Ⅱ Don't Pray Back - 3




 あと少し。息を切らして、走り抜く。あとほんの少し。手を伸ばして、奪いとる。いざ高校三年間のバレー生活が終わりに近づいてみると、頭を支配していくのは自分自身の三年間を総決算する覚悟だとか、最後の春高に対する気合いだとか、そういうものではなくて、ただひたすらこのチームで一試合でも長く戦っていたいという強い願いだけだった。強豪だなんだともてはやされても、悔しい思いをせずに終わった大会なんて一個もない。今度こそは必ずテッペンをとる。その一心でひたすらボールを打ちこみ続けてきたのだ。春高の切符を掴むまであとひとつ。勝たなければなんの意味もない。負けて悔いなし、そんな言葉は、遠い昔に捨ててきた。

「木兎、お前N大のセレクションの一次通ってたぞ」

 風呂上がりに寮の談話室のすみで柔軟をしていたら、廊下を通りかかったコーチの滝沢さんが俺のことを見つけてそんな報告をしてくれた。滝沢さんは男子バレーボール部のコーチでもあるし、同時に、スポーツ推薦で入学してきた生徒のための学生寮をとりまとめる寮監でもある。飯食ってるときも、こうやって自由時間をめいめい過ごしているときも、なんか監視されているようで一年の最初のころは居心地が悪かったが、三年にもなってそんなことを言ってる神経質なやつはここにはもはや居ないだろう。監督と比べれば歳も近いし、今となっては気兼ねなくバレーのあれこれを相談できる兄貴分のようなものだった。

「あ、うす。もう出たんですね」

 いきなり通りすがりにそんな声をかけられ、入念な柔軟に神経を注いでいたこともあって、滝沢さんの言葉になんだか気のない返事をしてしまった。俺の反応を受けて、滝沢さんの眉がぴくりと動く。N大。セレクション。一次。ここにある三年間のその先のこと。あとのこと。何も考えていないわけではないし、監督とも顧問とも何度か相談して慎重に決めたことではあったけれど、それでも今の自分にとってその報告があまり感情を揺さぶるものではないことも確かだった。

「お前なあ……、もう少し喜べっつの。誰でも行けるとこじゃねえんだぞ」
「そうなんですか?」
「おいおいおい」

 お前のセーカク知らないやつからしたらただの嫌味だな、と滝沢さんが談話室の出入り口に肘をつきながら呆れきったような渋い顔をする。思えば自分は、進路についてそれなりに悩んだことはあっても、そのためだけの苦労といったものを味わったことがないし、それがどういうものなのかもイマイチ分からない。だけど自分は別に、選ばれた人間なんかじゃない。ただ、選んでいるだけなのだ。それも、自分が自分の考えたいことだけを考えられる道や、自分のしたいことだけをしていられる道を。格好いいことでもなんでもない。むしろ勝手な賭けだ。そんな賭けが許されていることを恵まれていると言うのなら、恵まれているのは自分の才能だとかそういったものにではなく、身を置いている環境や、身の周りに居てくれるひとたちに、だと心底思っている。

「滝沢さん、すみません。俺いま、春高のことしか頭ないみたいっす」

 こんな器量のかけらもない発言や態度に、呆れながらも付き合って、あげく穴を埋めるように振る舞ってくれるということ。無償の奉仕なんてものはないのだから、彼らの努力は自分の努力で報いるしかない。滝沢コーチの、小さな溜め息。それは自分に向けられた最大級の期待のあらわれと同じだった。

「……見りゃ分かるよ。あと一勝だ。頼んだぞ、エース」

 頼まれなくとも、一勝と言わず、テッペンをとるまで何勝だってするつもりだった。俺にはこれしかない。そういう場所に自分を追いこんだのは、間違いなく自分の選択なのだから。



 十一月も上旬が過ぎて春高の最終予選がいよいよ近づいてきたころ、土曜日の午後練が体育館の点検で中止になり、ぽっかりと穴の空いたような半休が部員全員に与えられた。「この際だから最後の骨休めをしとけよ」とコーチに言われ、そういえばいい加減なことにセレクションの一次通過の話を親にしていなかったと思い出し、どうせならと報告がてら一日だけ家に戻ることにした。穏やかな秋晴れの午後。久しぶりに何もすることなく家にいると、色んな記憶がよみがえってきた。庭先で、毎日、日が暮れるまでボールを触りつづけたこと。裏庭に面した家の壁には、俺がボールを叩きつけすぎてできた跡がいくつもある。どれだけ怒鳴られても、説教が喉もとを過ぎれば何度でもボールを壁にぶつけて、ひとりでレシーブやスパイクの練習に明け暮れた。紛れもない自分の軌跡たち。こんな時期に体育館が使えないなんてと思ったが、今このタイミングでそれを確かめられてよかったと、そんなふうにも思えた。

