Ⅵ ほうき星




 雨に濡れた地面がすっかり乾けば、散りゆく桜がいびつな列をなして道になる。春の放課後には桜の道をかきわけるほうきの群れが、ぽつりぽつりと校庭のあちこちにあらわれた。秋の落ち葉掃きと同じようなもので、クラス内で昇降口の掃除を言い渡されている班がいくつか校庭やピロティーの掃除に駆りだされるのだ。つい数日前まであでやかに咲き誇っていた桜の花を、四十五リットルの半透明のごみ袋にがっさがっさと入れていくのは、どうも哀しい感じのする光景だった。きっと誰の目にも、春ははかなく、命は短いものだから。

「おにーさまー」

 グラウンドのすみのベンチで堂々と掃除を放棄している瀬見英太の背中に、天童は水飲み場の奥からちらっと顔をだして声をかけた。何やら物思いに耽っている様子だった瀬見は、天童の呼びかけにすぐには反応しなかったけれども、やがて眉根を寄せたなんともいえない表情で彼のほうを振り返ってみせた。二人の手には、ほうきが一本ずつ。どちらも掃除用具としての役目を全うしているとは、とうてい言えないが。

「……お前に兄さんって呼ばれる筋合いないけど?」
「うん、知ってる。でも振り向いてくれたじゃん」

 にっこり笑って、天童は構わず瀬見のとなりに腰をかけた。どうせこの掃除の時間が過ぎればまた体育館で顔を合わせる二人だったから、こんなところで偶然を装って一緒にいるというのもどこかこそばゆい。それでも、二人にはここで肩を並べる理由のようなものがあって、清算すべきものが確かにあって、それはお互いに承知していることだった。それが「今」なのだ。足もとに溜まっていた踏みしだかれた花弁を、天童はさっとほうきの平たい面でこするように払った。コンクリートのざらざらを這うように、早くもなごりの春が遠のいていく。

「兄妹げんかしてるんだって?」

 頭上にひろがるのは相変わらずのぱっとしない曇り空で、見上げたとしてもなんの気晴らしにもならないような白一色の天井がどこまでも続いていた。手持無沙汰にほうきの柄を右手、左手と持ち替え、ほこりのかぶったローファーの先に瀬見は視線を落とす。「兄妹げんか」なんていう、わざとらしく子どもっぽい響きが、瀬見には天童のらしからぬ優しさのように感じられた。それが、励みにも痛みにもなり変わる。そんなふしぎな心持ちがした。

「そ。同じ生活の匂いがするだろ」
「……よく覚えてんね、そんなの」
「マジ焦ったからなー、あのとき。なんで分かんのって」

 天童覚と瀬見英太が出会ったのは、二年前の四月のことだった。持ちあがりで高等部に進学した瀬見と、遠くの中学から引き抜かれて入学してきた天童。瀬見にとって、出会って間もない四月にいきなり投げかけられた言葉としては、天童のそれは充分すぎるほど印象的なものに違いなかった。焦ってしまったのは、それが兄妹の外にある何ものにも理解されたり共有されたりしないような秘密だと思っていたから。それだのに、天童はずいぶんと滑らかに、するりと、二人の違和を受け入れた。好奇の目もなく、疑いの余地もなく。だから、そういうやつだったから、今もなおチームメイトとして、ひとりの友人として、おかされない距離を保てているのだろう。この二年間、と天童のあいだに何があったのか、瀬見は知らない。しかしそれは恋愛に落ちているのであれば当たり前のことで、彼にはそれだけのわきまえもあるはずだった。みさかいなくを叱りつけてしまったのはむしろ、自分が彼女にとって紛れもなく血のつながった兄であることを、確かめたかったからなのかもしれない。身勝手な、ことをした。兄として妹を傷つけた。だけど、取り返しのつかないものなど何もない。二人が、兄と妹である限りは。

「……俺が悪いんだ。の気持ちを無視して、決めつけて、兄貴面したから。ちゃんとあやまるよ。勝手にメール見るとか、ルール違反もしちゃったしな」

 遠く、数羽のすずめが桜の花びらをつついてグラウンドを飛んだり跳ねたりしているのを見ながら瀬見は話した。あやまる。そんな言葉ひとつが、天童にはなぜだか手を伸ばしても届かない場所にあるもののような気がしてしまう。まぶしかった。と自分との関係のあいだには、おそらくひとつずつあやまっていけばきりがないほどの言葉や行為があったけれど、それをもししてしまえば、二人はもう同じかたちをなして居られることはないのだろうと思う。あやまってはいけないあやまちを抱えこんで、だからこそこの関係はとても弱くて、弱いからこそ、守りたいと感じるのかもしれない。もてるすべてを使ってでも。天童はいつの日からか、その未知の源泉からあふれだす力を味わいつつあったのだ。つまり、他人のなかに、自分の存在の証左を求めるということ。不幸になったり、幸福になったりする。そのゲームのなかに、身を投じるということの、莫大な力を。

