rain in the water

1




 降りしきる夏の大雨が、深く仕舞いこんでいたはずの彼女の退屈を錆びつかせていく。
 ゆっくり、だけど紛れもなく、それはどこまでも浸食されて、溶けだしたようないびつな穴が今にも開いてしまいそうだ。は、奇妙な息苦しさを覚えながら、目の前で淡い影を注いでいる男を見上げた。髪を覆うように被せられたタオルからも、肩にかけられたジャージからも、嗅ぎ慣れないにおいがする。ただ息継ぎするだけで、ただならぬ緊張と少しの痺れがの全身に逐一とどろいた。

「天童くん、濡れちゃう」

 絞りだすようなか細い声は、自分の情けなさを自分自身に告げ知らせるだけのものだった。すっと涼やかな視線をに投げ、天童はひとつも表情を変えずに今いちどの肩にジャージをしっかり巻きつけた。紫色と白のツートンカラーの上着は、にはどうにもぶかぶかだ。袖を通していないと細い肩からすぐに滑り落ちてしまいそうになる。

「だいじょうぶ……いいから、着てな」

 部活前にちょっと着てたから、すこーし汗クサいかもだけど。そう言葉を付け加えられて、はしっかり首を横に振った。ようやく、人間らしい動きというものができた。ようやく、まともに意思を紡げた。何がどうしてこうなってしまったのか、天童の仕事は早くて、ソツがなくて、戸惑いと遠慮なしには他人とかかわれないには圧巻だったのだ。大げさでも、なんでもなく。

 ちゃちで心もとないバス停の軒下に、二人はひととき身を寄せ合っている。学校を出て最寄りのバス停までぐらい濡れて行ったっていいだろう、という考えの甘さをは今さら後悔していた。手持ちのハンカチはすぐに使いものにならなくなって、濡れた髪や肌に張りつくブラウスを持て余していたとき、どういうわけかクラスメイトの天童覚がバス停を通りかかったのだ。はびっくりしてまともに挨拶することもできなかった。何しろ、彼の所属している男子バレーボール部の練習がまだとうぶん終わりそうにないことを、この目で確認したばかりだったのだから。
 天童がの肩越しに遠く目を細める。どしゃ降りの雨のせいで見通しは悪かったが、車道がカーブする視界の突き当たりに、今、かすかなヘッドランプの明かりが見えた。の目当てのバスが来る。天童は止む気配のない雨をちょっと見上げてから、手にしていたビニール傘をに押しつけた。

「傘、つかって」
「……え?」
「寮、すぐそこだし。俺、走ってくから」
「でも、」
「別に返さなくてもいいよ、ビニ傘だし。ジャージとタオルはまあ、そのうち返して」

 あれこれ押し問答をしている猶予はなかった。エンジンの音を立ててバスが停車する。生温かい排気ガスの風が濡れた足の合間をすりぬけていく。バスを降りてから使え、ということなんだろうか。タオルや、着るものまで貸してもらって、そこまでの親切を受けとる筋合いはないのかもしれない。だけど、そのときのには天童の素っ気なくも過剰な、洪水のように内側になだれこんでくる優しさを、どうやって拒んだらいいか分からなかった。睨んでいるつもりはないのだろうが、天童の目には迫力があって、その目を見るといつも、は言いたいことや言うべきことをすっかり忘れてしまうのだ。

「あ……ありがとう」

 天童の薄い笑みが見えない洪水をせき止める。彼の与えてくれた好意が出口を失い、の息苦しさはいよいよ溺れているかのように切実なものになった。雨のなかに消えていく背中を見送る暇もなく、無言の車掌に急かされるように、はバスのステップを駆けのぼるしかない。こんなに濡れていればがらんどうの車内でも座るわけにはいかないから、吊革につかまって揺られながら、はずっと身体のあちこち、五感のそれぞれに染みついた天童のことを考えていた。
 遠くで雷が鳴っている。青白く閃く光が、の思考に細かなキズをたくさんつくってしまったのか、今しがたひとけのないバス停で二人きりだったはずなのに、はもう彼のことを滑らかに思いだすことができなくなっていた。



 翌日、はふだん起きる時間よりも一時間も早く目を覚ました。目覚まし時計のアラームではなく、携帯電話の着信に起こされて。昨日の晩から数えると、三度目だ。メールも一通届いているけれど、まだ読んでもない。読まなくても何がどう書かれているか、なんとなく分かってしまうから。
 身支度をととのえ、紙袋をひとつ大事に抱えて家を出る。昨日の豪雨なんてなかったことにしてしまうような、すこんと晴れた青空の日。朝のホームルームに天童覚の姿はなかった。一時間目が始まっても、一時間目が終わっても。だから二時間目の授業に移動していたとき、は思わず通りすがった顔見知りのバレー部員に声をかけてしまった。顔見知りといっても、は顔を見知ってるぐらいの関係で、気安く異性と話はできない。話しかけられるということは、それなりの親しさのあかしには違いない。仲の良し悪しは、別にしても。