「光太郎、ちゃんが来てくれてるわよー」

 厚手の起毛パーカーをかぶり縁側に出ていたサンダルをそのままつっかけ、庭先で手持ちぶさたにオーバートスを延々としていたら、「あんたまた風邪引いたらどうすんのよ」とぶつぶつ言いながら母親がの来訪を知らせにきた。これ、寝耳に水、ってやつ。ばかみたいに慌てながら廊下を抜けて玄関に向かうと、そこにはニットのロングカーディガンを着て、小さな革のポシェットを肩に提げたが立っていた。いたって自然な笑顔で、久しぶり、と言っては俺を迎えた。

「突然ごめんね。お母さんが、コウちゃん帰ってるってはしゃいでたから」
「いや、いーけど……」

 国体だなんだと何かと理由をつけて簡単な連絡は取りあっていたけれど、顔を合わせたのは文化祭であんな情けない姿を晒して以来のことだったので、平静なふりをしようにもあまり上手い具合には振る舞えない気がした。別に今さら、かっこつけるような柄でもないし、そういう関係でもないことは分かっているけれど。思いっきり部屋着みたいなパーカーも、おろしたままの髪も、油断しっぱなしの自分の身なり。ほんとうに、突然すぎる。そんな呆けた俺の顔を窺うように首を少し傾げながら、彼女が紡いだのは意外な誘いの言葉だった。

「あのね、必勝祈願、しに行かない?」

(ねえ、大会前に神社にお参りいこうよ。必勝祈願)(やーだよ、めんどくせー。俺はカミサマになんか祈らねえもん)(コウちゃんのばちあたり!)(じゃあ、が俺のぶんも俺のこと祈っといてくれよ。それでいいだろ? な!)

 必勝祈願。その一言で、遠い思い出がぽこんと頭のなかに湧き上がって勝手に脳裏を流れだした。中学三年の最後の大会の前だったか、中学校からの帰り道に夏祭りで毎年足を運んでいた神社があって、その前を通ったときにが不意にそんなことを言いだしたことがあったのだ。その神社はけっこうな石段をのぼらないと本殿に辿り着けないつくりだったから、面倒くさくてまともに取りあいもしなかったけれど、ももしかしてそのときのことを今でも覚えているんだろうか? あんな、邪険なことしか言えなかったのに。

「……音駒が優勝なんじゃねーのかよ」

 そんなことをしっかり覚えていてあげくこんなところで引き合いにだす自分も自分だ、とすぐさま思う。インターハイで負けた日のこと。春高で優勝する、と言い放った俺をあしらうようにが放った言葉のこと。もちろん、春高に行けるのは一校だけではないんだし最終予選の必勝祈願ならアリっちゃアリなのかもしれないが、それでもやっぱりふしぎな響きのする提案だった。なんの疑問もさしはさまず、は当たり前のように俺を応援してる。今回ばかりはそんなうぬぼれもできなかった。

 そのとき、まるで注意を促すように玄関のドアをノックする音がして、彼女の背後に視線がふらついた。ドアがちょっとひらいて、一人の男が顔を覗かせる。あの特徴的な髪型と喰えない笑顔。それはまさに、俺から無防備なうぬぼれを削ぎとった張本人だった。

「ご心配なく、木兎クン。うちの必勝祈願もちゃーんとしますんで」

 黒尾は、俺との立ち話を外で聞いていたのか、わざとらしい朗らかな声で俺を煽った。なんだよこいつら、次から次に、突然顔だしやがって。おちょくってんのか。混乱している俺をよそに、はくすくすと楽しげに笑う。そういえば、三人で会って、この三人だけでどこかに行くなんて、この三年間のうちで一度もないことだった。変に意識して避けていたところもあったかもしれない。けど、もとを辿れば俺たちは三人でしか成り立たないような三人だったはずだ。それを俺がはなから崩してしまった。だから、二人は二人になった。今でもそんな女々しい気持ちが、拭えない。

「ね。行こうよ、三人で」

 ありえたかもしれないけれど、ありえなかった一日を。あの日、待ち合わせの約束を破ってしまった俺のもとに、約束を破られた二人がわざわざ俺を迎えに来た。そう考えたら、俺はのそのけなげな誘いを断る理由をすべて塞がれてしまった気がした。



 さびれた赤い鳥居をくぐり、懐かしい匂いのする雑木林のなか石段の参道をのぼってゆく。風の通り道。ときおり冷たい風が吹き抜けても、穏やかな木漏れ日が差せばじゅうぶん心地のいい陽気だ。階段をのぼっているあいだも、のぼりきっても、誰もいない。なんでもない土曜日の神社は静まり返っていて、俺が小学生のころはよく境内の近くでかくれんぼなんかして遊んでいたけど、今はそういう子どもたちの影もなかった。

