Ⅴ 硝子の少女 - 2




「なあー、日曜ってけっきょくどんな感じ?」

 ぱち、ぱち、ぷち、ぱち。向かいのベッドの上で足の爪を切っているルームメイトに向かって、風呂上がりの髪をタオルで拭きながら天童は尋ねた。四月の、新学期の授業が始まってちょうど一週間が終わった金曜日の夜。高校生活も最終年ともなれば新学期だからといって特別変わるものは何もない。クラスもずっと同じメンツだし、もちろん、水泳部のこの男とも同じ部屋に入寮して今年で三年目ということになる。

「あー、外出るかな。K女とカラオケ。天童も来る?」

 このあたりの女子高の名前を挙げて、自分の足から目を離さずに天童が絶対にイエスとは言わなさそうな誘いを彼は投げかけた。分かっていながら、おそらく。水泳部で二年のころから自由形のエースを張るこの男はどうも遊び人の気があって、この部屋に連れこめる女が少なくとも一人はいるくせにしょっちゅうほかの女友達と遊び回っている。自分にはないたぐいの精力だと天童は常々感じる。別に、感心はしないのだが。

「行くかよ。んじゃ、空いてんのねこの部屋」

 天童が念を押すように確認をとると、彼はすぐにその確認の意味を察したのか、ぱっと顔を上げたときには呆れた表情をしていた。いや、お前にそんな顔をされる筋合いはない。天童は心のなかでそう突っこみを入れる。

「お前また? どんだけしけこんでんだよ」
「ほっといてくれる」
「そんなにイイんだ?」

 唐突にそう問われ、天童は一瞬なんと返そうか迷ったが、とりあえず嘘いつわりない言葉で答えておくことにした。

「よすぎ」

 正直な天童の一言に、ルームメイトは吹きだしてけらけらと笑った。二人なんの気兼ねもない言葉と、反応。天童にとって、この男と相部屋だったということは高校三年間の立派な成果のひとつだ。別に都合が良いとか助かるだとかそういう意味ではなく、気の置けない悪友という存在を得たということ。それは中学生までの天童にはけっしてありえなかった関係のひとつだった。仲が良いというのは断じて違う。というより、クラスも違うので学内で話すことは稀だ。それでも二人のあいだにしか生まれない話題というのは確かにあって、今みたいな一日の終わりに、ぽつりぽつりと近況を披露したりする。誰にも言えない、相手にしか言えない、互いの核心を突いた言葉があるのだ。例えば、こんなアドバイス。

「けどさーお前、たまにはデートとか行けば? 公園でボートでも漕いでこいよ。少しはおてんと様の下を歩く恋愛もしとけって。それから存分にやればいーじゃん」

 ベッドに座ったままゴミ箱を片手で引き寄せ、彼は切った爪をぱらぱら捨てながら話す。おてんと様の下を歩く恋愛。目からうろこのワードである。お前が言うんか、という側面はあるものの彼の適当に放ったその言葉が、天童には妙に奥深くまで突き刺さった。「おてんと様」も、「恋愛」も。

 と天童の関係ははじまりをしるしづけるのがとても難しい。例えば、出会いをはじまりとするなら二年前の四月。口づけを交わしたのは一年前の五月。初めてセックスを……つまり、つながったのは半年前。だが。そもそも二人の関係とは一体なんだというのか。もはや行為は足りている。過多と言ってもいいくらいには。かといって肉体の相性を差し引いたときに何も残らないのか、と問われれば、それも今さらない。そこまで分かっていて今以上を求めないのはあの光景が未だに強烈に脳裏に焼きついているからだろう、と天童は思う。あの春の日の、兄妹の。――つーか自分、向こうからキスしてこられたことすらないんですけど。ほんと、勘弁してほしい。こういうこと考えちゃう感じ。

 心と身体。順番なんてあってないようなものかもしれないが、だとしたらなおさら、片方が宙ぶらりんのままでは味気ないし、踏み外した階段があるのならそれを今から踏み直してはいけない理由もない。それは、言われてみればとても当たり前のことだったのだが、二人の関係にとってはそう簡単なことではないように思われた。けっきょく自分は、こわいのだ。肉体を使わずに、彼女に自分を選ばすことが。