「あの、瀬見くん」
「ん?」
「今日って、天童くんお休み? かな……」
「え、あいつ授業出てねえの」

 の問いかけに瀬見英太はぎょっと瞼を上下させて、うーん、と何かを思案するように頭をかいた。は彼のことを中学生のころから知っている。白鳥沢は中高一貫校ではあったけれど、男子バレーボール部に関してはスポーツ推薦を利用して高校から入ってくる部員も多かったから、こういう知り合いは貴重だった。

「天童、昨日から風邪気味でさー、早めに切り上げろってコーチに言われて昨日は大人しく帰ったけど。朝練には一応来てたから、学校には居んじゃね? 寮戻ったら、放課後の練習参加できねーし……」

 瀬見は律儀な性格で、何かを問えばきちんと自分の言葉であるがままを応えてくれる。それはとてもありがたいのだけれど、ひとはみな、自分ができてしまうことを他人にも当たり前のように求めてしまうものだ。は咄嗟に考えをまとめるのが下手だったし、つい天童のことを訊いてしまったけれど、どうしてそんなことを訊くのかと聞き返されたくはなかった。

「そっか、ありがとう。ちょっと借りてたものがあったから」

 ふうん、と言った瀬見の顔にはまるで興味というものが滲んでいなくて、はひそやかに胸を撫でおろした。けれどもそのあと、踵を返したを呼び止めるようにして紡がれた瀬見の言葉は、だから彼との会話は苦手なのだと、に思い直させるには充分なものだった。

「つーかお前さ、若利にメール返してやんな? あれ、分かってねえから。そういうまわりくどい拗ね方」

 別に拗ねてるわけじゃない、けれど。そうやって少しでも強気に返事ができる性分だったなら、瀬見だってこんなことをずけずけに言ったりはしない。瀬見くんはいつも、若利の味方。そうやっていつまでも子どもじみた線を引いている、己れの意固地さだけが浮き彫りになる。あいまいに頷いて、は逃げるように理科室まで小走りに向かった。どうしてあんな半端な時間にひとり、天童がバス停を通りかかったのか。あのとき、傘は要らないと、その一言が言えていたならば。そう思うと、感情を心からうまく取りだせない自分に苛立ちが募った。たとえ、手に負えない洪水に言葉を押さえつけられていたのだとしても。



 落ち着かない気持ちで、は残り三時間の授業をやり過ごしたけれど、とうとう天童は午前中の授業に顔を出さなかった。まともに通らない喉になんとか昼食を押しこんで、は三階の教室から一階まで逸る気持ちで階段を降りていった。中庭に面した渡り廊下を抜けて、ひとつとなりの校舎に保健室がある。深呼吸をして、勇気をもってそのドアに手をかけた。あまり縁のない白い世界。寮に戻ってないのだとしたら、気兼ねなく横になれる場所はここしかなかった。

「天童くん、いますか」

 自分なりには声を張りあげたつもりだったのに、昼休みの保健室は思ったよりも騒がしかった。養護教諭がひとり残ってはいたが、昼休み中のアクシデントで足を捻った男子生徒につきっきりだったし、教師用の机といくつかの丸椅子は、油を売りに来ていた女生徒たちがお喋りをしながら占拠していた。はドアを閉じて、きょろきょろと視線をさまよわせた。奥の部屋には仮眠用のベッドが並んでいて、間仕切りのカーテンがひとつだけ閉まっている。消え入るような声で、失礼します、と一応の断りを入れて、は上靴を脱いで訪問者用のスリッパに足を差し入れた。

「あっ、天童くん」

 わずかに閉じきっていなかったカーテンの隙間から、特徴的な赤茶色の髪がちらつくのが見えて、はつい考えもなしにその名前を口にした。口にしてすぐ、恥じたり、後悔したりする間もなく、カーテンがぱっとひらかれる。上体を起こしてベッドに身を預けていた天童は、を見とめて少しだけ驚いたような顔をしたけれど、顔色が悪いとか、だるそうだとかいうことはなく、いつもと特に変わった様子は窺えなかった。プールのあとの午後の授業のように、前髪がひたいにかかっていること以外は。
 何か、話さなくちゃ。そう思ってひらきかけた口は、小さな電子音に遮られた。ふいと天童が視線を落として、胸もとに手をさしこむ。その仕草では、天童が制服のシャツのボタンをふたつはずしていることに気がついた。腋にはさんだ体温計を確認するため、白く引き締まった胸筋がちらりと一瞬はだける。は慌てて目を伏せた。だけどそんなの困惑など、天童はまるで気にしない。彼は至ってマイペースに体温計のデジタル数字を覗きこみ、期待はずれだとでも言うように眉をひそめた。

