて言わせて、ごめん。彼の右腕がゆっくり降ろされて、その手のひらはいつの間にかくしゃっと握られたひとつの拳に変わっていた。彼の手のかすかな震えが私にも伝染していく。二人してさざめき立って、寒くもないここで凍えてしまいそうだった。

。一言でいいから、俺のこと応援して」

 力強く握りしめたその手を震わせながら、らしくない神妙な声色で、コウちゃんは私に応援の言葉をねだった。人通りの激しい廊下の壁際で、こんなにも静かな声が曇りなく届くことがふしぎだった。今まで無数に散らかしてきた言葉。これからも無数に散りばめるだろう言葉。それなのに今ここで彼は「一言」を遠慮げに望んでいる。まるで最初で、最後のような言い方をする彼の覚悟が、それでも私にはとうてい届かないくらいに、まぶしかった。

「がんばって。ちゃんと見てるから、コウちゃんのこと」

 今まで幾度となく差しだしてきたその一言が、たった一度きりの意味を持って彼へと伝わっていく。コウちゃんの震えていた瞳の奥がしんと鎮まって、私たちはようやく不穏に共鳴していた胸を撫でおろした。たった数分でも、数秒でも、同じ鼓動のなかに居られたことを忘れない。忘れられない。何年経っても、大人になっても、何度でも私はこの日のことを思い出すんだろう。十八歳のコウちゃんの、光にまみれた笑顔と一緒に。



 ひとり人ごみを縫うように歩いていくと、果たして廊下の突き当たりには鮮やかな赤いジャージをまとった音駒のみんなが、梟谷のバレー部員たちと同じようにアップの時間を今かと待っていた。ボールを手にしていじっていたり、軽くストレッチをしていたり、はたまた雑談をしていたり、シューズの紐を真剣に結び直していたり。思い思いに時間を潰しているなかで、鉄朗はというと隅のほうで床に座り、エナメルバッグを机がわりにスコアブックをひろげていた。

 声をかけようか迷いながら近づくと、揺れる影に気がついて鉄朗ははっと素早く顔を上げた。かたく結んであった心がようやく和らいでほどけていく。そして、それはどうやら鉄朗のほうも同じだったみたいだ。神経質な猫みたいに俊敏な仕草をした彼が、私を見とめた瞬間に、束ねていた緊張の糸を散らすように優しく目を細めたから。

「遅かったな。もう来ねぇのかと思ったわ」

 なんでそんなこと、そんなふうに、言うの。彼にとってはなんでもない言葉でも、今の自分にとってはとても重たいそれ。だって私、この日が永遠に訪れなければいいのにとほんの少し考えてしまっていたのだから。コウちゃんの前で我慢できたものが、彼の前だととたんにこらえきれなくなってしまうのはなぜだろう。歪みそうになった顔を必死に伏せて、まるで駆けこむみたいに鉄朗のとなりに小さくしゃがみこんだ。その肩に、目頭を押しつけるようにして。

「……目にゴミでも入ったかい、お嬢さん」

 顔を伏せたままぶんぶんと首を振る。ただ息をして、彼のジャージの匂いが肺の底に沈んでいくたび、自分から剥がれ落ちていったものやすり抜けていったものたちの作った穴ぼこがゆっくりと塞がれていくような気がした。傷薬みたいなひとだ。だけどもしかしたら、私に傷を作るのも、私にとってかけがえのないひとばかりかもしれない。そう思えば、癒されていく傷にさえきっと愛しさがこみあげてくる。

「ちょっと充電してるだけ」
「おいおい、これから死闘に向かうカレシから吸いとるなってーの」
「たまには私にもさせてよ」

 充電、充電、と言って鉄朗はいつも私に触れる。そんな言い方しなくたって、いつだって好きなように触れてくれて構わないのにと思うけど、私はその響きがけっして嫌いではなかった。何かが伝わっていること。何かを求められているということ。その喜びを、彼が教えてくれた。出会ってから今まで、ずっと、彼が私にその喜びを教えてくれなかった日はないというくらいに。
 鉄朗の手のひらが私の頭を撫でながら、そっと自分の肩から引き離す。前髪が少しよれてしまったような気がしたけど、もうそんなことはあまり気にならなかった。もう少し充電していたかったのに、なんて、こんなところではそういうわけにもいかない。自分の考えのなさをいまさら反省していたら、無防備だった左手の甲に彼の大きな手のひらがふわりと重なったので、私は驚いてようやく顔を上げた。