 日曜日が来て、天童はルームメイト不在の寮部屋に、いつものようにを招いた。ただし、いつものように、の一言で済まされるのはそこまでだった。部屋のドアを閉めた途端、天童は金曜日の夜に悶々と考えていたしょうもない悩みをにいきなり解消してもらったのだ。つまり、は天童の着ていたパーカーの襟口を引っ張ると、むりやり天童に腰をかがめさせて荒っぽく口づけた。数歩先にあるベッドに向かうのすら待てないとでも言うように。しかも、くちびるを合わせながら服越しにこちらの下半身を触ってきさえする。何か不器用なくらいに積極的な態度でが自分を求めてくるので、デートだのボートだの一昨日のほのぼのした思考回路は天童の脳内で一瞬のうちに焼き切れてしまった。呆れるほどに、脆い。天童はの細い躯体をドアに押しつけ、彼女の着ていた薄手のニットセーターを捲りあげた。やわらかなふくらみに手を触れるために。昨日、はからずも彼女の自宅に邪魔したとき(いや、少しははかったかもしれないが)は、愛想もなかったくせに。メールも既読のまま無視したくせに。いつも促すまで何もしないくせに。なん、なんだ。くそ。

「せんぱい、このままして」

 そして、くちびるを離せば間髪入れずに舌足らずな声でこんなことを自分から言いだす始末。なんだこれ、何か見て彼女なりに研究でもしてきたか。別にどんな誘われ方をしようと困ることはないけれど、ただ純粋に焦ってしまう。とはいえ、せっかくのの「やる気」をいさめるような気持ちに天童がなれるはずもなかった。やらしいんだね、今日は。そんなからかい文句すら喉を突かない。ただただ急いた求められ方をされて、自分の気持ちに消えない火がついてしまっただけだ。つけられた、完全に。だとしたら、しっかり消火してもらわないと、わりにあわない。

「言ったな」

 挑発でも仕返すように、耳もとでささやく。天童がの腰を引き寄せて下半身を押しつけると、彼女はなまめかしく息を吐いて首筋に鳥肌を立てた。背の高い天童と冷たいドアに挟まれて、の華奢な身体はまるで押しつぶされているみたいな格好になっている。ドアに押しつけたまま行為するなんて、廊下を誰かが通りかかったときにちょうど声が洩れたらどうしてくれる。そんな頭があったならば、だって天童だって脱衣もそこそこに熱を擦りつけあったりなどしないのだ。の態度からして少々の乱暴はむしろ望まれているだろうとたかをくくり、天童は自分の脚を彼女の脚のあいだにわりこませての身体をやや突き上げるように支えた。愛撫になんてそうそう構ってやれそうもない。下着をずらしてじかに彼女のふくらみをつかみ、ただ自分の興奮を高めるためだけに小ぶりな胸を揉みしだく。それでもにはよかったみたいで、ふだん必死に声を隠している彼女がずいぶんとあられもなく啼いたものだから、天童もすぐさま下半身に熱が溜まっていくのを感じた。別にわざとらしく声を出されるくらいなら、ほんとうの声を押し殺した静かなセックスのほうが好ましい。いつもならそう思っているのに、今はまともに嗜好を楽しむことも思考を働かすこともできなかった。反応があるということ。の身体が、自分の身体に応えるということ。それだけでいい。よすぎ。なんて安いのだろう。でもその安さが、なかなかどうして、とても金で買えるような既製品とは思えないのだ。

 の身体をいいように扱いながら、そして彼女に服越しに性感帯をさすられながら、天童は以前、管理棟のさびれたトイレの個室でとこうしたときのことを思い出していた。あの踊り場は春が近づくと文化祭の準備であれこれひとが出入りするようになるから、ちょうどそのとき備品チェックの先客があって、仕方なく数階下のトイレに避難したのだ。二人は狭い個室で不自由を分け合いながら、した。最後までした。いつもと違うスリルと、窮屈さとが、二人を暴走させてしまった。そのときの感覚と少し似ている、と天童はぼんやりと思う。あれは最高だった。

、ゴムは」

 しばらくぶりに意味を成したそれは、ずいぶんと掠れた声だった。服の上から下半身を押しつけているだけでも、こめかみに弾けるような快感が走る。余裕が失われかけているとき、天童はのことをよく呼び捨てた。天童にとってはほとんど無意識のことだったけれども、はその法則にとっくに気づいていて、名前を呼び捨てられるたびに天童が興奮しているということに興奮した。実にシンプルな問いかけひとつ。昨晩、に買ってきてくれと頼んだ避妊具を、天童はに求めたはずだった。けれども彼の急いた声に、はなかなか答えなかった。天童の腰にひっつき、が彼を見上げる。不自然なくらいに瞳を潤ませながら。