「んー……惜しい」
「……惜しい?」
「ジャスト七度。まあ、余裕。もうちょっと下がってほしかったけど」

 俺、平熱ひっくいんだよねえ。そうぼやくように呟いて、天童は体温計をベッドサイドに放り、シャツのボタンをひとつ留めた。ジャスト七度。三十七度の体温は確かに特別に高いわけでもないが、かといって低くもない。自分だったら、きっとしんどくて何もやる気が起きないだろう。挨拶まがいのやり取りをすべてふっ飛ばして、は彼の生の体温を知ってしまった。昨日から、まともな、いつもの二人の距離を踏み外してばかりだ。天童が自然なそぶりで顔を上げたので、は紙袋の手提げをつかんでいた右手のこぶしに不自然な力をこめた。

「午後は出るよー。授業ぜんぶ休んで部活出たら、鍛治くんコレでしょ完全に」

 両手の人差し指で、こめかみに二本の鬼のつのをつくって、おどけたように天童が笑う。鍛治くん、と彼が親しみをこめて呼んでいるのは男子バレーボール部の監督の名前だ。付き合いは中等部から持ち上がりの部員より短いはずなのに、妙に絆が強く感じられるのは、天童の分け隔てのない接し方のせいなのか、彼がじきじき監督に選びとられてここでバレーをしているせいなのか。には知るよしもないけれど、微熱を抱えた天童が当たり前のように下した判断を思えば、その生活の中心にあるものの重大さは明らかだった。

「……どっちもお休みするのは、だめなんだね」
「だめだねえ、それは。絶対だめ」
「そっか……でも、じゃあ、これ持ってきてよかった」

 部外者が、知った顔してお節介したり、心配したりできる世界の話じゃない。それぐらいはにも昔から心得があったから、かわりに手にしていた紙袋を彼に差し出した。中身を見るよりもはやく「あれっ、もう?」と天童は口にする。昨日、帰宅してすぐ、は洗濯機を回した。タオルもジャージも、乾燥までして、きれいにたたんで、紙袋のなかに入っている。はこれを渡すため、朝からずっと不在の天童のことを気にかけていたのだ。
 お互いに遠慮を孕んだありがとうを言い合ったあと、どちらの落ち度でもない沈黙がふと訪れる。ふしぎな感覚だった。気まずいとか、焦りも感じず、かといってくつろいだ気持ちになるのでもなく、何がそのあとに待ち構えているのかも分からないのに、それは次の一言のための助走のような静寂だとは思った。膝の上の紙袋に両腕を乗せて、天童が踏み切る。高く、まっすぐ、言葉がをめがけて弧を描いた。

「昨日、待ちくたびれちゃったの? 若利くんのこと」

 問われた先で、昨日の放課後のことが脳裏にひろがる。同じようなことは今までも何度かあったけど、連絡さえなかったのは初めてだった。だけどはそれをうまく責められないし、かといって広い心で許すこともできない。それが、友人でもなく、家族でもなく、恋人でもない、二人の関係の限界だった。さみしく傷つくのであれば近づかなければいいのに、近づくことを疎まれなければ、自分は今もこうして後ろを着いていくことをやめられない。独りになるのが、こわいから。

「……うん。約束、覚えてないみたいだったから。でも、大した用事じゃなかったし。拗ねてんなって、瀬見くんに怒られちゃった。……それで、天童くんにも迷惑かけちゃったし。ほんとうに、ごめんね」

 勢いに任せて、なぜだか余計なことまで言ってしまったような気がして、そんな自分に驚かされる。笑ってごまかそうとしても、天童はまったく面白いことなどないというふうに真面目な顔をしていた。弱い冷房の風が冷や汗を舐める。熱い。それなのに心がかじかんでいて、は震えそうになった。微熱のある天童よりも、自分のほうがずっと変な病気にかかってしまっているみたいで。

「迷惑だとか全然思ってないけど。英太くんは厳しいね、さんに。あ、若利くんに甘いのか」

 自分で言ったら卑屈にしかならないことも、天童が淡々と言葉にすればそれは彼の観察眼のたまものになる。天童は深く干渉しないだけで、はっきりと身の回りに張り巡らされた人と人との網目のことを理解していた。は心の真ん中にあるわだかまりをはっきりと射抜かれて、どうしてかうらはらに表情が強張っていくのを感じた。いっぱい、いっぱいだった。天童に顔を覗きこまれ、昨日流れこんだ水が、すべて、熱のあぶくに変わる。

「そんな顔しないで。俺はけっこうさんに甘いでしょー?」

 足にかけていたブランケットを軽く二つ折りにして、天童は紙袋を片手にベッドから抜け降りた。じゃあまた教室で、と言って彼がをそこに置いて一足先に保健室を出ていってしまうのを、は呆けたような表情で見送るしかなかった。
 またどうせ、あの小さな部屋のなかで、四十人のうちの一人と一人として、同じ時を過ごすことになる二人。ふつふつと煮えている水のゆくえを、見失った出口を、は悟ってしまった。言葉になんかしなくても、本当に確かなものは、けっして蒸発してなくなったりはしないのだ。









中編 →

2016.7