「勝負っつーのは、勝つやつと負けるやつがいて、はじめて勝負なんだからな」

 不意打ちのまま家から引っ張って来られたせいで、俺は財布も何も持っていなかった。賽銭のための小銭をから借りて、礼を言わなくてはならないはずがまたそんなことをぐずぐずと漏らしてしまう。するとのとなりで黒尾がぷっと吹きだして俺のことをからかうように笑った。

「ばかの木兎に言われなくてもそんなこと分かってるよなあ?」
「お前に言ってねーんだよ! に言ってんの」
「ああ、すまん。ひとのカノジョに気安く説教たれるもんでつい」
「かっ……悪かったな! こちとら十年以上の付き合いだからよ」
「しーずーかーに! 神様の前!」

 ぴしゃり、との声が響いて、俺たちは同時に押し黙る。小銭を賽銭箱に投げ入れて、参拝作法なんてよく分からないが、俺たちは鈴を鳴らして思い思いに手を合わせる。パンパン、との手のひらがきれいな音を慣らした。目が覚めるような澄んだ音だった。

「大丈夫だよ。私がほんとうに祈りたいのは、勝つとか、負けるとかじゃないから」

 囁くような小声でが言う。彼女のほんとうに祈りたいこと。勝負が勝負であることよりも、大事なこと。それはもしかしたら俺や黒尾が遠い昔に捨ててきたことだったのかもしれない。重たくて捨てたそれを、静かに拾い集めて、いつかもう一度その意味を手に取ることができるように。

「……必勝祈願じゃねえのかよ」
「自分の勝利は自分で祈ろーな、木兎」

 を挟んで、逐一釘を刺される。けっきょく三人がカミサマの前で沈黙を守れたのは数秒にも満たないわずかな時間だった。別に、ガキのころから俺の粗相を見ているカミサマなんだし今さら礼儀もくそもないかもしれないけど。無人の社務所前の自販機で飲みものを買いながら、俺と黒尾は、いつもの調子にさらに輪をかけてぎゃんぎゃんと言いあっていた。財布を持ってない身で偉そうに、お前は汁粉だ、やめろテメェ、勝手にボタン押すんじゃねえよ、等々。はそんな俺たちの子どもっぽい小競りあいを、なんだか物珍しいものでも見るような目で楽しそうに眺めていた。

「鉄朗とコウちゃんって、二人が思ってる以上にきっと仲良しだよ。見てたら、分かる」

 温かいロイヤルミルクティーをこくんと飲んでから、がそんなことをしみじみと言う。どこがだよ、と口では反応しつつも、別の学校に通いながらの三年間、こんなふうにバレーのことだけでなくくだらないことで言いあえるのは確かに黒尾だけだった。なんか悔しいので、あんまり認めたくはないが。

「……さて、と。私、塾があるからそろそろ行かないと」

 腕時計を確認してがベンチから立ち上がる。背の低いペットボトルにはまだミルクティーが半分ほど残っているみたいだったが、彼女は温かさを保ったそれをカイロみたいに手のひらに持ったままベンチに座る俺たちを振り返った。

「二人はどうする?」
「お気遣いなく」

 黒尾が芝居がかった調子で手を挙げて、間髪入れずにそう返事をする。は、どこか慣れた感じの、「いつもの」笑みをこぼした。二人の、二人だけの、二人きりの距離が、そこには少しだけ滲んでいた。

「じゃあ、先に行くね。二人とも、あんまり外に長居して風邪引いちゃだめだよ」

 健康第一ね! そう言い放って、は足早に参道を駆けていった。俺たちを残して、彼女の背中が石段を駆け下りて消えていく。その後ろ姿を見送りながら、俺もまたひとくち、黒尾に買い与えられた缶コーヒーを一口すすった。奢ってもらっているのは癪だけど、温かいものが喉を通りぬけて腹に落ちていくたび、頭も心もふしぎと整理がついてくる。なんでもかんでも出したら出しっぱなしのまま散らかっていた感情がもとの場所に、どこかに仕舞いこんだまま行方不明になっていた感情が引きだしのいちばん上に。やがて、の姿が見えなくなったころ、沈黙が嵩を増してしまう前に黒尾が口をひらいた。ガキのころ遊んだ神社に、高校で出会ったやつと一緒に居る。そう思うと、へんてこなタイムスリップをしている気分だった。

「仲良しだってさ、俺とお前。どうなん?」

 ついさっきのの一言が掘り返される。仲が良い。そう言われればそうなのかもしれない。黒尾はダチだ。学校で毎日顔を合わせるクラスのやつらとはまったく違うけれど、そうやってその存在を俺のなかの引きだしに押しこめるのならば。だけど、ほんとうにそれだけか。改めてそんな問いを立てるまでもなく、黒尾は俺にとって、それだけではなかった。けっして。