ちゃんはさ、」

 天童は、一年前の春先に図書館で見た光景を、瀬見に伝えてしまおうかとふと思った。この兄妹はもっと素直にお互いの気持ちと向き合えるのではないかと、そんなひらめきがにわかに胸を衝いたのだ。けれども、その思いつきは思いついた途端にすぐさましぼんで、あり地獄に呑まれるように胸の砂地に消え去った。分かった気になって報告したとしても、けっきょく二人のことは二人にしか分からない。それでいいのだと、悟ったからだ。

「……こんな良いお兄ちゃんがいて幸せだね」

 むりやりに軌道修正した言葉はどうもしらじらしい文句になってしまったが、それでも瀬見にはそれなりにまっすぐ伝わったようで、皮肉じゃない笑顔をほろりと彼は見せた。曇り空の奥で、飛行機の通過するジェット音が聞こえている。もうすぐ、掃除の時間の終わりを告げるベルが鳴る。瀬見はちょっといたずらに視線をもたげて、所在なく手にしていたほうきの柄の先端をくいっと天童のほうへ向けた。剣の切っ先をつきつけるわけにはいかないけれど、ひとつ、ふたつ、彼にしかできない忠告を天童の喉もとに突きつけるために。

「お前さ、にゴムなんかパシらせてんなよ」
「……はーい」
「あと寮に連れこむのもやめろ。ふつうに校則違反」
「げ、それは」
「親がいないとき、家空けてやるから。た、ま、に、は、な」

 ひとつひとつの音を区切って念を押すように言い放つ。まことに不本意ながら、といった具合に一語一音を乱暴に連ねて。天童は目を大きくひらいて、芝居がかったそぶりでひしと瀬見の二の腕に手を添えた。いつもの、コートの上で挑発的に振る舞う、少し無茶するムードメーカー。そういう役割としての彼の明るさが、その仕草には滲んでいた。

「お兄さま……」
「きしょい」

 そして二人は、あたたかい春風のように気持ち良く、花粉を吸いこんだときのように少しむずがゆく、同じタイミングで笑いあった。



 ぐずついた雨の一日や、晴れ間も見えない曇天が続いたその週。どうなることかと思っていたが、「来週末、空けといてよ」の約束の日は久しぶりに澄んだ空がひろがるあたたかな朝を迎えた。
 前日に決めた時間よりもだいぶ早く駅前に到着できるようにと、余裕をもって寮を出た天童だったが、待ちあわせたその場所にはすでにがいて、彼女は近づいてくる天童を見つけると控えめに手を振って彼を迎えた。ようやく春らしい気候がゆるぎなく街を覆って、は淡い色のショートパンツからすらっと脚をだした身軽な格好をしていた。ちょっと歩くからね、と言っておいたから、足もとはパンプスではなくエナメルのレースアップシューズだ。寮に来るときとは違う、なりの気合いをいれた服や、靴、髪型、少しの化粧。天童はぐっと喉を詰まらせた。とても、かわいくて。

「……早すぎ。あーもう、ひとつプラン狂った」

 十五分前に着いておけば先回りできると思っていた天童にとっては、の時間前行動はちょっとした誤算だった。彼のその言葉には少し目をまるくしてから、残念でした、と舌を出してくすりと笑みをこぼしてみせた。一体いきなり何を競っているのだか。今日という一日にふだんとは違う特別な高揚感を抱いているのは、どうやらお互い様らしい。なにせ、こんなふうにまともに待ちあわせをして、一緒にどこかへ出かけるようなまっとうなデートは、二人にとって初めてのことだったから。
 バスの時間と乗り場を今一度確認するために天童がスマートフォンをいじっていると、はなんだか心もとない表情をして何度か天童のことを見上げたり、視線をどこかへ放ったりして、やがて遠慮げに薄い紅をひいたくちびるをひらいた。

「今日は練習、よかったんですか?」

 気になっていたのはそれだった。のことだから、自分の兄が朝早くにエナメルバッグを背負って学校へ向かったことを知っているのは当然だ。いまごろ体育館では何をしているだろう。天童はふと思いを巡らす。何人か集めて三対三でもやろう、なんて言いあっているころかもしれない。

「ん、今日はね、自主参加」
「でもそれ、ほとんどみんな出るやつですよね」
「ひとと同じときにがんばれないなら、ひとと違うときがんばればいいから。今日はちゃんとデートしたいから、いいの」

 きっぱりと明快な口調だった。自信があるのだな、とは思う。自分が、ひとの見ていないところで、ひと一倍の、二倍の、三倍の練習を積むことへの。あるいは、もう彼はそうしているのかもしれない。このひとは、とても、とても、すごいひとなので。

「行こっか。一本前のバスに乗れそうだし」

 なんでもないふうに部活の話題を切りあげて、天童はに手を差し伸べた。の細い指先を手のひらで束ねるように、手をつなぐ。彼女がこくりと頷いたのを合図に、二人は並んで歩きだした。