「……ないです」
「は?」
「つけないでしてほしい……」

 高まり続けていた性感が、その瞬間、しんと凪ぐ。それははっきりと男を誘惑する声だった。天童のことをではなく、男という性のことを。そういう、ひとつの型としてのこの場におあつらえむきの、だからこそ変に浮いてしまっている一言。このままして、とはそういう意味だったのか。納得している場合でもないのに、ぼんやりと冷静なひらめきが一瞬だけ脳裏を横切る。その時点で、天童にはうっすらと分かった。これは、こんな言葉を吐くのはじゃない。じゃないものを、自分は一切抱く気はない、と。
 そんな、天童の想いなどまるでお構いなしに、は彼のズボンをおろそうと指をさまよわせていた。腹部に彼女の生ぬるい手の感触。とっさに、やめろ、と声を荒げて天童は初めての身体を自分から引き離した。どん、と彼女の後頭部がドアにぶつかる鈍い音がする。わずかな沈黙のひびが入り、遠くの談話室だろうか、誰かがげらげらとばか騒ぎしている声がかすかに耳に入った。

「――萎えた」

 どこもかしこも肉体はまだ少しも萎えてはいなかったけれども、頭で感じた違和感をとにかく伝えようと天童は乱暴にそう吐き捨てた。すると潤んでいたの瞳がにわかに決壊したものだから、天童は萎えたというよりも、一気に怯んでしまった。不安定すぎるの態度に。引き離してしまった身体をすぐさま引き寄せて、ぼろぼろと泣きじゃくるを胸に閉じこめる。不規則に吐き出される熱い呼吸をなだめるように、天童はの背中をさすった。

「……何があったの。なんでも聞いたげるから、先輩に言ってごらん」

 間抜けに捲れあがったセーターの裾をおろして着直させてやると、も少しは落ち着きを取り戻したようだった。それでも声には涙が滲んでいて、はまだしゃくりあげながらでしか話せないようだ。こみあげた感情にせっつかれているような、そんな彼女の泣き顔を天童は初めて目の当たりにしていた。泣き顔なら何度だって見たことがある。泣かせたことなど数え切れないばかりにある。それでも、こんな顔、見たことない。その証拠に彼は初めて、胸を、指を、温もりを捧げて、本気での涙を止めようとしていたのだ。

「お兄ちゃんに、せんぱいのことぜんぶ、見つかっちゃった」

 全部。の涙を親指で拭いながら、天童は昨日の、の自宅のキッチンでの出来事を思い返した。少し迂闊なことをしてしまったとは思う。もしかしたら自分の頭には、いっそのこと見つかってしまえばいいのにという考えすらあったのかもしれない。秘密を共有することが二人のつなぎ目だったはずなのに、だ。秘密をとりさったとき二人をつないでいるほんとうのもの。は、もしかしたらその空欄に剥きだしの肉体をひとまず入れてみたのかもしれない。そう考えるとほんの少し、天童はを叱りつけたい気分に駆られたけれど、彼女をこうしたのは間違いなく自分なのだということに気づいて、ぐっと苛立ちを喉の奥に押しこめた。

「で?」
「……自分をもっと、大事にしろって」
「あー…それで、反抗期になってたのね」

 大事にしろと言われて、自分を粗末にしたがった。完全なるあまのじゃく。天童はなんだか気が抜けて、それでいて、やはりに少し腹が立つのだった。兄、兄、兄、兄。また兄のこと。それにしても、のそもそもの秘密は間違いなく兄への想いだったはずなのに、今、彼女が泣きじゃくっているのはなんの秘密のためかといえば、この部屋やあの踊り場で練りあげられた関係のそれなのだ。自分の抱える秘密がいつの間にかすり替わっているということに、彼女は気づいているのだろうか。気づきたくないのではないか。こわいのだ。その恐怖はもしかしなくとも、自分が抱えているそれと同じようなたぐいのもので。

ちゃん。今度さ、デートしよっか」
「……でー、と?」
「うん。来週末、空けといてよ」

 きょとんとしているの背中をさすりながら、天童はこれからのことをひとつずつ考える。とりあえず、が泣きやんだら――。が泣きやんだら、近くのコンビニまで走って避妊具を買ってこよう。そして、のことを甘やかすためだけにせいいっぱいの丁寧な手つきで彼女を抱こう。来週末のデートプランを考えるのは、そのあとの、そのあとの、そのあとだ。









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2016.1