「……俺、一年のときお前のこと苦手だったな」

 また、こんな無頓着なことを自分はずけずけと言っている。許してくれるひとしか周りにはいないから。黒尾は俺の言葉に不意を突かれたみたいに目をまるくさせて、やがて「正直なやつだな」とコーヒーの缶にくちびるを触れながら薄い笑みをこぼした。一年のとき。出会ってまだ間もないころからほかとは違うと思っていた。そして、その直感に頼った自分の嗅覚は正しかった。色々な、意味において。

「つーか、アタマ殴られた気分だった。都立にもこんなすげーやつがいて、本気で全国目指してて、授業はなげーし部活はみじけーのに、全部ちゃんとやっててさ。俺だって都立なら音駒行ってたかもしんねーけど、自分はこんなに上手くやれてたかって考えたら、正直自信なかった」

 俺が自分をたったひとつのことだけをできる場所に追いやったのは、自分がたったひとつのことしかできなかったからだ。自分の愚かなくらいに直線的なセーカクをそれなりに知っていたからだ。堰を切ったように溢れてくる言葉に自分でも驚きながら、それでも流れだしたものが流れきるまで言葉も想いも澱みなく止まることはなかった。そのあいだ黒尾はずっと黙って俺の言葉に耳を傾けていた。そして、すべてを聞き終えてから髪をかき撫ぜ、呆れたような深い溜息をひとつ落とした。

「……お前は自分がどんだけのやつ殴り倒してきてると思ってんだよ」

 俺たちいま、絶対にしないはずだった会話をしている。そんなふうに思ってしまうくらい、意外なキャッチボールだった。

「お前ンことも?」
「ま、それなりに」
「んじゃ、殴りあいだな」
「お、やるか?」
「ねーよ」

 茶化したファイティングポーズをとる黒尾のことを手で払うようにいなして、ようやっと俺は素直にその冗談に笑うことができた。ぐっと腕を伸ばして伸びをする。気持ちの良いまっすぐな談笑の底には、茶化しきれなかった本音の名残りがしぶとくこびりついていた。

「……けど、マジで殴りあってたほうがよかったのかもな。一度くらい」

 あの果たせなかった夏祭りの日が過ぎて、「黒尾くんって良いひとだね。友達になっちゃった」と妙に楽しげに言っていたが、数ヶ月後には黒尾と名前で呼びあうような関係になっていたとき。負けたと思った。何に、かは分からないけれど、強いて言うならば自分の浅はかな、無意識の余裕みたいなものに。自分から紹介すると言ったくせに、こんな情けない話ってあるかよ。自分のことさえうまく考えられない、そんな自分が、あのときはむしょうに苛々した。

 背の高い木々の枝葉がざわめいて、冷たい秋風が短い髪すらさらう。少し、陽がかげって肌寒くなってきた。健康第一、だ。「行こうぜ」と言って、ベンチから立ち上がると同時に空になったコーヒーの缶を数メートル先のゴミ籠めがけて放り投げる。みごと的中。ナイスシュート。アルミ缶が金網にぶつかって落ちていく軽快な音が、からからと落ち葉が地面を踊ってゆく音にまぎれて消えた。

「木兎」

 先に立ちあがって石段に向かっていた俺を、黒尾が背後から呼びつける。身体ごと振り返る。冷たい風のなかに、やつが真剣な顔して立っていた。

「待ってたって、別れてやんねーぞ」

 分かっている。ほんとうは、どんな事実よりも、もっともらしく分かっている。認めたくないだけで、目を逸らしていただけで。だけど、こんなふうに一直線にまじめな視線で射抜かれたら、これ以上逃げなくてもいいんだって、むしろ少しの勇気さえ湧いてくるような気がした。

「もう待たねえ、って言ったら?」

 その「もう待たない」の意味をはき違えるようなやつじゃない。数メートルの距離。黒尾は拳をつくった片腕を俺に向けてすっと掲げた。

「殴る。精神的物理的に」
「……いーな、それ。乗った」

 負けじと、俺も片腕の拳を、あいつに向かって突きつける。グーとグーの向かいあわせ。これが今の俺たちのゼロ距離。拳ふたつぶん。俺と、黒尾の、現在地。

 勝つやつと、負けるやつがいて、はじめて勝負は成り立つものだ。身に浸みている厳しさを、のたうちまわるような苦しさを、それでも俺たちは繰り返す。理由なんかない。あるいは、たったひとつしかない。
 好きだから。
 勝負の価値は、ただその一点だけにある。









←backtopnext→

2015.11