 小一時間ほどバスに揺られて、天童がを導いたのは湖畔にひろがる県営の自然公園だった。
 バスに乗っているあいだ、天童はだいたいのとりとめのないおしゃべりの聞き役に回っていた。今週始まった新ドラマが面白かったなどと言われたら、あの女優いいよなと相槌を入れてみたり、高校の授業は進みが速くて大変だと彼女がしょげたら、あの教科の誰それはこういうテストを作るからと入れ知恵してみたり。けれども、お兄ちゃんと仲直りできたよ、とぽつりと言われたときは多くを返さなかった。ただ一言、よかったね、と天童は呟いた。にはそれで充分だった。二人はいつの間にかかすかに肩を寄り添わせながら、山道をゆっくりと運ばれていった。

 広大な平地に花畑がどこまでも続いている。遅咲きの品種の桜、早咲きのチューリップやパンジー、菜の花。はひとつひとつ足をとめて、はしゃいだ様子でたまには駆けたりもしながら春の庭を楽しんだ。お互いに花について詳しいわけでもないし、なんなら特別好きなわけでもなかったけれど、青空と鮮やかなコントラストをつくる春の草花たちは見ていて飽きるようなものでもなかった。が天童の手をひいて、今度はあっちいこ、と指をさす。天童は返事をして頷きながら、いつの日から自分は、そしては、こんな二人のひとときを望んだり夢を見たりしていただろうと考えた。、となりに居るのはかつて「最低」とののしった男だろ。どうしてこんな。どうしてこうも。明るい日差しを浴びて、らしくもない涙の気配をときおりいだきながら、天童はの手のひらを強く握りかえした。

 ひととおり花畑を歩いてからゆっくり昼食を済ませると、二人は湖に突きでた桟橋に向かった。手漕ぎのボートをひとつ借りて、足漕ぎのアヒルボートがぽつぽつ浮かぶ穏やかな湖に、舟を出す。悪友の助言通り、天童はおてんと様の下を歩く恋愛をしにきたのだった。が「しゅっぱーつ」と片腕を振るうのを合図にして、天童の漕ぎだしたボートは桟橋を離れた。湖の青は空の青とはまったく違う、目を合わせれば吸いこまれてしまいそうな深いブルーをしていた。

「せんぱいって、こんなふつうのデートするんですね」

 だいぶ沖まで漕いできたところで、はふとそんな間の抜けた感慨を洩らした。向かいあわせの狭いボート。体育座りのの、ショートパンツの裾の向こうに翳る太ももの白さ。いくらだって晒された肉体なのに、陽射しの真下で、それはまた別の神秘だった。

「俺のこと、なんだと思ってんの」
「だってー。あ、ここ、ほかの女の子と来たことがあったりするとか」
「おあいにくさま。モテないもので」
「ほんとに? 慣れてる感じする」
「慣れてるふりするのに必死なんじゃない?」

 一週間考えて、考えて、考えあぐねていたわけだから……とまでは言ってやる必要もない。は、ふうん、と言葉を切って膝の上で頬杖をつきながら、少しだけ押し黙った。沈黙のうちにも規則的なリズムでオールを動かし、水を分けて進んでいく。凪いだ湖に波乱はない。はしばらく、漕げば漕いだだけ進んでいくオールの動きをじっと見ていた。やがて口をひらいたときには、波ひとつないこの場所でなぜかの声はしっとり潤っていた。

「わたしたち、ふつうの恋人みたい」

 が誘うような上目づかいで天童を見つめている。頬杖をついた手のひらで小さな顔を半分ほど隠しながら。何ひとつしるしになるような言葉は二人のあいだになかったけれど、天童はのロマンティックなささやきに、だね、とだけ短く返した。だね。恋人だね。ふつうのデートをする、ふつうの恋人たち。だけど、そう認めあえるからこそ、けっしてこれはふつうなんかじゃない。ここにしかない。この恋のかたちは、二人にしかつくれないのだから。視線の先で、が目もとをほころばせている。天童は進行方向を気にするそぶりをして、の大粒の瞳からわざと目を逸らした。

「ねえ、せんぱい」
「んー、」
「向こうの桟橋についたら、帰りませんか。わたしの家、今日、誰もいないから」

 そんないきなりの提案をしながら、はいたってゆったりと景色を眺めていた。お兄ちゃんは朝から晩まで練習だろうし、お父さんは会社のひとの結婚式にお母さんと一緒に行ってる。つらつらと空っぽの家の話をして、少しばかり面食らっている天童の視線を、は獲物を捕らえるようにしっかりと奪った。なまめかしく、彼女の口角が上がる。

「はめて、わたしのこと」

 息が止まるかと思った。というか、止まった。絶句というやつかもしれない。の口から聞いたことのない、聞いたとしても信じられないようなはすっぱな物言いが、だけどなぜか、驚くほど彼女にふさわしかったのだ。それはもう、油断していると、魂ごとごっそり持っていかれてしまうのではないかと感じてしまうほど。

「……女の子がそんな言葉使わないの」

 それがやっとの呟きだった。は、たわむれに湖のみなもにひたした手のひらで天童にささやかなしぶきを飛ばした。天童の場違いな咎めをすぐさま笑いとばすように。それだけで彼はいちころだった。十五歳の美しい少女は、とびきり甘い響きで、とどめの一撃をこうしめくくった。

「処女じゃないのよ、せんぱい」









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2016.2