「んじゃ、こっちにしとけ。俺もできるから」

 鉄朗の視線は相変わらずスコアブックに注がれていたけれど、私たちはエナメルバッグの影で確かに手をつないでいた。体温のかたまりがうごめいて指と指とがなめらかに絡まる。手をつなぐってふしぎだ。触れていることと触れられていることの境界線が、いつの間にか溶けてなくなってしまうのだ。二人の発熱が涙のわけを乾かしていく。しだいに視界がひらけて、耳がたくさんの雑音をひろって、私たちだけのものじゃない、二人をぽつんと置き去りにする世界のことが見えてくる。体育館の出入り口でなかの様子をうかがっていた一年生の子が、そろそろっぽいです、と大きな声で部員全体に報告をした。鉄朗が無言でスコアブックを閉じる。そして、二人の手はまたどちらからともなくばらばらになった。

 バッグを肩に背負いながら、鉄朗が膝に手をついて立ち上がる。私もあわててスカートの裾を整えながらそれに続いた。二本の足で立ってしまえば私たちは身長差がうんとある。つま先に少し力をこめて見上げた先で、鉄朗がどこか名残り惜しそうな顔をして私を見つめていた。

「……行ってくる」
「うん。行ってらっしゃい」
「あー…約束は守るからな」
「やく、そく?」

 彼の言う「約束」がどこに芽生えたものだったのかとっさには分からなくて、疑問符を浮かべながらつい首を傾げるそぶりをしてしまう。鉄朗はそんな私を見下ろして、ちょっと照れくさそうに視線を泳がしてから、ぽつりと言葉を吐きだした。心なし、早口で。

「言ってたろ、冬はもっと俺の応援がしたいって」

 彼の言う約束、それは指切りなんかにはとても満たない、夏の日の私のわがままのことだった。忘れるようなことじゃない。すぐさま思い出せる。あのときの大きな背中の熱っぽさも、眠気の絡まった会話の心地良さも、夜風が肌と浴衣のすきまを滑っていく感じも、「任せなさい」と答えてくれた彼の声の響きも、ぜんぶ。あんなささいな一言のことを彼は今ここで持ちだして、今度こそ二人のあいだに誓いを刻もうとしている。鉄朗は笑っていた。笑顔というのでもないような、瞳の奥のほの明るさだけでやわらかくほほ笑んでいるような、そんなはかない笑みだった。

「春高、ぜってー俺の応援させてやる」

 ――インターハイも、国体も、十何年分の遅れも、全部取り返すぐらい、応援させてやるから。

 私の何をどれだけ見透かしていたのなら、彼はそんな表情で、そんな鎖のような決意を紡げるだろう。まるで命令のようにも響く、びくともしない、頑丈な言葉だった。その枷はきっと私にも、彼自身にも嵌められている。何かを誓うということは、告白に似ているのかもしれない。偉大な賭けごと。私たちは、二人、たったひとつの可能性に懸けたのだ。
 彼が差しだしてくれたその決心に耳を傾け、頷きながら、自分のなかにもひとつの決心が固まりつつあることをゆっくり確かめる。二人の関係を「まだ二年」だと少しさみしげに言ったあなたが、「プロポーズになればいいのに」と小さな声で口走ったあなたが、そして、私の小さな願いごとをずっと大きな約束のように大切に扱ってくれていたあなたが。好きだ。もう戻れない、戻りたくないと、誓えるくらいに。

「期待して、待ってる。ずっと待ってるよ」

 涙を喉の奥へ押し戻すのに必死でそんなことしか言えない。それでも鉄朗は眼の奥に誠実な輝きを宿して、私に頷き返してくれた。それ以上何も言わずに彼は赤いジャージをひるがえし、仲間たちと一緒に体育館へと駆けていく。私を廊下の隅に残して、わき目もふらず一直線に、彼の言う「死闘」へと向かうために。

 今日、これからここで始まる戦いにどんな決着がつこうとも、けっして変わりはしないものがある。この試合の先に、私には私なりのささやかな決着がきっと待っている。逃げも隠れもせずに引き受けてみよう。この想いに、ひとつのピリオドを打とう。始まりのないものに始まりのしるしをつけてくれた彼の優しさを、私の勇気にかえて。いつかまた、ここで選んださよならの続きを、三人が笑顔で迎えられるように。









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2015.12